ミサヲと善七

 マリアの目に最初に映ったのは、木目の天井だった。彼女は自分が布団に横になっていることに気づき、息を呑んだ。自分が今見ているものは、物憑きの霊となった少女が人間として生きていた頃に見ているものなのだ。だが、マリアには体を動かすこともできず、声を上げることもできなかった。ただ、少女が咳をするたびに感じる息苦しさはまるで自分のことのように伝わってくる。同時に、心に浮かぶ言葉と感情までも胸に響いてきた。

『意識だけこの子に同化しちゃったみたいね。変な感じだわ』

 マリアが戸惑っていると、少女が壁にかけられた時計を見やった。

 少女はため息を漏らし、体を横向きにして、肘を敷き布団につく。痛みとだるさをこらえながら腕を伸ばし、やっとの思いで体を起こした。彼女の体力は衰えているようだった。

「まぁ、ミサヲさん!」

 部屋に入ってきた中年の女性が慌てて駆け寄る。

「そんな無理して。起きちゃいけませんよ」

「でも、お母様、お薬をのまなくちゃ」

「私が支度しますから、あなたは大人しくしていてちょうだい。もうすぐ善七さんがお薬を届けにいらっしゃるのに、ますます容態が悪くなってしまうわ」

「ごめんなさい」

 ミサヲと呼ばれた少女の胸に沸き起こった感情に、マリアが『あら』と驚く。さっきまで溢れていた暗い気持ちがすっかり霧散していた。その代わり、母親らしき女性が口にした『善七』という名前に、体と裏腹に心だけは軽くなっている。

『この子、恋をしているんだわ』

 母親が薬をのませると、少女は髪をすいてくれとねだる。彼が来る前にせめて乱れた髪だけは直したいという女心を感じ取ったのか、母親が少し困ったように目を細めた。

「善七さんは従兄弟とはいえ、先生なんですから。節度を持って接してくださいね」

「えぇ、わかってるわ」

 少女が胸の中で『お母様は私が善七さんに懸想していることが面白くないのね。でも、あの人も私を好いてくださっていることを知ったら、どうなさるかしら?』と、呟いているのが聞こえた。

 やがて、玄関が開く音とともに「ごめんください」という凜とした声がした。

「あら、いらっしゃった」

 母親は櫛をしまい、いそいそと玄関へ向かう。

「善七さん、どうもね」

「こんにちは。今日はいい陽気ですね」

 遠くから聞こえるやりとりに耳をそばだて、少女は前髪を撫でつける。その胸は一気に高鳴り、早く顔を見たいような、逃げ出したいような羞恥心に襲われていた。

 ミサヲは足音が近づいてくると、思わず布団を寄せて顔を半分隠した。

 部屋の障子が静かに開けられた。枕元にやってきたのは、風呂敷袋を手にした一人の男だった。その顔を見た途端、少女の心の中に歓喜が走る。マリアが『この人が善七さんね』と興味深そうに見やった。

 彼は実直そうな目とまっすぐな眉をし、精悍な顔つきをしていた。年齢はミサヲより一回りは上だろう。襟元はすれてるし、自分の格好に無頓着そうで、マリアは直感で独り身だろうと目星をつけた。

「こんにちは、ミサヲさん」

 よく通る声だ。ミサヲは掠れた声で「こんにちは」と返す。彼は「はは」と快活に笑い飛ばした。

「のみたくない薬を届けるんだから歓迎されないのはわかるんだけど、顔くらいはちゃんと見せておくれよ」

 ミサヲは胸の中で『こんなに善七さんが来るのを心待ちにしているのに』と否定していたが、それを声に出すことはできなかった。ただ頬を赤らめながら、ゆっくりと布団を胸元まで下げてはにかんだ顔を見せるので精一杯だ。

 善七は彼女の容態を診ると、優しく言った。

「変わりはないようだね。いつもの薬はおばさまに預けておくね」

「あ、ありがとう。善七さん」

 もうこれで帰ってしまうのだろうか。名残惜しさがよぎった瞬間、善七はそっと彼女の髪を撫で、微笑んだ。その顔を見たミサヲの心臓が爆ぜ、咳も出ていないのに、息が苦しくなる。

「もう少しよくなったら、庭で日向ぼっこでもしようか」

 そう言う善七の慈しむような声と穏やかな眼差しに、マリアが『ふぅん』と唸る。確かに少女が自分を好いてくれていると舞い上がってもおかしくはない雰囲気だ。だが、マリアにはそれは異性としてというよりは、従兄弟としての愛情に思えた。善七の眼差しが思わせぶりに見えるのは、無意識のことのようだ。

『罪な男ねぇ。この女の子、世間知らずっぽいから、一人で盛り上がっちゃったのかしら』

 その後の少女との会話から察するに、彼は医師になりたてで、町医者をしている父親の診療所で跡取りとして働いているらしかった。診療所が忙しいときや、所用があるときは善七がミサヲを診たり薬を届けたりしているらしい。

「ねぇ、善七さん。私、日向ぼっこより、夜に外に出てみたい」

「どうして?」

「この前、流星群が見えたんですって? お父様が仰っていたの。私も見たかったわ。流れ星にお願いしたいことがあるのよ」

「何をお願いするの?」

「それは内緒」

「そうか。次の流星群は夏らしいよ」

「本当?」

「それまできちんと薬をのんで、よくなろうね」

「うん」

 はにかむ少女に、善七が目を細める。少女は気づかなかったが、マリアには彼の瞳の奥に憐憫と哀しみが見て取れた。

 善七の目に浮かんだものは、流れ星に願いを託す健気さへの哀れみだけではなかった。ミサヲが夏まで生きていることが難しいこと、それを本人は知らないこと、そして彼女の想いに善七も気づいていることを、勘のいいマリアは一瞬にして悟ってしまった。

『思うままにいかないのは、猫も人間も同じね。本当なら外でお友達と遊びたい年頃なのに、こんな部屋にこもりっきりなんて可哀想に』

 胸が塞がれたマリアが辺りを見回し、ふと気づく。

『あの薬箪笥がないわ』

 物憑きの霊の依り代になった品がそばにないのは不自然なように思えた。ましてミサヲは病身で部屋にこもりきりなのだ。

『ここにないなら、薬箪笥は彼女のものじゃないのよね? じゃあ、誰のものなの? どうしてあの箪笥に取り憑いたのかしら』

 マリアが小首を傾げていると、善七が努めて明るい声で言う。

「流星群を見たいだなんて、ミサヲさんはそんなにたくさん願いごとがあるの?」

「違うわ」

 頬を赤らめ、ミサヲが俯く。

「流れ星が消える前にお願いできるかわからないでしょ? 流星群なら、一度くらいは上手にお願いできるときがあるかもしれないから」

 そう言ってから、彼女は小さく呟いた。

「願いごとは一つなの」

「叶うといいね」

 善七が慈しむように囁くと、ミサヲが小さく頷いた。

 この少女の願いとは健康な暮らしだろうか、それとも善七との未来だろうか。マリアが思いを巡らせていると、急に景色が流れ始めた。

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