彼は海の色

新樫 樹

彼は海の色

 目の前に広がるそれは、写真でしか見たことのない見事なコバルトブルーだった。強い潮の匂いの風に髪を乱暴に払われながら、これが海…と、まるで初めて見るもののように半開きの口の中で思わずつぶやいた。

「今日は天気がいいから、特別青いですよ」

 隣から穏やかだけれど芯のある声が聞こえる。

 風に流されることなく心地よく耳に届く声は彼の心根を表しているようで、わたしはただ黙って海に目をあてたまま胸の中の渦を見下ろしていた。



 市が主催する婚活パーティーにいたのは、単にわたしが役員だったからだ。

 働いている小さなカフェに、パーティーのフードを担当してくれないかという話が持ち上がり、オーナーは二つ返事で引き受けた。

 前日の夜遅くまで仕込みをし、当日も早朝から準備。

 総勢5名しかいない従業員がフル回転して、どうにかこうにか100人分の食事を作り上げ、会場のホールにセッティングし終えたのはパーティー開始1時間前。

「…オーナー、これいくらでOKしたんだろ。いつもの倍はもらわないと割に合わないわぁ」

 ぐったりと会場の隅の椅子にへばったままリーダーが言う。

 パーティーが始まれば今度はそのスタッフとして働かなければならない。

 ほんの束の間の休憩に、言葉を出すのも嫌だとばかりに誰もが黙りこくっていた。

 わたしもその一人だったのだけれど、ふと背の高い男の人が入り口をうろうろするのが見えて立ち上がる。

「どしたの? 春ちゃん」

「誰か来たみたいです。参加者だと思うけど、まだ受付の人来てないから行ってきます」

「えぇ~1時間も前にぃ? 気合入れ過ぎですよぉ。ねぇリーダー」

 若い声が口を尖らせるのへ苦笑を向けておいて、小走りに受付場所に向かう。

 こんなところにこんなに早く着いてしまって…という、気まずい気持ちにさせたくなかった。

「こんにちは」

 カフェの揃いのTシャツを着ているから、多分すぐにスタッフとわかるだろうと声をかけると、案の定こちらを向いた男の人はほっとした顔をした。

「すみません。このあたりに詳しくなくて。思ったよりもだいぶ早く着いてしまいました」

「いえ、大丈夫ですよ」

 受付のテーブルをざっと見渡すけれど、そこはまだ準備が終わっておらず受付処理はできない。

「申し訳ありません。まだ受付の準備ができていないようです…」

 言いながらどうしようかと考えた。

 会場で待ってもらってもいいけれど、さすがに手持ちぶさただろうし居づらいだろう。どこかいいところは…

「よろしければ、その出口を右に行ったところに海が見える庭があるんですが、お散歩でもなさってお待ちになりますか? とってもきれいですよ」

 にこりと言ってみると、彼は微笑んだ。

 見下ろしてくる顔は、ぱっとしないけれどひどく優しげで、ラフなヘアスタイルも服装も清潔感があって彼によく似合っている。これでもし安定した仕事に就いている人だったら、今日はモテるだろうななんて思った。

「では、そうさせていただきます。どうもありがとう」

 丁寧な言葉が堅苦しくなく聞こえるのは、彼の声のせいだろう。

 なんて穏やかな声だろう。

 くるりと背を向けて、長い足がすたすたと出口を出ていくのを見送っていると、背後から高い声がした。

「せ~んぱい、なに見とれてるんですかぁ? そんなにイケメンでしたぁ?」

 明るいいい子なんだけれど、この間延びした話し方が残念だ。

 もっとも、厨房から出ることがないから客からのクレームはないけれど。

「見とれてたわけじゃないよ」

 廊下の向こうからぱたぱたと数人の男女が走ってくるのが見えた。

 たしかパーティーの企画メンバーにいた人たちだ。どうやら今日は受付担当らしく、こちらに向かって怪訝な顔を向けていた。

「フードの担当をしている者です。よろしくお願いいたします。参加者がおひとり来られていたので、庭をご案内しておきました」

「…それはどうも」

 会釈して立ち去る背中で、もう来るってどんだけ結婚したいんだよなぁと、笑いを含んだ若い男の声がした。

 なぜかカチンとくる。

 そういうパーティーに来るんだから、当たり前じゃないの。

 バカにするなら企画すんじゃないわよ。

「先輩?」

 ああ、なんかイライラする。

「どうしたんですか?」

「え…ううん、なんでもない」

 持ち場に向かいながら、わたしはここの庭から見る海を思い描いていた。

 もともとは小さなホテルだったこの建物は、今は市役所が所有してイベントの会場として使っているけれど、わたしが小さい頃は夏のたびに観光客でとても賑わっていた。ホテルから歩いてすぐに海に行けるのを売りにしていて、その手軽さから子供連れの客が多かった。

 遠い遠い記憶の中の、家族で過ごした夏。

 ここの庭を抜けると一気にひらける海が、わたしはとても好きだった。両親もまだ幼かった姉も弟も、みんな眩しく笑っていて、わたしはそんな夏がずっとずっと毎年続くと思っていた…。



 パーティーはどうやら数組のカップルを作って終わったらしい。

 裏口に回わされてきた車に荷物を積んでいると、リーダーがとんとんとわたしの肩をたたいた。

「あの人、春ちゃんに用があるんじゃない?」

 目でさす先を見やると、あの男の人がこちらを向いて立っている。

 首を傾げると彼はぺこっと頭を下げた。

「ここはもういいから行っておいでよ。もしだったら、直帰していいから」

「やだ、何でもないですよ? 今日ちょっと案内しただけですから」

 いいからいいからと、リーダーはにんまり背中を押してくる。

 彼女はこの手のシチュエーションでは強引だ。

 嫌がっているように見えるのもどうかと思って、わたしは押されるままに彼のところに向かった。

「…お仕事中すみません。お礼が言いたかったもので」

 とっさにちらりと周囲を見たけれど、女性はいなかった。

 この人がカップルにならなかったのは意外だ。

「それでわざわざ来てくださったんですか? かえってすみません」

「あの、少しだけ、お時間いいですか?」

 わずかに言いよどみながら彼は言い、その頬がほんの少し赤らんでいるように見えて、わたしは自分の胸がとくりと高く鳴ったのを感じた。

 頷いたのを見届けてから、彼は庭にいざなう。

「今日はありがとうございました。受付で…助かりました。僕は、森村俊と言います。三十歳です。保育士をしています…」

 ふうっとひとつ息をつく音がする。

 顔を上げると彼は、つと口を結んだ。

 何か言葉を探しているようだった。

「…その、今日会ったばかりのあなたに、こんなことを言うのはどうかと思ったのですが、そういえばこんなパーティーに参加した身だったと思い直しました…」

 苦笑を浮かべ、頭をかく。

「もし、あなたに決まった方がいなかったら、僕と……お付き合いしていただけないでしょうか」

 誠実そうな瞳と、どこまでも穏やかな空気。

 この人なら大丈夫かもしれない。そんな気がした。

「…桜井春子です。わたしなんかでいいんでしたら…。あの、同い年ですね」

 彼の、うれしいという気持ちをそのまま乗せたような顔が、わたしの胸まで温かくした。



 あれから数回のデートをした。

 何度会っても、森村さんは最初のイメージと少しも変わらない。

 彼の優しさや穏やかさを居心地がいいと思う。

 いつも子供を相手にしているせいかもしれませんね。

 彼はそう答えて笑うけれど、わたしはそうじゃないと思う。

 

 海が好きだと言ったら森村さんは、じゃあ僕のとっておきを見せましょうと言ってドライブに誘ってくれた。

 そうして今、わたしは生まれて初めて目にするような、コバルトブルーの鮮やかな海の色を見ている。

「……僕の実家がこのあたりにあったんです。もうなくなりましたが」

 小さな漁村。

 昔ながらの家々が並び、ぽつぽつと物干し竿に魚や海藻が干してある。

「そうなんですか…」

 もうなくなった実家。そのことに触れていいのかどうかわからなくて、わたしはそれだけ言って海を見続けた。

 そして、彼が慣れ親しんだ海はこんなに飛びぬけて美しい海だったのかと、なんだか胸苦しくなった。

 あの日。

 婚活パーティの会場から見る海を、とてもきれいだと彼に言ったけれど、なんてことはない、彼の海の方がずっとずっと美しい。

 わたしの海は、なんて灰色で薄汚い海だったろう…。

 遠い思い出と汚い海の色が、胸の中でぐるぐると渦を巻く。

 ああそうだ。あのときだって、海は美しくなんてなかった。眩しくなんてなかった。

 ふと視線を感じた。

 隣を見ると森村さんが心配げにこちらを見つめている。

「どうかしましたか?」

「…え?」

「何でもないならいいんですが、少し…悲しそうに見えたので」

 一瞬、言葉が出なかった。

「…超能力者みたいですね。森村さんて」

 やっと言って誤魔化すみたいに笑う。そろそろ行きましょうか、そう続けようとしたとき。彼は静かに言った。


「僕が小さいときに、漁師だった父が海で亡くなりました。母は僕を連れてここを離れ、母の実家のある街へ移り住みました。ここへ来たのは、それ以来なんです」

 心の中が白くなる。

 ここが、彼の「場所」なのか…。

 ふとそう思った。

「本当はずっと来たかったんです。でも来れなかった。…最近、母が入院して、しきりにここの海のことを話すようになって。パーティーに出ようと思ったのも、この海に一緒に来てくれるような人に、出会いたかったからかもしれません」

 もっとも、すぐに出会えるなんて思っていなかったのですが。

 彼は言っていつもの微笑みを浮かべた。


「……保育園の子はまだ言葉が足りなくて、言いたいことを言えないんです。だから僕らは言葉に頼らない。それが習慣になってしまったのかもしれません」

 何を言おうとしているのだろう。

 首を傾げると、ふうわり光をたたえた瞳がじっと見つめ返してきた。


「桜井さんが海が好きだと言ったとき、なぜだか悲しそうに見えました。何か悲しい思い出でもあるんだろうかと思いました。でも、それでも好きだというくらいに強い思いもある……。それがあんまり僕の気持ちと重なっているように見えてしまって、思わずここへ連れてきてしまいました。辛くさせてしまったならすみません。…けれど、僕は桜井さんとここへ来れてよかった。もう一度この海を見られて、感謝しています。ありがとう」


 暴かれたというよりも、見つけてもらったという感じがした。

 かくれんぼで長いこと放っておかれた小さな子供が、わたしの中でやっと見つけてもらえたと安堵している。

 もういいのだ。

 見つからないように息をひそめなくても、もういいのだと。


「……パーティーのあった会場の海、あそこは小さいときに家族で毎年来ていた海なんです。あの頃は、ほんとうに楽しかった。けど、何回目かの夏、わたしはうっかり足の届かないところへ行ってしまって、溺れたんです。それを助けようとして、姉が溺れて…。わたしが目を覚ましたときには、もう。……家族は誰もわたしを責めたりしなかったけれど、それがすごく辛かった。…苦しそうに、あなたのせいじゃないと言われるよりも、いっそお前は人殺しだとなじられた方がよかった。………死んだのがわたしならよかったのにって、ずっとずっと思ってました」


 ぎゅっと抱きしめられた。

 肌寒くなってきていた潮風から守るように、大きな体に包み込まれる。

 彼は黙って抱きしめ続け、わたしはじっと抱きしめられていた。

 心がほどけるようだった。

 彼の胸に顔をうずめて目を閉じると、見えないはずのあの海が広がる。

 灰色に渦を巻くそれは、少しずつ少しずつ色を取り戻して、眩しい青になっていった。白い波頭を乗せて。

 懐かしい笑い声が耳の奥をかすめる。

 暖かな日差しがふっと彼の体温になり、海の青は彼の微笑みになる。

 わたしは、顔を上げた。

 彼はなにも言わずに、ただ穏やかにわたしを見つめる。

 わたしもまた、彼の凪いだ瞳を見つめた。


 波の音がする。

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