ミサヲの知らせ

 マリアが呆れかえった顔で話しかけた。

「せっかく迎えに来てくれたのに」

「いいの。それに、思い出したの。私がどうしてこの店に来たのか」

 ミサヲがマリアを見つめて、こう言った。

「私、あなたに会うために来たんだったわ」

「私に? どうして?」

 答えの代わりに、ミサヲがぽんと右下の引き出しを叩く。すると、ひとりでに引き出しが開いた。

「中をのぞいてみて」

「あのお守りが入っているんじゃないの?」

「ううん、善七お兄様が持ってるということは、お守りは誰かが棺桶に入れたのよ。ここには今、別のものが入っているの」

 菊千代たちはおそるおそる引き出しをのぞく。そこには赤い首輪と細長いネズミのオモチャが入っていた。

「あ!」

 声を上げたのはマリアだった。菊千代とロッキーは「コレは何だ?」と、きょとんとしている。

「マリア、これに心当たりが?」

 問いかけたロッキーがハッとする。マリアが今にも泣きそうな顔をしている。

「これは私の!」

 すると、ミサヲが「そう」と深く頷いた。

「この薬箪笥の前の持ち主は、この街の薬局を営んでいたご婦人。つまり、あなたの前の飼い主よ」

「えぇ?」

 菊千代が素っ頓狂な声を上げた。

「ということは、マリアはこの箪笥に見覚えが?」

 首を横に振ったのはミサヲだった。

「ううん、これは店舗にあったの。マリアは母屋にしかいなかったから、私も彼女と会ったことがなかったわ」

「それじゃあ、私たち、知らないうちに一時は同じ家にいたのね」

 マリアがミサヲに向かって首を傾げる。

「どうしてここに来ることになったの? まさかあの人が?」

「いいえ、彼女の息子が薬箪笥を売ったの。買い取った人が骨董市に出して、『たきのや』の奥さんがそれを見つけたってわけよ」

「そうだったの」

 マリアが伏し目になり、菊千代たちに自分の生い立ちを語り出した。

「私はもともと、老舗の薬局を営む奥さんに飼われていたの。とても穏やかで優しい人だった。旦那さんを亡くして寂しいからって、知り合いの家で生まれた私を引き取ってくれたのよ」

 だが、ある日、老婦人が転倒し怪我をしたことがきっかけで、息子夫婦と同居することになったという。

「息子夫婦には男の子がいてね、つまり奥様の孫ね。同居を始めてすぐに、その子が猫アレルギーだってわかったの」

 マリアの声が沈み、項垂れた。

「奥様は私を手放すのは嫌だって言い張ってくれた。けれど、息子は奥様のいないすきに私を保健所に連れて行ったのよ」

 マリアが吐き捨てるように言った。記憶の彼方に押しやっていた思い出が蘇る。力任せにキャリーバッグに押し込められ、車に乗せられた。気も狂いそうな恐怖の中、必死に老婦人の名を呼んだ。そして、たどり着いたのは無情にも冷たい壁と床だった。その先にあるのは殺処分だ。

「それで若が来たときに様子が変だったでござるね」

「また子どもがアレルギーだったらどうしようって考えたんだろう?」

 菊千代とロッキーに頷き、マリアは耳を垂れた。

「保健所は怖かった。壁の隅でずっと奥様が迎えにくるのを待ってた。でも、来なかった。もう駄目かと思ったとき、カンさんが家族に迎えてくれたの」

 遠くを見るような目をして、マリアが言った。

「あのときのカンさんは本当に眩しかった。けれど、奥様じゃないことにがっかりもしたし、怒りもしたわ。怒っている間は、捨てられた気分が紛れたの」

 すると、ミサヲが静かに首を横に振った。

「あのね、あのご婦人はあなたが保健所に連れて行かれたことを知って、もの凄く怒ったの。今すぐに連れ戻すようにって今まで見たことのない剣幕で息子に詰め寄っていたわ。話し合った結果、奥様は家を出る覚悟であなたを迎えに行ったの」

「え?」

 マリアが息を呑む。

「でも、来なかったわ」

「えぇ。一足遅かったのね。カンさんがあなたを連れて帰ってしまった後だったの。奥様は望まれて迎えられたなら、あの子が幸せなら、それでいいって泣きながら言っていたわ」

「奥様はどこにいるの?」

 マリアはわななく声でミサヲにすがりついた。

「ねぇ、知ってるんでしょ? 奥様は一体どこに行ったの? あの家には今、息子夫婦しかいない。奥様はどこで暮らしているの? 元気なの?」

 その必死の形相に、菊千代がぼそりと呟いた。

「そうでござったか。夜な夜な出歩いていたのは、その人を探していたでござるな」

 ロッキーがため息混じりにそっと囁く。

「マリアは野良猫だったことがないから外に思い入れはないし、カンさんのそばを離れるのが何より嫌なんだ。それなのに毎晩出て行くということは、何か目的があるとは思っていたよ」

 ミサヲがその目に憐れみを浮かべた。

「それを伝えるために私はここに来たの」

 誰もが固唾を呑んで見守る中、彼女はこう続けた。

「ご婦人は半年前に認知症が始まってから、養護施設に入居しているわ。けれど、時間がないと思うの」

「どういう意味?」

「だってあの人、今までは私に気づかなかったのに、施設に入る前には私がうっすら見えていたんですもの」

 息子はマリアがいなくなった後、薬局を現代風に改装し、古めかしい薬箪笥を老婦人の寝室に押しやった。

 老婦人は薬箪笥を見つめ、洗濯物を持ってきた嫁にこう言ったという。

「あの人はなんていう名前だったかね?」

「おかあさん、何の話ですか?」

「時々、この部屋に着物のお嬢さんが来るでしょう? あなたのお友達?」

「おかあさんってば。何を言っているんですか」

 嫁は薄気味悪いという言葉を呑み込んで眉をしかめる。彼女がそそくさと部屋を出ると、老婦人は箪笥の霊を見つけて、手招きをした。

「ほら、やっぱりいらっしゃった。ねぇ、お嬢さん。こちらにおいで」

 ミサヲは自分が見つけられたことに驚き戸惑いながらも歩み寄る。老婦人はミサヲの帯留めに目を留めて微笑んだ。

「それ、鼈甲かしら? いい色合いだわ。お嬢さんによく似合っている」

 ミサヲが言葉なしに頷くと、老婦人がため息を漏らした。

「私ね、そんな色のメス猫を飼っていたの。サビ猫の器量の良い子。でも、私が至らないばっかりに辛い思いをさせてしまった」

 そして、そっと右下の引き出しを目で指した。

「その引き出しに入っているのはね、その子の首輪とお気に入りのオモチャなの。本当はあの子に届けたいけれど、きっと新しい首輪もオモチャももらってるでしょうから、こんなお古は邪魔になるわね」

 そう言うと、老婦人が小さな咳を繰り返した。

「あぁ、もう一度、あの子を撫でたいわね。許してくれたらの話だけど」

 彼女はベッドに身を横たえ、静かに深く息を吐いた。

「ごめんなさいね。最近、疲れてしょうがないわ。少し横になるわね。また来てちょうだいな」

 ミサヲは右下の引き出しに滑り込むと、考え事に耽る。赤い首輪とオモチャからはこの婦人と猫との楽しく穏やかな時間の名残が感じ取れた。

 次第に言いようのない焦燥感があふれ出る。ミサヲはそっと呟いた。

「その猫に届けてあげたいわ。いいえ、届けなくちゃ」

 それからほどなくして、老婦人は養護施設に入る話が決まった。薬箪笥は息子の手によって売りに出され、骨董市に流れ着き、エミさんの手に渡ったのだという。

 時雨がそこで口を挟む。

「死期が近づいている人間には、霊体が見えやすいのだ。なるほど、その婦人は時間がないのだろうな」

「そんな」

 マリアが青ざめる横で、ミサヲが頷いた。

「早くあなたに会って教えてあげたくて、でもどうしていいかわからなくて、ずいぶん焦ったわ」

 菊千代がぽん、と手を打った。

「ははぁ、カンさんが何故か焦るような気がしたのは、その気配を感じ取ったでござるな」

「えぇ。私、ここに来てからは店じゃなくて母屋に箪笥を置いて欲しくて、カンさんにずっと念を送っていたのよ」

「そういえば、父上は妙な視線を感じるって言っていたでござる。ミサヲ殿のせいであったか」

 ロッキーが「へぇ」と、低く唸る。

「それにしても、よくここまでたどり着いたな。マリアがどこに引き取られたのかも知らなかったんだろう?」

「えぇ。でも『たきのや』の若旦那のダイキさんにお願いすれば万事うまくいくって、教えてもらったの」

「ダイキだって?」

 菊千代たちが揃って素っ頓狂な声を上げた。

「そうよ。なのに店には若様らしき人はいないから困っちゃった。こっそり外を覗いているうちにカンさんが店主なのはわかったけど、なんだか怖くて全然近づけないし」

 マリアが首を傾げる。

「ねぇ、ミサヲ。お願いするって言ったって、うちのダイキはまだ赤ん坊よ?」

 すると、ミサヲが「まぁ」と怪訝そうな顔をした。

「あら、いやだ。じゃあ、あのおじいさん、どうしてそんなことを言ったのかしら」

「おじいさんでござるか?」

「えぇ。奥様の息子が薬箪笥をどう処分しようか迷っているときに、ふらりとやって来て買い取っていったの。その人、不思議なことに私が見えたのよ」

 ミサヲが引き出しの隙間から覗いていると、その視線に気づいた彼がにたりと唇を吊り上げ、こう言ったのだという。

「お前さん、願いごとがあるんじゃろう?」

 自分を見つけられたこと、そして胸に秘めた願いを言い当てられたことに驚く。彼の目は笑っているように見えて、そうではないのが空恐ろしかった。

「どうだね、ワシが力を貸してやろうじゃないか。これから『たきのや』というそば屋にお前が引き取られるように取りはからってやる。この辺りでお前の願いを叶えられる力を持つのは、そこの若旦那のダイキくらいしかおらんのでな」

 そう言って、彼は薬箪笥を骨董市に出すと、一人の女性に声をかけて箪笥を勧めだした。それがエミさんだったという。

「どんなおじいさんでござった?」

「えぇと、そうねぇ」

 記憶を手繰り寄せているミサヲを制し、マリアが言った。

「白くて長いヒゲがあって、質素な着物じゃなかった?」

 それを聞いたミサヲはもちろん、菊千代もロッキーも目を丸くした。

「そう、そうよ。どうしてわかったの?」

「おい、マリア。お前、どこかで見たことがあるのか?」

「ううん、ゴキ爺が教えてくれたの。奥様の薬局にそんな風貌をした、この辺りじゃ見かけない骨董屋が出入りしていたらしいって」

 菊千代が「あぁ」と頷いた。

「あのとき、こそこそ話していたのは、それでござったか」

「うん。奥様がいなくなった時期に起こったことは、些細なことでもいいから調べて教えてくれって頼んでいたから」

 ゴキ爺はその情報を伝えたあとで、こう言ったという。

『どうも『たきのや』に薬箪笥が増えたようですが、その出所は姐御のいた薬局ではないかと睨んでおります。確証はありません。ただ、薬箪笥などというものを所持している家はそう多くありませんから』

 彼は黒光りする頭を少し傾げた。

『しかし、気になるのです。もしエミさんの買った薬箪笥が薬局のものだったとしたら、まるで姐御を追うかのようで、偶然にしては妙です。考えすぎかもしれないのですが、それでも胸が騒ぐのです』

 そして『たきのや』で薬箪笥を見た後、家を抜け出したマリアはゴキ爺のところへ出向いていた。

『ねぇ、ゴキ爺、あの箪笥には見覚えがないわ』

『そうでございますか。しかし、もし倉庫などにしまわれていたものであったなら、見たことがないのも無理はないですぞ』

『ねぇ、骨董市に出ていた奇妙な店にはどんな人がいたかわかる? 薬局に出入りしていた骨董屋は同じかしら?』

『それが骨董市で店を見かけた者はエミさんに気を取られて店主を覚えていないというのですよ。ただ、男のようであったというくらいで』

 そこで彼は声を低くして囁いた。

『もし薬局に出入りしていた骨董屋がその奇妙な店主と同一人物であれば、何か裏があるかもしれませぬ。元来、物というのは『ご縁』という繋がりの影響が強いのです。そのご縁が『たきのや』にあるのか姐御にあるのかわかりませぬが、偶然では片づけられないものがある気がするのです』

 マリアはゴキ爺がそう気を揉んでいた話をすると、菊千代たちに向かって肩をすくめた。

「ゴキ爺の直感通り、偶然じゃなかったのね」

 そう言って思案する。

「ミサヲと話が出来たってことは、そのおじいさんは生身の人間じゃないってこと?」

 すると、秋野が首を振った。

「そうとは限らない。霊感の強い者なら、見えることはある」

 それを聞いたミサヲが首を横に振る。

「いいえ、あのおじいさんは霊体だと思うわ。だって影がなかったもの」

 マリアが思わず顔をしかめる。

「じゃあ、霊かしらね?」

「わからないけれど、なんだか怖かったわ」

 ミサヲは自分の体を抱きすくめるように縮み上がる。

「なんというか、見た目はどこにでもいそうなおじいさんなのに、凄みがあって、こっちが消え入りそうなくらい強いの」

「ふぅん」と、ロッキーが唸る。

「そいつも物憑きの霊かもしれんな」

 時雨が答える。

「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。物憑きの霊でないのなら、何かもっと強い霊力のある存在なのだろう。そのほうが厄介だが」

「なるほどな。だが、俺は見てみたいぞ」

 ロッキーが黒い尻尾をぶんと振った。

「物憑きの霊だって黒電話といい、このミサヲといい、物に取り憑いた霊は見たが、物が霊になったのは見たことがないしな」

「勇ましいのは結構だが、興味本位で我らの世界に首をつっこむと、いつか物の怪に切り刻まれるぞ」

 時雨がそう鼻であしらったときだ。辺りに男の声が木霊した。

「見せてやってもいいがの」

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