第13話 厄介な鳥 ~初夏/理雪

 夕日が差し込むいつもの場所。背後の防火扉がガチャガチャ鳴っているのに気づき、俺は振り返った。が、音の主は一向に現れず、扉からは相変わらず金属音が聞こえてくる。どうも、うまく開けられずに苦労しているようだ。

 こんなところに来る人物なんて、清掃当番か物好きな女生徒くらいのものだ。多少不審に思いながらも、きっと後者だろうと予想した俺は防火扉をこちら側から開け放つと同時に、声をかけてみる。

「誰か、いるのか?」

 すると、誰かが弾丸のように外へと飛び出してきた。

「きゃっ!」

 軽くはない振動が俺を襲う。しかし、体当たりされたといっても、小柄な生徒にぶつかられたくらいは何ともない。難なく受け止め、いったん抱きかかえた彼女を扉の前に立たせてやる。顔が真っ赤なのは夕焼けのせいだけではないだろう。

「やはり藤倉か。元気だな」

 藤倉は大慌てで俺から離れると深々と頭を下げた。

「ごめんなさい! あの、ちょっと片手が塞がってて、体で開けようと思って。こんなに軽く開くとは考えてなくて。……すみませんでした」

「大変そうだったから気を利かせたつもりだったんだが、まさか飛んでくるとは。逆に余計なことをしたようで、すまない」

 聞けば、自由な左手だけでは重い扉をどうにもできずに、結局は肩を使って押し開けようとした。だが、思い切り体重をかけた途端に俺が扉を開けてしまったため、勢い良く激突した――ということらしい。

 抱き止めた藤倉の柔らかさがまだ腕に残る。俺はそれを振り払うように問いかけた。

「手が塞がってというと、ケガでもしたのか?」

「いえ、これなんです」

 藤倉はそう言うと、右手に持っていた小さな箱を俺に差し出した。教室に常備してあるチョークの箱である。受け取ってみると中身は空ではなく、軽いながらも手応えがあった。どうもチョークではないものが入れられているようだ。

「傾けないように持って、そーっと開けてください」

 彼女の指示通り細心の注意を払いつつ謎の小箱の蓋を開けると、中には破いたティッシュペーパーが敷き詰められており、その中央には毛玉のようなものが鎮座している。俺が毛玉を指でつついてみると、チュッと弱々しく鳴いた。その声と見覚えのある茶色い羽の色は、日本一身近な野鳥のもの。

「スズメ、だな」

「はい。ケガしてるんです。こことか、あと、ここも」

 促されてよく観察してみる。

 毛玉もといスズメの背には、確かに乾いた血の跡がある。引っかき傷の跡は、十中八九、猫の爪によるものだろう。獲物にされそうだったところをなんとか逃げのびたという様子だ。

 普段見かけるのよりも少し薄く、くすんだ色合いからすると、巣立ったばかりの雛かもしれない。愛らしいはずの小鳥は、元気がない上に、汚れたり羽が抜けたりしてどうにもみすぼらしい姿になってしまっていた。俺でさえ眉をひそめるほどの惨状なのに、藤倉はよく頑張ってここまで連れてきたものだ。

「帰ろうと思ったら自転車置き場の隅っこにうずくまっていたんです。目が合ったような気がして、思わず拾ってしまいました。教室にチョークの箱があったのを思い出して、中身を全部開けて。……先生なら、お世話の仕方とか分かるかな、と思いまして」

 とはいえ、箱を覗き込む彼女も沈痛な面持ち。まるで小鳥の痛みを全て肩代わりしているかのような悲壮な顔で、ここまでのいきさつを説明してくれた。教室に行けば、黒板の粉受けにはチョークが山のように置かれているのだろう。少々笑える光景ではあるが、彼女の必死さは充分に伝わってくる。

「それで、ここに連れてきたという訳か。飼う気なのか?」

「傷が治るまで、面倒を見たいんです」

 本来なら、野生で生きているものを安易に人の手で保護することは『不自然』で、あまり勧められたものではない。それに、生物教師だからといって俺が生き物の飼育方法にまで詳しいとは限らない。メダカやカエル、ラット、ウサギくらいなら実験動物として世話をしたことがあるが、残念ながら野鳥となると範疇(はんちゅう)外だ。

 猫に狙われ、傷を負って衰弱し、冷たいコンクリートの上にぐったりと倒れ込んでいる小さな鳥。恐らく他の生徒は避けて通るか、見ぬふりをしたはずの血と泥で汚れてしまったスズメに、迷わず手を伸ばす彼女の姿が目に浮かぶ。それを思うと、俺の心は温かく膨らんでいくのだった。

「もちろん元気になったら逃がします。野鳥って、確か飼っちゃいけないんですもんね。……だって、いまさら見捨てられないんです」

 藤倉は考え込んでいる俺が否定的だと見たのか、困り果てた顔つきで涙目になった。

 彼女のすがるような目に出会ってしまうととても他を当たれとも言えない。頼られるのが嬉しいのは事実であるし、そもそも藤倉のお願い、しかも泣き落としを俺が断れるわけもないのだ。自分の単純さに苦笑しながら、俺はスズメの箱の蓋を元通りに閉める。

「残念ながら私は鳥の飼い方には詳しくないんだが、生物部の蔵書に参考になる本があるかもしれない。一緒に探してみるか?」

「はい!」

「まず、とりあえずは傷の応急処置と栄養補給をするのがいいと思う。……私は実験室でブドウ糖液を作って待っているから、藤倉は保健室で事情を話して消毒薬と脱脂綿をもらってきなさい。薄めれば、鳥にも使えるだろうからな」

「ありがとうございます!」

 今度はパッと言う音が聞こえてきそうなほどの笑顔に変わる。まったく、忙しいものだ。

 期待に満ちた眼差しで俺を見上げる彼女に向けて、俺は精一杯努力して笑顔らしい笑顔を作る。

「礼には及ばない。……君のそういうところが、私はいいと思っている」

 途端に、なぜか目を丸くして微動だにしなくなった藤倉のために、俺は先に立って防火扉を開けてやった。



 数日後の早朝。

 藤倉は小さな段ボール箱を手にいつもの場所に現れた。今日は、快復したスズメの放鳥式――といっては大げさだが、要は飛べるようになったので逃がしてやろうというイベントだ。

「寂しいけど、良かったです」

 言葉通りの複雑な表情を浮かべ、彼女は段ボール箱に目を落とす。もちろん、中には例のスズメが入れられている。絶えず、箱の中からカサカサと怪しげな音が聞こえるところからすると、治療のかいもあったというところだろうか。

 拾ったその日は看病と心配とで眠れなかったらしく、次の日の生物の時間は居眠りをしていた藤倉。放課後、それを指摘すると真っ赤になって平謝りに謝っていた。はじめのうちは、警戒からなのか餌を食べないと言って、飲み水に溶かすブドウ糖(本来は生物科所有の試薬なのだが、大目に見てもらいたいものだ)を分けてもらいに生物準備室に来たりもしていた。週末も自宅から出ずに、ずっとスズメの隣にいたという。その献身的な看護には頭が下がる。

 そんな日々も今日で終わりだ。ここしばらくの彼女をねぎらって、朝早くて誰もいないのをいいことに俺は頭を撫でてやる。

「よく頑張った」

 柔らかい髪は朝の陽射しを浴びて温まっていて、体温の低い俺には心地よい。三度ほど手を行き来させたところで、藤倉は俺を見上げると照れくさそうに笑い、「死なせたくなかったですから」と肩の荷が下りたかのように言った。そして、紅葉の木の根本にしゃがみこみ、段ボール箱をそっと置く。

「じゃあ、開けます」

 蓋を仮留めしていたガムテープに手を掛け、俺を見上げると、緊張の面持ちで彼女は言った。変に気負った様子なのがなんだか微笑ましい。

「自分のタイミングでいいぞ」

 俺の同意よりも、彼女の気持ちの方が大事であるはずだ。藤倉は頷くとしばし箱を見つめていたが、やがて再び開けにかかった。今度はためらいなく、ビッと音がしてテープが剥がされ、蓋が開けられる。

 スズメは急に流れ込んできた外気に驚いて体を震わせた。朝の光に一瞬ひるんだようにも見える。

「飛んでっていいんだよ――あ!」

 藤倉が声を掛けたときには、スズメはすでに体勢を立て直して白い空へと飛び去っていったところだった。一目散といったその様子は、ここまで長らく面倒見てきた藤倉にとっては呆気ないものだったらしい。立ち上がった彼女は口をちょっとだけ開けたまま、声を出すのも忘れてスズメを目で追っていたが、その姿もあっという間に見えなくなってしまった。

 俺は、すっかり行動が停止したきりの藤倉の肩を叩く。

「……無事、巣立ったな」

「そうみたいですね。……でも、ちょっとくらい振り返ってくれてもいいのになって思ってしまいました」

 そう言って、藤倉はやっと口を閉じた。しかし唇を尖らせて空を見上げ、未だ名残惜しそうにスズメの行方を探している。

「良かったじゃないか、元気そうで」

「それは嬉しいんです、けど」

「野鳥にとっては、警戒心が薄れることは致命的なんだ。人間を避けない野鳥はただの愛玩動物になってしまう。きっと、あれでいいんだろう」

「はい。……うん、そうですね。それに、ずっと飼い続ける方がかわいそうですよね」

 そこでようやく、藤倉は肩の力が抜けたらしかった。やっと彼女の笑顔を見ることができて、俺もつられて頬が緩んでしまう。自分が納得して初めて、報われた、といった表情になるのは、責任感の強さからくるものか。大役を果たした藤倉は、まだ温もりが残るだろう段ボール箱を穏やかな瞳で見つめていた。


 屈託無い彼女の様子にほっとしながらも、俺は別の巣立ちに気を取られていた。

 ここで昔、泣いていた藤倉を励ましたことがあった。確か、二年前の夏。藤倉の成長に驚かされ、また、その眩しい未来に思いを馳せた夜だった。

 あのとき見えたものよりも、さらに大きく広げた翼でしっかりと羽ばたく藤倉が俺の目の前に立っていた。彼女はあと数ヶ月もすればこの高校から巣立ってしまうのだと、今さらながらに思い知る。

 もしできるなら、攫って閉じこめて、ずっと手元に置いておきたい。しかし、飛び立とうとする鳥を無理に拘束してしまえば、俺がそうあって欲しいという藤倉ではなくなるだろう。俺が見ていたいのは、旅立ちの日に備えて懸命に翼を動かす藤倉であり、いつの日か大空を翔けるであろう藤倉の姿なのだ。

 飛んで行かせるのは惜しいが、自分の元に縛り付けたくはない――心がそんな矛盾に支配され、何とも落ち着かない。


 不意に、体が前にのめった。見れば、藤倉は気分上々といった晴れやかな顔で俺の白衣の両裾を引いている。

「ん? どうした?」

「まだ時間ありますし、お祝いにコーヒーで乾杯しませんか」

「そうだな。……せっかくだから、新しい豆を出そうか」

 藤倉は、香りが楽しみです、と自分の提案に満足そうに笑いながら、空になった段ボール箱を畳んで抱えると校舎の方へ向かい、歩き出していた。弾んだ声に誘われるままに、俺も慌ててその後を追う。

 この鳥は、今はまだ俺の懐にいてくれる。

 やがて旅立つ彼女の隣をいつまでも守っていくためには、俺はどうするべきなのか。おぼろげだった絵が、しっかりと浮かび上がってき始めたような気がしていた。

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