第17話 何物にも染まりえぬ心 ~冬/理雪

『気が早いけどごほうびはもう決めてたりします』

『まあいい、転ばないように気をつけてな』


 何度かのやり取りを終え、改めて藤倉からのメールの受信時刻を見ると、試験終了の五分後だった。不安だったのか、できの良さに張り切ってすかさず連絡してきたのか。文面を見る限りでは後者と思えたが、実際に話してみるまでは安心できない。彼女に限ってそんなことはないだろうが、もし失敗していたなら永久就職でも勧めてみようか。

「……そんなことは言えないか」

 冗談にしてはたちが悪いかもしれない。心の中で呟いて頭をよぎる悪い考えを振り払い、俺は部屋の片付けを始めた。

 まず、冷蔵庫を覗き込む。いつもなら無条件でコーヒーを出すところだが、朝のメールでは胃が痛いと漏らしていた。ならば、ミルクで薄めてカフェオレにでもしたらいいだろうか。

 そういえば、誕生日に彼女からもらったプレゼントはまだ使う機会がないまましまってある。今日は格好のお蔵だしになるかもしれない。果たして、彼女は喜んでくれるだろうか。


 今日は、センター試験の二日目。藤倉は俺が卒業したのと同じ大学の、同じ学部、同じ学科を志望していた。無事に受かれば、直接の後輩ということになる。

 俺はといえば卒業しても学生街を離れがたく、社会人になっても比較的大学に近い場所に部屋を借りていた。試験会場でもある大学からは徒歩十数分というところ。じきに、彼女も着くだろう。


 目に見えるあたりを一通り片付け終わり、件のプレゼント――バリスタエプロンを巻いたところで呼び鈴が鳴った。

『こんにちは、藤倉です』

 次いで、ドアの外から彼女の声が聞こえてくる。実際は昨日も電話で話をしているが、何だかやけに懐かしいのは気のせいではない。去年の終業式以来、勉強に専念するのだということで会っていなかったのだ。かれこれ一ヶ月近く、お互いの顔を見ていないことになる。

 扉をぶち壊さんばかりの勢いをなんとか抑え、平静を装ってドアを開けた俺への彼女の第一声は、「バリスタさん!」だった。

 その反応は仕込んでいた身からすれば確かにありがたいが、受験生はもっと他に先に報告すべきことはないものだろうか。そう言ってみると、藤倉は慌てて付け加えた。

「試験はわりとできた気がします」

「それはこれからじっくり聞こうか。……狭いが、上がってくれ」

「お邪魔します」

 彼女はきっちりと靴を揃えると、俺の後についてくる。

 藤倉をこの部屋に通すのは、二回目。しかも前の一回は、俺たちがまだこういう関係になる前のことであるのを考えると、初めてといってもいい。全くのゼロと言えないところは胸を張れないが、俺の自制心もたいしたものだと思いたい。

 相変わらず小柄な身体に、丸い目と顔。当たり前だが、久々に見た藤倉は最後に会ったときと何ら変わらない姿で現れた。それがこんなにも嬉しいなんて――それは、新たな発見だった。

「まずはお疲れさま、でいいのか」

「そうですね。結果はともかく、少し休みたいです」

「休める結果になっているといいな。……一服したら、答え合わせをするぞ。覚悟しなさい」

「はい、バリスタさん」

 藤倉は俺の言葉に、相変わらず明るい調子で答えた。顔色もいいし、よく笑う。落ち込んでいる様子も特に見られない。どうやら本当に調子よく試験を終えたようだ。そう確信し、俺は彼女に背を見せてキッチンに向かいながら、密かに頬を緩めた。


「橙南の理学部なら、これくらい取れればいけるだろう。まさか、今回はマークの位置がずれたりはしていないだろうな」

「いくら私でも――たぶん、してませんよ」

「そううろたえるな。本気で言ってはいないさ」

 前科者である藤倉は、はぁ、と大きく一息吐いた。

 各大学のボーダーラインが出そろうのはもう少し後。しかし、自己採点の結果だけでそう判断しても充分なほどの得点だ。むしろ、志望校のランクを一つ上げてもいいのではと言いたくなるほどに。

 当たり前のことだが、藤倉は時を重ねるごとに頼もしくなっていく。もちろん勉強においてだけではなく、身体も心も。それをいちばん近くで見守り、ときに追いかけようとして焦る――それはきっと、楽しいことだろう。彼女と出会ってからのこれまでが、楽しかったように。

 俺の淡い思いなどつゆ知らず、彼女はいつにも増してにこにこと顔を綻ばせながら言った。

「ご褒美を希望してもいいですか」

 先ほどのメールで宣言していたあれか、と俺も快くうなずく。

「そうだな。……これならご褒美三つ分くらいはあげてもいい。言ってみなさい」

「三つも考えてきませんでした」

「無理に三つ言う必要はないぞ」

「ええと、ですね」

 さっきの勢いはどこへ行ったのか、口ごもる藤倉。落ちつきなくさまよう視線、マグカップを持ったままの手はせわしなく動いている。何かよからぬことを考えていると気付いた俺は、テーブル越しに顔を近づけると尋ねる。

「いったい何だ?」

 藤倉は顔を上げ、やや後ずさるように身体を引いた。熱を秘めた瞳で俺を見上げる。

「……ほんとのことを言うと、寂しかったです」

「え?」

「先生もこんな気持ちなのかなって、何度も確かめようと思いました。虫のいい話ですけど、もしそうだったら嬉しいな、と。でも、私のセンターのために『会わない』ってことにしたんですし、そんなこと言えなくて。……上手く言えないけど、こんなに、その、大事というか、先生が私の中でどれだけ大きいのか、思い知りました」

 聞き返すと、堰を切ったように言葉が溢れ出してくる。ちょうど一年ほど前、バレンタインの日に、彼女が俺に思いを打ち明けたときに似ている。溜めに溜めた心を吐き出すときの藤倉は、いつもこうなのだろう。

 ふと、彼女の瞳に不安げな光が射す。

「だから、今日はちゃんと先生と一緒にいるって、確かめたいので。……お願いします。名前で、呼んでください」

「名前?」

「はい。もし先生が、私が『椿』だと思ってくれているのなら」

「それは、俺が量って、決めてもいいものなのか」

 藤倉は、真顔でうなずいた。

「先生だから、教えてほしいんです。私、椿でしょうか?」

 それを今更、俺に尋ねるのか。

 いつだったか、俺と彼女それぞれの名について話をしたことがあった。藤倉は、自分の名前に強い誇り――それは、ある意味ではコンプレックスとも言えるのだが――を持っている。平たく言えば、『理想の自分』というハードルが高すぎる。俺から見た彼女は、自分の名に負けてはいないか。それを、聞きたいのだ。

 再び視線を藤倉に戻すと、彼女は痛々しいほど真っ直ぐに、俺の言葉を待っていた。

 ――また、不安にさせている。離れていた数週間だけでなく、一緒にいる今も?

 考え事をするのについ無言になってしまうのは、俺の悪い癖だ。いくら考えたって、いや、そもそも考えるまでもない。今更――答えなどとうに決まっているが、口に出さなければ伝わらないか。

「分かった。覚悟はいいな」

「覚悟、ですか? ……いえ、できてません」

 どうなっちゃうのか分かりません、と彼女がやや堅めの表情で笑った。その表情に感じる、胸を締め付けられるような痛みは何だというのだろう。そして、同時に感じる今にも弾けそうな期待は、いったい何と呼ぶべきものなのだろう。

 ――何の覚悟なんだ、と改めて自問自答する。藤倉に言ったというよりは、まるで俺自身に言い聞かせているかのようだった。俺とて年相応の経験を積んできたつもりだから、これまで女性を名で呼んだことが無いわけではなかった。しかし、今回は何かが劇的に変わってしまいそうな予感が心を占める。

 軽く目を閉じ、大きく一息吸って、吐く。ゆっくりと目蓋を上げると、やはり祈るような面持ちで正座したままの藤倉が視界に飛び込んでくる。

 俺は、唇を開いた。


「……椿」


 普段、人よりも低い俺の声は、もしかしたらいつもより上ずっていたかもしれない。

「君は、椿だ。出会ったときから、そうだった。そして、今はさらに素晴らしく咲き誇っている。……それと――聞くまでもないだろう。いや、そういう言い方はないか。ちゃんと、言わなくてはな。俺だって、寂しかったさ。だから、泣かないでくれ」

「これ、勝手に出てきたんです。悲しくて泣いてるわけじゃないですよ」

 はにかみながら返事をする彼女は可憐で、これまで見たどんな姿よりも幸せそうに見えた。立ち上がる手間さえもどかしく、俺は藤倉ににじり寄ると、その背中にそっと両腕を回す。すると藤倉は慌てて俯き、目尻をぬぐうと再び顔を上げて笑う。瞳が潤んではいるが、泣いているわけではないらしい。

 俺の心は名を呼ぶ前と変わらない。ただ、もともと近かった距離が、さらに近づいたような気はする。もっと近づきたいと、単純にそう思った。

「君もだ。……理雪、と」

「でも」

 明らかに躊躇しているのが、手に取るように分かる。

「子供じみていると笑うなら笑え。……君ばかり、ずるい」

「笑いません。……笑っているとしたら、嬉しいからです。やったあ、って思ってますから。こうなることに憧れてたけど、現実になるわけないっていじけたりもしました。諦めなくて、ほんとに良かった」

 そう言いつつ、藤倉はくすりと笑みを漏らす。俺はといえば、言ってしまったこととはいえ恥ずかしさで急速に余裕が無くなりつつあった。赤くなっているであろう顔を見られるのもばつが悪く、彼女を抱きしめている腕に力を込めてごまかす。

 やがて、彼女はいたずらっぽく言った。

「じゃあ、先生がもう一度私を呼んでくれたら」

「椿」

 間髪入れず、返す。

「……理雪、さん」

 遠慮がちに押し出された声に、俺の中の『何かへの期待』は途端に膨れあがった。我が侭なもので、早くもう一度呼んで欲しくなる。何度も何度も、その唇から紡がれたいと痛切に思う。

「先生の名前を呼べる日が本当に来たなんて、嘘みたいです」

「今日からは『理雪さん』だ」

 しまった、という顔の藤倉に、俺は感謝を込めて告げた。

「椿が、そう望み続けてくれたからだ。ありがとう」

 飽きもせずにひとしきり名を呼び合うと、心地よい沈黙に浸る。まるで、会えなかった時間を埋めるかのように。

 明日になれば俺も生徒たちとの自己採点と進路指導の嵐に、そして彼女はさらなる壁との闘いに巻き込まれることは分かっている。だから、今日だけは――。


 バサリ、と派手な音がして我に返る。テーブルを見ると、今日の主役のはずだったセンターの問題用紙が、俺たちの身体に引っかかって床へと落下していた。俺はそこで、『たちの悪い冗談』を再び思い出す。

「先生?」

「いや、何でもない」

 藤倉が、不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。

 『永久就職』は今の藤倉には必要ないものになってしまった。が、もし今後、二次試験が芳しくなかったら――勧めてみるべきだろうか。

 俺はそんなことを本気で考える可愛らしい自分に気付き、思わず頭を抱えそうになった。

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