カケル・ディキンソン

「ククル……ククル」

名前を呼ばれたのなんていつぶりでしょうか。

旅人は自分から名乗らない限り、めったに名前なんて呼ばれないのです。

「ククル……起きてよ。ククル」

その声に手を引かれるように目を開けると、そこには一人の少年が立っていました。

まるで女の子のような線の細い、そしてあどけない顔。

さらさらと風に揺れる色素の薄い髪。

そして、まるで旅人とは思えない白いシャツと黒のスラックスだけという出で立ち。

「やあ、久しぶり。やっと起きたよ。僕のこと覚えてる?」

そこは草原をすっと伸びている道の脇。岩の陰。

どうやら少し休憩するつもりが、寝入ってしまっていたようです。

「ククルは本当に無防備だなあ」

抜けるような靑空の下、その少年が朗らかに笑います。

それはまるで気ままに揺れる花のような笑顔でした。

誰にでも愛想を振りまくような。

そして、決して自分の心は見せないような。

どこまでも無防備で、そしてどこまでも心を見せない。

「僕のこと、覚えてる?」

その笑顔を崩さず、少年は私に問いかけます。

私は、この少年を知っています。

間違いなく知っています。

でも、どうしてでしょうか。

その表情も、仕草も、はっとするようなシミ一つ無い白いシャツも見覚えがあるのに、彼の名前だけがすっぽりと抜け落ちているのです。

「……忘れているんだね。それじゃあヒントをあげよう。僕は小説家だよ」

でも、少年は気分を害した風も無く、楽しげにそう言いました。

「そして詩人で、学生で、老人で、赤ん坊で、幽霊で、樹で、旅人で、ククルだよ」

そのどれもに心当たりがありました。

それでも、まだ名前を思い出すことは出来ませんでした。

「酷いなあ」

と、ケラケラと笑います。

私は少し怖くなりました。

少年が、ではありません。

彼の名を思い出せない自分自身が、です。

「心配しなくていいよ。記憶なんて曖昧なものなんだからさ」

安心して、と言いながら、少年は近くにあった赤い花を摘んで私の手に乗せてくれました。

「記憶と物語の違いはなんだと思う? それは本当にあったこと? それとも空想の産物? でも過去を確認する術は無いし、今見えていない世界を知る術も無い。『その場所』では明確な線引なんて無いんだ。本当か嘘か……結局それを決めるのはククル次第だよ」

そして少年は空を仰ぎました。




冷たい風に頬を撫でられて目を覚ましました。

そこは草原をすっと伸びている道の脇。岩の陰。

太陽はもう今にも沈もうとしています。

辺りには誰も居ません。

そして、私の手には開いたままの一冊の本が在りました。

そこには私が記している旅の記憶が拙い字で書かれています。

一番新しいページにここ最近のことを書いているうちに眠ってしまったようです。

私はため息をつくと、日が暮れる前に続きを書いてしまおうと思いました。

でも、その企みは失敗しました。

ペンを持っているはずのもう片方の手には、代わりに赤い花を握っていたのです。

……そっと本のページを遡り始めました。

そして、日が暮れる前に件のページに辿り着くことが出来ました。


まるで女の子のような線の細い、そしてあどけない顔。

さらさらと風に揺れる色素の薄い髪。

そして、まるで旅人とは思えない白いシャツと黒のスラックスだけという出で立ち。

そんな少年に出会ったことが、そこには書かれていました。

……果たして、本当に私はその少年に逢ったのでしょうか。


いつか読んだ本の登場人物ではないか?

孤独に耐え切れずに私が生み出した空想の産物ではないか?


そんな疑問が次々と湧いてきました。

でも、それを確認する術は無いのです。

過去を確認する術は誰しも持たないのです。

……特に、旅人というものは。




太陽がまだどうにか今日に踏みとどまっているうちに私は出発することにしました。

本をとじて、立ち上がります。

本格的に夜が来る前に、次の街に辿り着かなければなりません。

今は、それを優先すべきです。

ここには狼が出るという噂もありますから。

私は、少し先の未来の私を守るために、今を過去に押しやることにしました。

過去に、自分に、疑問を持つ私を、また過去に押しやりました。

気の早い一番星を見上げながら、歩を進めます。

「……カケル・ディキンソン」

少年の名が記されていたページに、赤い花を挟んで。

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