老人参上
どこか嘲笑うような声色だった。咄嗟に菊千代たちの尻尾が膨み、ヒゲがピンと張った。
「誰だ? どこにいる?」
牙をむいて威嚇するも、声の主は飄々としていた。
「ほっほっほ、怖い怖い。おや、そこにいるのは道真公の犬ではないか」
時雨と秋野は返事をせず、ただ険しい目で身構えた。
「そう怖い顔をするな」
高笑いと共に目の前に霞が巻き起こり、やがてそれは一人の老人の姿になった。
白く細いヒゲがゆらりと揺れ、その目が怪しく細められている。ずいぶんと痩せていて、襟元から浮き彫りになった鎖骨が見えた。
「怪しいやつめ、名を名乗れ!」と怒鳴る菊千代を老人は鼻で笑う。
「我らの世界では、そうは簡単に名乗らぬものだ。そうじゃろう、狛犬どの」
秋野は口の端で笑うが、構えを解くことはしなかった。老人がのんびりとした口調で言う。
「齢百年を経た物憑きの霊を見たいなら、その女が成仏すればすぐに見れるというのに。弁財天の力を持つお前たちなら、その霊を祓ってくれると思ったのにとんだ番狂わせじゃ」
ミサヲが「祓うって、わ、私を?」と息を呑んだ。老人はたじろいだミサヲにため息を見せつけた。
「そうじゃ。その薬箪笥は既に齢百年を迎えて、物憑きの霊が生まれるはずなんじゃ。ところがお前さんが取り憑いていつまで経っても成仏しないもんで、その子が世に出てこれないと儂に泣いて訴える」
老人が細長いヒゲを指でなぞった。
「一つの依り代には一体の霊と相場が決まっておるのでな、お前さんにはさっさと成仏してもらおうと思ったのだが、まさかこの世に残る選択をするとは」
ぶつぶつと呟き、眉間に皺を寄せている。呆気にとられていた菊千代が我にかえり、刀を構えた。
「お主、なぜ若の名前を出した? 何が狙いかは知らぬが、若に近づく不届き者は許さぬぞ」
菊千代の気迫にも動じず、老人はひらひらと手の平をふってあしらう。
「あつくるしい猫じゃ。不届き者かどうかはお前さんの主が決めることじゃ」
「若はまだ赤ん坊ゆえ、拙者がお守りするでござる!」
「お前、ずいぶんと時代遅れな話し方をするんじゃな」
半ば呆れたように老人が言うと、菊千代はカッとなって「お主に言われとうない!」と、飛びついた。ところが、老人は身動き一つとらず、ただ小さく息を噴く。すると老人の握り拳ほどの大きさの竜巻になって菊千代に飛んでいった。
「うわぁ!」
菊千代の悲鳴が上がる。老人の吹いた小さな竜巻はいとも簡単に菊千代を吹き飛ばし、消えてしまった。
「菊千代! 大丈夫か!」
慌てて駆け寄ったロッキーが老人を睨めつけると、彼は呑気な笑い声を上げた。
「相手を見極めずに飛びかかると痛い目にあうぞ。勉強になったな」
「うるさいでござる! お主、何者でござるか?」
「そう急くな。今宵は何もせんよ。物憑きの霊を無理に祓うことは儂にはできん。若旦那の力を借りられたらいいんじゃが。こりゃしばらくは儂がまた箪笥の霊の相手をせにゃならん。いずれまた会おう」
その言葉が終わらないうちに、老人の姿は靄となり、消え失せた。
呆気にとられていたマリアが、秋野たちに目をやる。
「あのおじいさんは、何者? あんたたちを知っているようだったけど」
時雨が鼻を鳴らした。
「知らぬ者ではない。だが、我らから教えることではない」
「どうしてよ?」
「あの者を知る機会はまたあるだろう。我らが口出し手出しをするときではない」
「あんたって、融通のきかない狛犬ね」
「正確には狛犬は秋野のほうで、我は獅子だ」
仏頂面でそう言うと、時雨は身を翻した。
「今宵は一件落着だな。さらばだ」
そう言い残し、あっという間に駆けていってしまった。それを見た秋野が苦笑する。
「我らはお前たちが自力でなんとか出来ることには助け船を出せないことになっているのだよ。悪く思うな」
「なんだかあんたたちの世界にも面倒な決まりがあるみたいね」
そう答えるマリアに、秋野が身を寄せた。
「乗れ」
「え?」
「あのご婦人のところへ行きたいのだろう? 連れていってやろう」
「あなたは助けてくれるの?」
「時間がないのであれば仕方あるまい」
「奥様がどこにいるのか知っているのね?」
「うむ。あのご婦人なら知っている。よく天満宮をお参りしてくれたものだ」
秋野が口の端に笑みを浮かべた。
「お前はゴキブリたちに探らせているようだがね、あの施設は害虫駆除をマメにしている。彼らがご婦人を見つけるには時間がかかるだろうよ」
「秋野、ゴキ爺のことまで知っているの?」
「我は千里先のものを見る目を持つのだよ」
「もう、だったらもっと早く教えてくれてもよかったじゃない」
「訊かれていないことをこちらから話すことはない」
「そうでしょうけど」
拗ねた顔つきになったマリアの横で、菊千代が口を挟んだ。
「秋野、助けてくれるのはありがたいでござるが、時雨に怒られないでござるか?」
「時雨は千里先のものを聞きつける耳を持っている。今頃はこの話も聞いて知らぬ振りをしているだろう」
そう笑うと、秋野がそっと身をかがめた。
「さぁ、悔いが増えないうちに乗りなさい」
その滑らかな背を前にして、マリアが戸惑う。あの飼い主をずっと探していたはずだった。だが、いざ会えるとなると、尻込みする自分がいる。
そんな彼女の背を、ロッキーがぽんと優しく叩いた。
「会いに行け」
その声は静かで、同時に力強かった。
「会って、いつもの調子で『どうして私を意地でも連れ戻さなかったのよ』って叱ってこい」
菊千代がふっと噴き出し、「そうでござるよ」と相槌を打った。
「それから、沢山甘えてくるといいでござるよ。今まで会えなかった分まで。カンさんにいつもするように」
「でも明日の朝までには帰るんだぞ。さすがに丸一日も寝続けると、カンさんたちが心配するからな」
「これが最後じゃないでござるよ。これから何度でも会いに行けばよいでござる」
二匹の励ます口調に、マリアが「ふふ」と、思わず笑みをこぼした。
「ありがとう」
彼女はひらりと秋野の背にまたがった。その瞬間、秋野の足が地を蹴り、あっという間にその姿はマリアもろとも消え失せた。ロッキーが満足げに頷く。
「これでマリアもスッキリするだろう。ところで……」
くるりと振り返り、ミサヲに向き直った。
「お前さんがここにいるのはいいんだがね、カンさんに念を送るのはやめてくれるかな。ちょっかいを出さないで欲しいんだ。ここのところ、あんたの影響を受けていたようだからね」
すると、ミサヲが慌てて頷く。
「もちろんよ。それに、私だってあの猫のことがなければ、カンさんに近づきたくなかった」
「なんだって?」
「だって、なんだかあの人、怖いの。引き出しから出る勇気も持てなかったわ」
「あんなに穏やかな人なのに。どうしてだ?」
「彼の周りは綺麗すぎて、触れたら浄化されて消えてしまいそうだった。まるで結界でも張っているようなの。あの人、霊能力者じゃないの?」
ロッキーが鼻で笑う。
「そんなわけあるか。ただの映画好きで無口なそば屋の主人だよ」
菊千代が首を傾げる。
「不思議でござるな。拙者たちはそんな風に感じないでござるよ」
「とりあえず、これでカンさんがいつも通りになるなら問題ない。俺は疲れた。母屋で寝よう」
ロッキーが欠伸混じりに言うと、ミサヲまでつられて小さな欠伸を漏らす。
「私も引き出しに戻って寝るわね。久々にこんなに喋って疲れたもの」
「ミサヲ殿、いつまでここにいるでござるか?」
「さぁ。飽きるまでと言いたいところだけど、お客さんって見ていると飽きないの。いつになるかしら」
「悪さしなきゃいいよ。あんたが成仏すると入れ替わりに箪笥の霊が生まれるんだろう? 今度はそいつがやんちゃしても困るしなぁ」
ロッキーが苦笑し、「さぁ、帰ろう」と歩き出す。
「それでは御免」
後を追った菊千代が、ふと振り返って笑う。
「話し相手が欲しかったら呼ぶでござるよ。拙者でよければ馳せ参じよう」
走り去る二匹の尻尾を見送りながら、ミサヲが微笑んだ。その目には、病の苦痛や従姉妹への劣等感から解き放たれた穏やかなものがあった。
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