エミさんの小さな光
その頃、秋野はエミさんの乗った電車を追いながら、しかめ面をしていた。
「どうしたものか」
エミさんが自らの意思と裏腹に、何かに誘われているのは間違いないようだった。電車の中から、陰気な気配がするのだ。
いざというときは、手を貸すようにと道真公から命じられているものの、霊体では直接エミさんを助けることは難しい。
そのとき、一筋の光が秋野の脇をかすめていった。
「あれは……」
秋野が見守る中、光は電車の中に飛び込んでいく。
「そうか、そういうことか」
合点がいったように呟き、彼女は千里眼の力で菊千代たちを見通した。きりゅうの変わり果てた姿を見ると、彼女は電車を追う脚を止める。
「危惧していた通りだな。まったく面倒な奴だ」
そして、走り去る電車を見送りながら、こう呟いた。
「物憑きの霊になる定めだった小さき者よ。エミさんはお前に任せた。我は我にできることをするまでだ」
逞しい足が地を蹴る。小さなつむじ風が巻き起こったと瞬間、彼女の姿はもう消えていた。
そのとき、エミさんは電車の席に座り、瞬きもせずにいた。その場に乗り合わせた人間からは、まるで彼女がぼんやりと車窓を眺めているように見える。だが、その心の中では必死にもがき、席を立とうとしていた。意思と裏腹に桐生を離れゆく体に焦れ、言いようのない恐怖にかられていた。
『どうして動かないの? 次の駅で降りて引き返さなきゃ。どうしよう。ダイキが一人なのに。こんなことってある?』
体が言うことをきかず、勝手に動きだす。なのに意識だけはやたらはっきりとしていて、自分が空港を目指していることはわかるのだ。
『私は、香川に帰ろうとしている』
康之の顔が思い出される。さきほど見たはずの姿は電車に乗ったと同時に消え失せていた。
『まさか、康之が呼んでる? でも、ちょっと待って』
どうして今になって自分を呼ぶのだろう。どうやって自分を見つけたのだろう。
今となっては康之がどこで何をしているかわからない。彼もエミさんの連絡先も知らないはずだった。群馬県に嫁いだことは風の噂で耳にしたとしても、携帯電話の番号も変えてしまっていた。
『だいたい、こんなやり方、まともじゃない。なんだか……』
そこまで考え、彼女は思わず言葉を呑み込んだ。そう、なんだか幽霊にでも導かれているようだ。まさか、彼はもうこの世にいないのだろうか。なにか未練でもあって、呼ばれているのだろうか。
身震いすると、エミさんは真っ暗な辺りを見回した。
『自分の心の中に、こんな闇があったなんて』
一寸先も見通せない闇だ。じめじめしていて、底冷えがする。自分の醜さを改めて見せつけられているような気がした。
けれど、本当はこの闇があることをとっくに知っていた気もする。ダイキに怒鳴ってしまうこともあるし、あんなに優しい夫にも苛立ちを感じるときがある。そんなとき、まるで彼女は心に靄がかかったような気分になっていた。この闇のように、湿気った靄だ。
『本当はずっとギリギリのところを歩いているのかもしれない』
慣れない土地と育児で手一杯だった。できないこともやらねばならない。誰の手も借りられない。そんな緊迫したものを見ないようにしてなんとかやり過ごしている気がしてきた。何かの拍子で靄が晴れるとき、自分がきわどいところに立っていることに気づいて慄くのだ。
『だからって、ダイキに怒鳴っていいわけじゃない。カンさんと何も話し合いをしないうちから、不満ばかり抱えていたって何も変わらない』
闇の中、エミさんの涙がすうっと流れた。
『私が弱いからだ。人のせいにして、ねだってばかりの私のせいだ』
そのとき、目の前にぼわんと淡い光が現れ、康之の姿になった。
『エミ、ごめんな。戻ってこいよ』
『何を言ってるの。いなくなったのは康之のほうじゃない』
『うん。だから、ごめん。でも、俺気づいたんだ。俺たちは二人揃わなきゃダメなんだよ。片方だけじゃ、俺はどこにも飛べやしない』
『せっかくあなたを忘れたのよ。巻き込まないで』『忘れた? じゃあ、どうして俺を思い出したんだよ。お前の心に俺が住んでいるからだ』
『それは……』
『否定できないだろ? でなきゃ俺はこうして姿を見せられなかったんだから。さぁ、懐かしい香川に帰ろう』
『今さら、何を言ってるの。私はもう結婚して、子どももいるのよ』
『でも、逃げ出したい気持ちはあったんだろ? 知らない場所で子ども抱えて、旦那に弱音も吐けず、途方に暮れたこともあったんだろ? だから、こうしてお前は飛び出してきたんだ』
康之はそう言って微笑む。
『香川に帰れば、親もいる。友達もいる。俺がいる。全部うまくいくよ。子どもを預けて好きなところへ出かけられる』
『やめてよ』
『どうして? そう思ったことがあるだろう。俺は知ってるよ。俺たちは離れるために出会ったんじゃない。そうだろ?』
その言葉は、康之がいなくなったとき、何度も何度も心に浮かんだものだった。息もできないほど嗚咽した。夜明けが寒々しく、そして明日も一人で生きなくてはならないことに絶望する日々だった。
どうして彼はあんなことをしたのか。そして何故、自分を置いていったのか。そんなに簡単に切り捨てられる存在だったのか。そんな答えのない問いを繰り返した日々を思い出した。
エミさんは思わず『ああ』と呻き声を漏らした。ぐらりと足元が揺らぎ、崩れ落ちそうになる。
そのときだった。蛍のような小さな光がエミさんと康之の間に舞い降りた。
『これは、何?』
目を丸くしたエミさんの前で、光が大きくなっていく。次第にそれは人の形に変わっていった。
『あなた!』
目の前に現れたのは、ロッキーを抱いたカンさんの姿だった。いつもの優しい笑みを浮かべ、静かにこう言った。
『戻ろう。ダイキも待ってるよ』
『あなた、ごめんなさい、私……』
エミさんは涙をこぼし、声を詰まらせた。そんな彼女をカンさんはじっと見つめている。
康之が静かに二人に隣に歩み寄った。馴れ馴れしくカンさんの肩に手を置き、その横顔をのぞき込むようにもたれかかる。
『あんたが旦那か。ずいぶんとお人好しな顔をしているんだな』
ふっと鼻で笑い、エミさんに視線を送る。
『俺にはないものを求めたのか』
『そんなことないわよ!』
むきになったエミさんを康之がせせら笑う。
『怒るってことは図星か。なぁ、旦那さん。こいつはね、あんたとの暮らしから逃げてきたんだ。赤ん坊を一人残して、飛び出した。何故かわかるだろ?』
カンさんは何も言わず、澄んだ目で康之を見つめ返した。康之は少し苛立ったようで、短い舌打ちをした。
『なにを他人事みたいな顔してんだよ。はっきり言ってやろうか? お前の女は俺に心残りがあるんだよ。あんた、それでも戻ろうなんて言えるのか?』
しかし、カンさんは何も言わず、ただじっと黙って康之の顔を見据えているだけだった。その落ち着き払った態度に、康之がカッとなる。
『こいつはな、俺の片翼なんだ。元いた場所に帰るべきなんだ。なんとか言えよ!』
康之がカンさんの胸元を掴んで凄んだ。
『やめてよ!』
エミさんが涙声で耳をふさいだときだった。カンさんの腕からロッキーが降りたち、その足元に額をこすりつけた。カンさんはそんなロッキーを見て小さく微笑む。
『そんなことは、最初から知っていたよ』
エミさんと康之の目が見開かれた。カンさんが康之の手を払いのけ、エミさんに向き直る。
『君が心の隅に彼を住まわせているのは知っていたよ。神社で手を合わせているとき、きっと彼のことを祈っているんだろうと思っていたさ』
エミさんは弾かれたように体を震わせた。まるで心臓を鷲掴みにされたようだった。カンさんには康之とのことを話しているものの、あくまで過去のこととして伝えていたはずだった。
ふとしたとき、ひもじい想いをしていないか、凍えてはいないか、笑って過ごせているか、康之を気にかけたこともある。神社で祈るとき、ダイキが生まれるまでは『康之もどこかで幸せに笑っていますように』と祈っていた。
すると、康之が低く笑った。
『お前はそれでいいのか? 他の男のことを祈るような妻でいいのか? 惨めだろう。お前の片翼はこの女じゃなかった。だって、こいつは俺を思い描いたんだから。だから、俺と行くべきなんだ』
康之が立ちすくむエミさんの肩に手を回し、耳元で囁いた。
『さぁ、行こう。これで俺たちはどこまでも飛べる』
エミさんはただ、黙ってかぶりを振ることしかできなかった。助けを求めたくても、言葉が出ない。できることならカンさんに手を伸ばしたい。けれど、康之を心配している自分がいるのは否めない。そんな自分がカンさんのそばにいるのは罪深いのだと気付き、足が動かなかった。
ところが、カンさんは大口を開けて笑い出したのだ。彼が大笑いしている姿など初めて見たエミさんは、康之と共に呆気にとられていた。
『お前、何がおかしいんだ!』
『いやぁ、妻がこんなに困った顔をしているのは初めて見たなと思って。面白いものが見れたな』
エミさんはサッと顔を赤らめる。
『あなたってば! 今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 本当にカンさんときたらマイペースにもほどがあるわ』
『あはは、ごめん。でも、いつものエミさんらしくなったね』
そう言うと、カンさんはエミさんの足元で喉を鳴らしているロッキーに目をやった。
『エミさんはすぐ顔に出るんだ。彼のことを思い出すとき、いつも切ない顔になる。それでいて、とても慈悲深く、綺麗なんだ。そんな顔をさせる彼に嫉妬しなかったと言ったら嘘になる。プロポーズをしようかと意識した頃、君の中で彼が完全に過去になっていないのに、このまま結婚していいのか悩んだこともある。けれど、ロッキーがエミさんに懐いているのを見て、この人を信じようって決めたんだ』
ロッキーは三日月のように目を細め、喉を鳴らしている。
『ロッキーを見れば、エミさんがどんなに愛情深い人かわかるからね。それに、ダイキが生まれてからは、物思いに耽ることもなくなった。彼を思い出すこともなくなっていただろう?』
問われて、エミさんが頷いた。出産して以来、神社で祈ることといえば、ダイキやカンさんが健やかに過ごせることであった。
『君を縛り付けていたのは、母親のような情に違いないと確信したんだ。僕はね、君のそういうお人好しすぎるくらい情け深いところも好きなんだよ』
エミさんの頬をするすると涙が流れ落ちた。カンさんは康之を射るように見据えて言った。
『君は妻を片翼だと言った。けれど、誰もが本当はきちんと一対の翼を持っているんだ。羽ばたくことができるかは、自分次第だ。自分自身で飛べない者は誰かと一緒に飛ぶことなんてできないんだ』
『嘘だ! だって、俺には片方の翼しかない!』
『あるさ。だって、心はなによりも自由だ。飛べると知った者は飛べるんだよ』
ふと、エミさんの肌が粟立った。カンさんの体がぼんやりと光りだしたのだ。声も高く変わっていく。
『あんまりこの夫婦をなめないで欲しいな。君の甘言で離れるほど安易な絆じゃないんですよ』
『じゃあ、俺はどうすれば飛べる? 俺が探し求めた半身はどこにある? 教えてくれよ。なぁ、どうしたらいいんだ』
『かわいそうな子だ。その迷いは既に菊千代さんが祓っているでしょう。君を吐き出した本体は、今頃向かうべきところへ向かっているはず。君は僕がしかるべきところへ連れて行ってあげますよ』
声とともに口調もカンさんのものとは違う、誰かのものになっていく。
『お、お前、旦那じゃないな? 一体何者だ?』
康之の顔には脂汗が浮かんでいた。カンさんを包み込む光は康之には空恐ろしく感じた。だが、エミさんにはどこかあたたかく、神々しさすら感じていた。
やがて光がどんどん小さくなり、そば猪口が浮かび上がった。そば猪口には人間のような目と口、そして小さな手足がついている不思議な姿をしている。
エミさんの口はあんぐりと開いたままだ。一方、康之の目はそば猪口ではなく、その後ろに向けられていた。額に玉のような汗が浮かび上がる。
『何か来る……何か嫌なものが来る』
その言葉を聞き、エミさんはそば猪口の向こうに視線を移す。だが、何もない。
『桐生天満宮に祀られているのは、道真公だけではないと知っていますか?』
そば猪口は小さな体に似合わぬ凛とした声を張り上げた。
『あそこには、あらゆる災いや罪、穢れを祓い清める神々である祓戸四柱大神(ハラエドヨハシラノオオカミ)も祀られています。菊千代さんたちが弁財天様から賜ったのは、祓戸四柱大神のお力。そして、私の光はミサヲさんがかつて浴びた浄化の光を分けていただいたもの』
康之が『ひぃ!』と小さな悲鳴を漏らした。エミさんには見えなかったが、康之の目には、そば猪口の背後に燦然と輝きながら立つ巨大な四柱の神々の姿が見えていた。瀬織津姫神、速開都姫神、気吹戸主神、そして速佐須良姫神がまるで山のように並んでいたのだ。
『やめろ! 来るな!』
その場にへたりこみ、康之が喚く。そば猪口はふわふわと近づき、その小さな手で恐れおののく彼の顔をそっと撫でた。
『私と一緒に次の道へ行きましょう。お互い、ここにはもういられないのだから』
そう言うと、呆然としているエミさんに向かって微笑んだ。
『大切にしてくれてありがとう。いつかまた、あなたの手が伸びる立派な品物に生まれ変わるよう、祈っていてください』
そば猪口がそう言い終えると、祓戸四柱大神が覆いかぶさるように近寄り、康之に息を吹きかけた。四柱の吐息は光彩となり、彼を包み込む。
康之の悲鳴が響き渡ったかと思うと、体が膨らみ、あの香水瓶の物憑きの霊の姿となった。しかし、それも一瞬のことで、再び体がぐにゃりと歪んでいく。膨らみはどんどん萎んでいき、やがて小さな黒い綿ぼこりのような塊になった。
そば猪口はそっと塊を抱き、エミさんに話しかける。
『これが毒気の本来の姿です。あとは私が天まで連れて行きます。安心してお戻りください。それではごきげんよう』
天上から一筋の光が降り、そば猪口を包み込む。小さな体がすうっと音もなく昇っていく姿に、エミさんは我に返って叫んだ。
『待って! あなたは一体何者なの?』
そば猪口は振り返る。目と口しかない顔のはずだが、エミさんにはそば猪口が微笑んでいるように見えた。
『戻ったら、私の姿を見ても悲しまないでくださいね。私はあなたがたの縁結びをするために生まれたのだと悟っているのです。こうしてお助けできたことは幸せでした。さようなら』
『待って!』
眩しさに目をこらしたエミさんは、そば猪口に細かい線を交差させた檜垣文が描かれているのに気づいてハッとした。その藍色の繊細な装飾に見覚えがあったのだ。
『ねぇ、あなたは、あのそば猪口なの?』
返事はなかった。エミさんが叫んだ途端、光が弾けて全てを飲み込んだのだ。
気がつくと、彼女はぼうっと電車の座席に座っていた。恐る恐る手を動かしてみると、思うように体が言うことをきく。
その瞬間、次の乗車駅を告げる電車のアナウンスが鳴り響いた。慌てて彼女は席を立ち、乗降口めがけて急いだ。その心に浮かぶのは康之ではなく、ダイキを抱いたカンさんの姿であった。
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