第15話 夜にお待ちしてます ~夏/理雪
「先生!」
呼び鈴に手を伸ばし、鳴らすよりも前。まるで玄関を見張っていたかのようにドアが開き、藤倉が現れた。飛びつかんばかりの勢いで顔を出した彼女は、なんとか踏みとどまると両手をぽん、と合わせた。
「あの……お仕事は、終わったんですよね。早めに切り上げたとか、そういうことは」
「心配しなくていい」
俺がそう言うと、彼女は初めて笑顔を見せた。かと思うと急に身体の力を抜き、ドアにもたれるように崩れ落ちる。慌てて手を貸そうとするとそれを断って立ち上がり、俺を安心させるためだろう、にっこり笑ってこちらを見上げた。
「……気が抜けました」
俺がいない間の緊張の具合が痛いほどよく分かる、一連の仕草だった。ここに着くまでの間に多少自虐的になっていた俺も、その様子にいくらか救われる。雷が怖いという藤倉は、どんなにか心細かっただろう。いつかのように、無言で窓の外を眺めて耐えていたのか、それとも、俺の到着を心待ちにしてくれていたのだろうか。
「驚かせないでくれ。……雷は大丈夫だったか」
「ええと、まあ、はい」
「煮え切らないな」
「メールをいただいてからは、別の意味で落ち着かなくなってました」
照れ隠しなのか、藤倉は俯いて自分の足下を見た。知り合った頃と比べるとずいぶん伸びた髪が、彼女の表情を隠してしまう。そういえば、明かりが漏れる廊下の奥からは微かに紅茶の香りが漂ってくる。いつもがコーヒー党の俺には、それがことのほか新鮮だった。
「先生のおっしゃったとおり冷たい飲み物を淹れたりしていたんです。アイスティーです。せっかくですから上がって一杯いかがですか?」
彼女らしくない早口に、俺は違和感を感じる。まるで台本をそのまま読み上げたように用意され尽くされた台詞。きっと心の中で何度も唱えていたのだろうと分かる。いったいどれほどの勇気を伴った言葉だったろう。舞台の上ならばもっと自然に振る舞えるのだろうにと微笑ましくも思った。
それは、実に魅惑的な誘いだった。
外は雷雨だ。しかし、例え彼女が雷鳴に怯えていても、それをやり過ごすために俺を待っていてくれていたのだとしても、雷というキーワードで自分の衝動的な行動を正当化しているようにしか思えない。メールのやり取りの中で、彼女がたった一言でも『来て欲しい』と言っただろうか?
『そんなに浅ましい人間だったのか』
どこかにいる冷静な自分――独りのはずの女生徒の家へとやってきた男性教師を、冷ややかに見つめている――の声が聞こえてくる。気付けば、雷などというのはただの口実と成り果てていた。
わずかな逡巡の後、結局俺はもう一人の自分に負けた。
「いや、ここでいい」
今更に、立場を思い出していた。
「さすがに、中までお邪魔するわけにはいかないだろう。……ここでいいんだ」
繰り返したのは、自分自身を納得させるためだった。それがかえって彼女の全力に応えなかったことを身にしみて知らされる結果となり、目を伏せる。
藤倉は特に不審がることもせず「わかりました」と微笑んで明かりの方へと消えた。何故か大急ぎで戻ってきたと思ったら、タオルと座布団、それに菓子皿を抱えていて俺を驚かせた。
「髪が濡れていると、いつもの先生じゃない気がして。風邪を引かないように、ちゃんと拭いてくださいね」
「ありがたく使わせてもらう」
やはりいつもとは違って見えたのかと少し慌てたが、それよりも藤倉の心遣いに冷えていた胸が熱くなった。
しばらくの間、奥の部屋の方からは忙しそうな音が絶えず聞こえていた。それが止むと、トレイにグラスを二つ乗せ、藤倉が現れた。
「もちろんティーサーバーとか紅茶用のポットなんてうちにはなくて、茶葉もはじめはティーバッグしか探せなくて、どうしようかと思いました」
アイスティーは年単位ぶりに飲んだかもしれなかった。藤倉は普段通りのふわりとした笑顔で、身振り手振りを交えながら苦心を語ってくれた。家にたまたまあった茶葉で淹れたのでいまいちかも、と彼女は謙遜していたが、今の俺には爽やかな色と香りは嬉しい。
しばらく取るに足りない会話が続いたところで、藤倉はためらいがちに口を開いた。
「……本当は、ご迷惑だったんじゃないですか」
「何がだ?」
「こうしてわざわざ来てもらったこと、です」
柄にもなく上げそうになった声を、俺は短く息を吸って耐える。
藤倉は、飲み物の入ったグラスに目を落とした。まばたきが多くなり、それで告げたいことを頭の中でまとめているところなのだと分かった。多分、俺がよくする癖を真似たものだと思うのだが、面と向かって聞いてみたことはない。そういう姿を見守る時間が、今の俺にはとても大切になっていた。
顔を上げた藤倉は、意を決したかのようにきっぱりと言葉を紡ぐ。
「個人的な理由でこんな遅くに先生を呼び出すようなことになってしまって、少し後悔していました。それも、落ち着かなかった原因の一つだったんです。先生が気にしてらっしゃるのも、きっとそういうことですよね?」
この子は。
――この女性には、どうして分かってしまうのか。
すっかり言い当てられていた。きっと、眼鏡の奥の瞳が見開かれたことにも、彼女は気付いていただろう。雨を理由にして夜の藤倉に会おうとし、それを必死で隠し通そうとしていた俺よりも、藤倉の方がよほど相手のことを想い、考えていたようだった。
言い終えてなお優しい彼女の表情を目にした途端、俺のくだらない感情などはすっかりどこかへ飛び去ってしまっていた。悪いことに、俺の全神経はその場を取り繕うことだけに集中したのだ。そんなとき、心はどうしても『理雪』から『若柳先生』に傾いてしまう。
「……君が気に病むことはない」
「でも、先生は――」
「頼ってくれて当然なんだ。俺は、それで嬉しい」
彼女の言葉を遮って、俺は微笑んだ――つもりだった。上手く笑えていたようで、藤倉も「ありがとうございます」とはにかんでくれる。
これで良かったのだろうか。一抹の不安は、再びのとりとめない会話に流されていった。
眉一つ動かさずにアイスティーを取りに行った藤倉は、大人だった。
『でも』と何か言いかけた一瞬、彼女は深く傷ついたような、悲しげな瞳を見せた。後になってみると妙に気になる。
――彼女を傷つけるために行ったのではなかったはずなのに。
放課後の実験室で、『聞かれたくないことは一つもない』などと威勢のいいことを言ったのはついこの前のことだった。藤倉も、受け入れると応えてくれた。
それなのに、俺自身が藤倉の顔を見たかっただけなのだとどうして言えなかったのか。そんなに『きれいな教師の自分』でいたいのか。子供じみた部分こそ、大切な人にさらけ出すべきだったのではないのか。
「この恥知らずめ」
俺はそう呟きながら車へと走る。雨はまだ止まない。
何かに怒っているかのよう空のな荒れ模様に、俺は自らがどやされているような気がしてため息を吐いた。
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