第19話 砂糖は無しで ~冬/理雪

 椿、と呼びかけようとして彼女の不在に気付き、俺は苦笑いした。

 藤倉が志望していた大学の入試はすでに終わったが、手が空いたとは言っても、三年生は卒業式まで自由登校期間。藤倉が毎日ここに来るわけではない。なのに俺は、いつの間にか彼女がいることに慣れきっていたようだ。

 ふと顔を上げると、紅葉の梢は丸裸で、乳白色の空が透けて見えた。

 今年は厳冬で、サクラサクの知らせが飛び交うこの時期になっても分厚いコートが手放せない。その代わりに雪は少なく、こうしていつもの場所に出て、空を見上げることができている。

 吐く息が白いのにも関わらず、かじかむ手でホットコーヒーを飲む自分が滑稽で、俺はまた口元を緩めた。すでに『ホットコーヒーだったもの』は冷え切って、ぬるいという範疇からも外れ始めている。

 何となくそんな気分になった――それだけの理由で、白衣の上からダウンジャケットを羽織り、寒さを堪えながら立つ。我ながら非生産的な行動だと思う。ただし、何も生み出しはしないものの、これまでに生み出されたものを噛み締めることはできるようだった。

 早いもので、卒業式は来週だ。藤倉は卒業し、俺は教師を続ける。先生と生徒という縛りがなくなることで二人の間が密になることはあれど、悪い方に転ぶことはないだろう。

 彼女が卒業を迎えるからといっても、特別に何かしようとは考えていなかった。しかし、俺自身はイベントごとが苦手だが、藤倉はそうではないはず。彼女が喜ぶことがあるのなら何でもしてやりたいとも思う。今度会うときには、希望を聞いてみようか。

 背後の重い扉が鳴ったのは、ちょうどそんなことを考えていたときだった。


「そのダウン、かっこいいですね。それに、暖かそう」

 振り返ろうとした俺の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。声の主、藤倉は小さく「よいしょ」と言いながら防火扉を閉めると、俺の隣へとやってきた。彼女も相当な厚着で、まるでモコモコとした冬毛の犬のようだ。

「流行遅れの型落ちモデルだぞ。君が言うほど格好良くはないと思うが」

「そんな言い方、ひどいですよ」

 藤倉は非難の言葉を口にするが、その目は笑っている。どうやら形だけの抗議のようだが、ここは素直に謝っておいた方が良さそうだ。

「すまない。誉められて嬉しくないわけではないんだが、どうも慣れなくてな」

「ほんとに素敵だと思ったんですからね。その、何て言うか、私はかっこいいと感じたときにはかっこいいって言っちゃうと思うので、早く慣れましょう」

 慣れが必要なのは、俺よりも彼女のように見える。耳まで真っ赤にして、藤倉はぶつぶつと呟いた。

 ややあって、気が済んだのか、藤倉は俺を見上げると不思議そうに首を傾げた。

「ただゆ――先生、どうして今日は外なんです? 準備室に行っても誰もいなかったので、まさかと思って扉を開けたら」

「それを聞かれると困るんだが。何となく、気分転換というところかな。特に理由はないと思う」

「学期末はいろいろと忙しいんですもんね。冷たい空気とコーヒー一杯で、効率が上がるといいですね」

「そうだな。俄然やる気になってきた」

「その調子です」

 にっこりと笑って応援してくれる藤倉の笑顔に、俺は先程までの考え事を思い出した。ちょうどいい機会だから、尋ねてみよう――俺は、彼女の隣にしゃがみこんで顔を覗き込む。

「卒業式、何かしてほしいことがあれば言ってくれ。できるだけ善処するから」

 藤倉は、政治家みたいですね、と一瞬顔をしかめた後、紅葉の木のあたりを見つめて何事か考えていたが、やがて俺のダウンジャケットの中の白衣を指差した。

「その第二ボタン、ください」

 第二ボタンだなんて、何年ぶりに聞いただろう。俺の学生時代にもそんな恒例行事があったが、今の高校生たちにまで浸透しているのだろうか。

 ただし、その古い言葉は、藤倉には似合うように思えた。彼女の口から聞くと、可愛らしく微笑ましいことのように感じるから面白い。

「そんなことなら、お安いご用だが。意外と保守的だな」

「古風と言ってください」

 藤倉は笑いながら、器用にも口を尖らせた。

 からかったお詫びにと、俺はさらに「何か他のものも付けようか」と訊いてみたが、彼女はぶんぶんと首を振る。

「一つでいいです! 先生は人気者だから、他の女の子の分も残しておかないと。多分、お安いご用だなんて楽に守りきれはしないと思いますよ。競争率が高くて」

「そんなことはないだろう」

 こんな無愛想で未熟な教師が人気者だというなら世も末だ。もし万が一そうであるならば、皆もっと真面目に授業を聞いてくれてもいいだろうに、そんな気配すら感じたことがない。

 よほど顔に出ていたのか、藤倉は俺を見ると可笑しそうに答えた。

「先生はここ一年くらいで、支持率急上昇なんですよ。正確には、去年の今頃くらいから。……私が言うのもなんですが」

 『私が言うのも』の意味は、説明されなくても分かる。彼女と俺との関係が変化したのは、一年前の冬、バレンタインデーでのこと。つまり、彼女と付き合いだした頃から、みんなが俺を見る目が変わったということになる。

「でも、そんな中で私を――私を選んでくれたこと、嬉しいです」

 藤倉はあやうく聞き流してしまいそうなほど小さい声でそう言ったかと思うと、次の瞬間には「だから!」と仕切り直した。

「きっと、スーツも白衣もボタン売り切れちゃいますよ。着替えを準備しておいた方がいいです」

「……君の話を聞いていると、生徒たちがまるで追いはぎのように思えるな」

「追いはぎの中には私も入ってるんですか? ……とにかく、第二ボタンは予約ですから!」

 照れを振り払うように言い切り、彼女は薄曇りの空を見上げる。

 俺はしゃがんだまま、しばし考えた。

 周りが変わったんじゃない。一年前から変化が始まったのならば、それは俺が、藤倉に変えてもらった結果なのだろう。恐らく彼女はその事実に誰よりも敏感なのに違いない――俺本人が自覚するよりも、もっともっと。

 願わくばこれからもずっと側にいて、どんどん俺を変えていって欲しいものだが、それを藤倉に伝えるのは今日ではない。それこそ、卒業式にでも告白してみようか。彼女の驚く顔は好きだが、さて――。


「コーヒー、冷めちゃってますよ。先生は寒くないですか?」

 藤倉の声で、俺は我に返った。

「俺は寒――く、なくなったな」

 立ち上がってみたが、肌を刺すような寒さは確かにあるものの、冷えるという感覚は知らぬ間にずいぶん和らいでいた。

 そこで、やっと思い当たった。なんとなくなどではなく、俺はきっと、彼女がやって来るのを待っていたのだろう。まるで小さな火が灯るような優しさで、藤倉は心を温かくしてくれるのだ。

 俺の気も知らず、藤倉はつれないことを言い出した。

「では私、お仕事の邪魔になるといけないので帰ります」

「そうか?」

 呼び止めようと考える俺をよそに、彼女は校舎へ続く扉へと戻る。と、そこで振り向くと、情けない声で訴えてきた。

「……あの、でも、もし引き止めてくれるなら、一杯だけご馳走してくれませんか」

 俺が吹き出すと、彼女は恨みがましい目で俺を仰いだ。

「先生がいなかったら、こんな寒い日に外で立ち話なんてしません」

 藤倉の一言は、俺を喜ばせるのには充分だった。しかし、顔も心も緩みっぱなしでいけない。少し気を引き締めなくては、この後の仕事に響きそうだ。

「奇遇だな。私もだ。……ではご招待するから、少し暖を取ってから帰りなさい。ちなみに今日は、俺はブラックにするぞ」

「あれ、砂糖は入れないんですか? じゃあ私もそうしようかな」

 彼女の先に立って重い扉を開けてやりながら、藤倉の笑顔を盗み見て、俺はある決意を固めていた。

 今日の仕事が片付いたら、ボタンよりももっと彼女に似合う何かを探しに行こう。卒業式が終わったら、ボタンと一緒に渡すのだ。

 彼女は、驚くだろうか――?

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