一件落着

 影を取り囲んでいた闇が離散し、菊千代が着地した瞬間、店はいつもの光景に戻った。

「うう……」

 うめき声がするほうに素早く視線を走らせると、黒電話に覆い被さるように痩せた男が項垂れて座り込んでいた。あの思い出の中にいた男に違いなかった。

「よくやった」

 秋野が軽やかに菊千代の傍に立った。

「これが影の本体だ」

 ロッキーがその後ろで首を傾げた。

「こいつが持ってた強い情念ってなんだ?」

 菊千代が口を開こうとしたが、答えたのは他ならぬ影の男だった。

「……私の悔いです」

 その声からは先ほどまでの陰湿な響きが消え失せ、力なかった。男は頬のこけた顔を上げ、菊千代を見つめる。

「私の一人娘への悔いが、この身を縛りつけてしまったのです」

 マリアが秋野に問いかける。

「ねぇ、この霊はどうなるの?」

「怨念を祓われたあとは、霊自身が決めるのだ。依り代と共に静かに暮らすか、それとも霊の還る道を通り、次の生へ歩み出すか」

 菊千代が「おい」と、霊に向かって声をかけた。

「あんたは、娘に会いたかったんだろう?」

 男は弾かれたように菊千代を見た。ロッキーとマリアは『何を言っているんだ』と言わんばかりに不思議そうな顔をしていたが、狛犬たちは何かを察して、じっと菊千代を見守っていた。

 男はうつむき、そして小さく頷いた。

「……はい」

「来ない者を待ち続ける辛さはわかるよ。でも、あんたは待つだけじゃなくて、娘を捜して走り回るべきだったんだ。段ボールを越えた俺みたいにね」

 菊千代が刀を腰に戻し、胸を張った。

「ときには自分の足を動かして、手を伸ばして、大事なものを掴まなきゃならないときがあるんだよ」

 それを聞いた男がすすり泣いた。

「……私は怖かったのです。今更娘に会いに行っても、許してもらえないんじゃないかと。それに、自分から私を恋しがって戻ってきてはくれないかという意地もあったのです」

「馬鹿だな、あんた」

 菊千代があっけらかんと言い放った。

「許してもらえなくても、あんたが娘を恋しく思うってことは絶対にどうやってでも伝えなきゃいけなかったんだ」

「……今からでも間に合うでしょうか」

 顔を上げた男の痩せた頬は、涙で濡れていた。菊千代が肩をすくめた。

「さぁ、それは神様仏様、もしくはあんた次第だ。娘は一足先に次の生に向けてあの世へ旅立っているんだろう?」

「はい」

「だったら、今から追いかけなよ。本当は家を出たときに、そうしたかったんだろう? 変な意地は張らないことだよ」

 そして彼は男を優しく見つめる。

「心の声に従うべきさ。うちのマリアが言うにはね、考えるより感じることが大事なんだってさ」

 それを聞いた男の顔に、小さな笑みが浮かんだ。その途端、天から光が射した。みるみるうちに男の体が透けていき、天上に昇っていく。

「……なんだ、待ってたんじゃないか」

 見上げた菊千代が呟いた。その向こうにあの娘の顔が見えた気がしたのだ。だが、ハッとして声を上げる。

「おい、お前! さっき『聞いた』って言っていたけど、誰から何を聞いたんだ?」

 だが、男にはその声は届かなかった。彼の姿と天上の光はすぐに消えてしまったのだ。

「あぁ、行っちゃった」

 ぽつりと漏らした菊千代の顔は、知らないうちに微笑んでいた。

「菊千代、お前は物憑きの霊の過去を見たのか?」

 時雨の声に、菊千代が頷く。

「周囲の人間の心を引きずり込むって言ってたけど、真っ先に引きずられたのは、俺だったのかもしれないな」

「今回は力の弱い霊だからまだよかったのだ。もっと情念の強いものだと、何も知らない人間に悪影響が出かねない。それに、ここにはそういうものが集まりやすいのだ」

「どういうこと?」

 首を傾げた菊千代に、秋野が答える。

「お前たちの主人は骨董市であれこれ買ってくるのが好きなようだが、どうも『物憑きの霊』を引き寄せる体質なのだ。しかも、今日生まれた赤ん坊が、特にこういう霊に好かれる定めなのだ」

「じゃあ、赤ん坊には何か特別な力があるってこと?」

「そうだ。それで『物憑きの霊』が情念をまき散らして周囲に影響を及ぼすとき、今夜のように鎮めるのが、お前たちに課せられた使命なのだよ」

 菊千代が頷こうとした瞬間、「私は嫌だからね」というマリアの声が響いた。彼女はつんと澄まし、不機嫌そうに尻尾を揺らす。

「私、赤ん坊は好きじゃないの。守るなら、勝手にしなさいよ」

 そして、彼女は声を落としてこう呟く。

「どうせ、どんなに一生懸命守ったところで……」

 だが、その言葉は最後まで声になることはなかった。途中で彼女は平屋のほうに駆けだしてしまったのだ。

 追いかけようとした菊千代の肩をロッキーが掴んで引き止めた。

「そっとしてやれ。大丈夫、頭ではわかっているさ。あいつは情が深い猫だからね」

「でも……」

「なぁに、メス猫も三年生きていれば傷の一つや二つあるってことさ」

 そう言うと、ロッキーが狛犬を見上げる。

「さて、今夜は一件落着だ。だが、また異変が起きたらどうすればいい?」

 時雨が答えた。

「また『解』と唱えて、その姿になるといい。それに、もし我らの力が必要であれば名を呼ぶといい。いつでもはせ参じよう」

「わかった。それで、この体を元に戻すには?」

「ただ『散』と唱えれば元の姿に戻るだろう。あの意地っ張りなサビ猫にも教えてやるのだな」

 そう言うと、狛犬たちは踵を返し、あっという間に駆けて行った。店に取り残された菊千代とロッキーは顔を見合わせる。

「なんだか、いろんな意味で賑やかになりそうだな」

「本当だね。それにしてもロッキー、そのグローブ似合ってるよ」

 ロッキーが小さく笑う。

「まさか、この俺が『イタリアの種馬』になるなんてな。猫の一生にも何が起こるかわからないものだな」

「イタリアの種馬ってなんだ?」

「俺の名前のもとになったロッキー・バルボアという男のニックネームだ」

「なぁ、種馬ってなんだ?」

「……お前が去勢手術を受ける頃に教えてやる」

 ロッキーはそう言って高らかに笑うと、首を傾げている菊千代に「さぁ、戻ろう」と促したのだった。

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