第16話 その目は闇に濡れていた ~秋/椿
「残念だが時間切れだ、藤倉」
「あ、本当ですね。あっという間でした」
日曜の夕方、家や学校から一時間半ほど離れた海に、私たちはいた。水族館でイルカのショーを見たり、強い海風に煽られながら、寒い寒いと文句を言いつつ海岸を散歩したり。しかし、楽しいときはもうおしまいだと時計が告げている。
私は、先生の顔から視線を外して、夕焼けの色に染まりつつある海を見納めた。日はかなり傾いたが、今日は太陽が沈み切るまで見届けることはできない。先生といられた一日が終わるのは寂しいけど、仕方がない。せめてこの景色をしっかり覚えておいて、次にこうして会える日までの栄養にしないと。
私がそう言うと、先生は「明日、学校で会うんだぞ」と眉間に皺を寄せたが、それきり黙りこむと海を見つめていた。ちらりと盗み見た横顔にはオレンジ色の夕日が映り込み、何となくもの悲しそうだった。
「そろそろ、戻りましょうか」
「……そう、だな」
珍しく、先生は歯切れ悪く答えた。
美しい夕日が売りの海岸とはいっても、晩秋、しかもこんなに寒い日に見に来ようという人は少ないらしい。お昼過ぎに停めたときにはかなりのスペースが埋まっていた駐車場だったけれど、今では先生の車のみが取り残されてしまっていた。先生に似合う、いわゆる『外遊び』向けの大きな車は、寂しげにぽつんと、私たちを待って佇んでいた。
車に乗り込むと、先生はかじかんだ手を温めようと暖房を入れた。私も自分の温度を上げるために冷えた頬と手を擦り合わせる。
先生と一緒に、日が沈むのを見たかった。以前ほどは気にしないようにしているつもりでも、こういうときは『生徒』の肩書きが恨めしい。
「ずっと今日が続けばいいのにって思っちゃいました」
「……それは、無理な注文だな」
しかし、先生のいつもよりさらに低い声で、私はすぐに自分の失言に気付いた。そもそも、この時間で切り上げなければいけないのは私の門限のせいなのだ。もし私が大人だったら――なんて考えても、どうしようもないこと。
先生が、メガネを外す。クロスを取り出して拭きながら、「気持ちは分かるんだが」と、いつものトーンに戻って彼は続けた。
「例えば藤倉以外の女生徒でも、教え子が門限を破るまで男と一緒にいたと聞いたら、いい気はしないだろうしな」
「時間を限らせちゃってるのは、私のせいなんですもんね。……仕方ないんでした」
「仕方ない、か。それで割り切れないから、困る――」
手を止めてレンズを夕日に透かしたまま、先生はそう吐き出すように言うと固まった。語尾ははっきりしないまま、エアコンの音に溶けた。私に向けていたのか、先生自身が自分に言い聞かせていたのか、どちらとも取れる。
きっと呆れられたんだろうな、と、私は落ち込む。
気持ちを切り替えよう。
今日、こうしていられるだけで幸せなのだ。私をここに連れて来てくれた先生を、これ以上困らせたくはなかった。申し訳なくて、先生に改めて話しかけようと運転席を見ると、メガネをかけていない先生と目が合う。
先生は、眩しそうに目を細めた。橙の光に照らされる中、裸の瞳だけが先生らしくもなく歪み、闇色が滲んでいる。
「あの、今日はありがと――」
「藤倉」
私の言葉を遮り、少し薄めの唇が一言だけ紡ぐ。
その言葉が終わるやいなや、バン、と鈍い振動がして目の前が真っ暗になった。
何が起きたのか分からなかったが、気付けば運転席から先生の身体が乗り出してきて、助手席の私に覆い被さっていた。すっかり面食らって目をしばたく私のすぐ前に、先生の顔。頭の上、助手席のヘッドレストに、麻のジャケットの腕が見えた。さっきの揺れは、ここに腕を叩き付けた音だったのか。
「先生」
その声にはっとしたように、先生はのろのろと運転席へと戻る。
「ごめん、な」
彼はハンドルに肘を乗せ、大きな手で自分の額を支えた。少し堅めの先生の髪が、骨張った指で乱れてぐしゃっと鳴る。
思えば、夕日を眺めていたころから先生の様子は変だった。いつも、多少照れくさそうに私を導いてくれるはずの先生が、今日は硬い表情だったり、ぼんやりしていたり。彼はずっと何かを思い悩んでいたのに、私は尋ねることが出来なかった。
先生は、怯えたような目で言葉に詰まりながら呟いた。
「乱暴だった、だろう。……怖くは、なかったか」
「大丈夫ですよ。それに、先生なら」
多少強引でびっくりはしたけれど、抱きしめられた以上の何かをされたわけではないし、怖くはない。例え怖いと思ったとしても、相手が先生なら嫌ではない。
「だいぶ前に、気安くそういうことをいうなと、言っただろう」
「気安くありません」
「では、気安くではなくても、だ。……触れたくなってしまうんだ」
先生は、困り顔で口元を緩める。前に同じことを言われたのはバレンタインデー、私が先生に思いを告げた日だった。
その頃からしばらく経ち、私の中には、さっきのように予想外のことが起きても受け止める覚悟もできている。私の覚悟なんて、大人の先生から見ればたかが知れているといったところかもしれない。でも、気安く、薄っぺらく言ったわけではないつもりだったから、少しだけ悲しくなった。触れたいときには、触れてくれて構わないのに。
でも、そんなことは先生――今日は、自分を必死で抑えているように見える――の前で軽々しくは言えないような気がした。いや、今日だけではなく、夏あたりからどうもぎこちなさを感じていたのだ。
何だかうまく表現できないけれど、たまらない気持ちだった。決して先生が怖かったからではなく、初めて聞く『ごめん』の弱々しさに、次の言葉が探せなかった。先生の前では泣くまいと、ずっと我慢してきた涙がみるみるうちにせり上がり、溢れて落ちた。
言葉で伝えられないなら。
言葉の代わりに、私は身体を動かしていた。私の涙に驚いた先生が名を呼ぶよりも、もっと早く。
「ふじ――」
ガサ、と、布と布とが擦れ合う音がして、今度は私が運転席に先生を組み敷くような格好になった。ハンドルを背にした私の下に、シートに沈んだ先生の顔がある。初めての視点で、変な感じがした。
彼の瞳に、私が映っていた。
目を見開いている先生に、そろそろと両手を伸ばす。瞳に映りこむ顔はじわじわと大きくなっていき、やがて、そっと寄せた私の唇に先生の乾ききった唇が当たった。
さっきは余裕がなくて気付かなかったけれど、彼は海風の温度がまだ残っているかのように冷たかった。少しだけ、ざらつく髭の感触がする。先ほどの先生のように抗いがたいものではなく、恐る恐る触れ続けていただけだったけれど、合わせた唇が暖かく、柔らかくなってきたのが分かる。
静かに顔を上げると、シルバーのフレームが無い先生の顔が視界に飛び込んでくる。少しだけ幼く見える表情は八歳年上の大人の先生ではなく、おかしな例えだけれど、私の『彼氏』である先生の顔。その頬は、私の零した涙で濡れていた。
倒れ込んだ状態のままで、私は静かに尋ねる。
「今の私、怖かったですか?」
「いや」
切れ長の瞳を細めて、先生は私の背中に腕を回した。そのまま、ぐいっと引き寄せられる。
「……とても、愛おしい」
もともと不自然な体勢だった私は崩れ、先生の上に完全に乗っかる形に落ちつく。意外に厚みのある胸板と、わずかに感じる肋骨の感触。私の顔が押し当てられたその胸から、ずいぶん速いリズムで脈打つ音が伝わってきた。
先生が今日一日ずっと考えていただろうことに、私は朧気ながらも思い至った。
先生だってこうして触れ合えばどきどきもするし、限られた時間がもどかしくて憂鬱になったりもする。互いの立場に不安を覚えたり、もどかしさを感じたりするのは、私だけではないのだということを。そう思ったらまた鼻の奥がカッと熱くなったけれど、先生の鼓動を聞いていたら落ち着いてきて涙は引いた。まるで見透かしたように、彼は呟く。
「泣かせてしまったか」
「先生の方が泣きそうでした」
「……そうかもな」
背中の先生の手に、ぐっと力が入る。五本の指のそれぞれがはっきりと感じられて、私は思わず息を吐いた。
「実はさっきまで、このまま無理やり連れ去ってしまおうかと、悪いことを思っていた。……生徒だの門限だのと口にしてなんとか納得しようとしたつもりが、考えているうちにどんどん計画が具体的になってきてしまって。どうにも抑え切れなくなって――つい、襲ってしまった」
先生は、何ごともなかったように苦笑を浮かべた。その笑いにたどり着くまで、どんな逡巡があったのかは分からない。けれど、さっきまでのたどたどしさが消えた流暢な話しぶりは普段通りで、私は安堵に胸をなで下ろす。
「嫌じゃなかったです。その、好きでいてもらってるんだ、って分かりましたし」
「ありがとう」
そこで言葉を止め、先生は私を見つめる。
「……一線を越えなかったことは誉めてもらいたかったが、まさか君の方から」
「あの、恥ずかしいのであんまり言わないで下さい」
繰り返されると、顔から火が出そうだった。でも、これくらいしない限り、先生は闇色のままなのではないかと恐ろしくなったのが本音だった。先生が――先生と幸せになるためなら、何でもできそうな自分に驚いてすらいたけれど。
先生は、裸の瞳で真っ直ぐに私を見ていた。揺るぎない視線だった。
「いつも一緒にいられなくても、今、隣に先生がいます。私、しばらくはそれで充分だと思います。……私が子供だから――ううん、先生が大人だからって、いつも我慢ばかりさせてしまってごめんなさい。先生こそ、たまにはわがままになってください。もっと、その――あ、甘えても、いいですよ。大丈夫です」
私の精一杯の宣言を聞いてしばらく、先生は珍しいことに目を丸くしていた。言ってしまったことの恥ずかしさに、私も黙り込む。
「今、割とやりたい放題だが。……では――できるなら、もう少しこのままで」
「わかりました」
しがみつくように、しっかりと先生の服の裾を掴む。相変わらず耳に届く鼓動は、いつの間にか緩く落ち着いていた。
「人攫いさんに連れ去られたいのはやまやまですが、私がこんなに乗り気じゃ無理やりにはなりませんね」
「まったくだ。計画を実行するのは、またの機会にしよう。……さて。名残惜しいが、いくら何でもこれはいろいろとまずいな」
力が込められたままだった先生の腕が緩む。その手を肩口に滑らせると、先生は私の身体を押し戻した。慌てて助手席に戻り、やや乱れていた服を直す。
一方の先生は今のどさくさで足下に飛んでいったメガネを拾い上げて、元のように掛け直した。いつの間にか、暖房はもうとっくに車内に行き渡っていて暑いくらいだ。
換気のために運転席の窓を開け、夕日の方を見やりながら、先生は「また来よう」といつもの声で言うと私を振り向く。レンズの向こうの瞳には、今度はちゃんとオレンジ色が差していた。
「もちろんです」
今度は、卒業したらまた来よう。夕日が沈むのを、先生と二人で見届けたいから。
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