『若』と『にゃむらい』の誕生
それから一週間は、エミさんがいないことを除けばいつも通りの日々が過ぎていった。
出産を終えたエミさんが産婦人科に入院している間、カンさんが慌ただしくベビー用品を家の中に揃えていた。
ベビー用の布団が敷かれ、粉ミルクに哺乳瓶、紙おむつ、ベビーバス、肌着といった見慣れない代物が増えていく。
「知らない匂いがたくさんする」
懸命に辺りの匂いを嗅ぐ菊千代を、ロッキーが止めた。
「ほどほどにしとけ。いい加減にしないと鼻が乾いても知らないぞ」
だが、そう諫めるロッキーの声にもどこか浮き足だった響きがあった。
しかし、マリアだけはどこか不機嫌そうな顔をして、そっぽを向いているのだった。
そして、とうとうエミさんの退院の日が来た。
「来たぞ!」
玄関の鍵を開ける音に、菊千代が居ても立っていられない様子で駆けだした。
「ただいま」
エミさんが白いおくるみに包まれたものを大事そうに抱えている。彼女はまっすぐ寝室に行くと、感嘆の声を上げた。
「すっかり部屋が赤ちゃん仕様ね」
そして、ベビー用の布団にそっと抱いていた包みを横たえた。
布団をのぞき込んだ菊千代の目が見開く。
「なんだ、このしわくちゃな生き物は!」
思わず匂いを嗅ごうとする菊千代を、エミさんが慌てて押しとどめる。
「待って、菊千代。ダイキを踏んづけちゃ駄目よ」
「ダイキ? ダイキって、この子のこと?」
菊千代はただただ驚き、目の前の赤ん坊を見つめていた。
赤ん坊は男の子で『ダイキ』という名をつけられた。目の大きな器量のいい子だった。
彼はまだ小さく、頼りなく、赤かった。ミルクのいい匂いで包まれているが、菊千代には毛のないのが不気味に見えた。
赤ん坊はただ寝て、泣き、ミルクを飲み、排泄をし、成長するためだけに生きている。その姿は、母猫の懐で過ごしていた頃の自分を思い出させるのだった。
菊千代にとって何より驚きだったのは、彼がとてもか弱く、ほんの少しのことで死んでしまうような脆い存在にもかかわらず、その内側は生命力の塊だという矛盾だった。
赤ん坊はまるで太陽のように莫大なエネルギーを秘めている。その体温は高く、心地よい。小さな体にぴったりと寄り添って寝ていると、生きることへの強さを分けてもらえるような気がした。
ロッキーは棚の上からエミさんの横顔を見つめて、微笑んだ。彼女の顔には疲労の色が浮かんでいたが、それをものともしない深い慈愛と喜びが生まれているのを見て取ったのだ。
一方、マリアだけは部屋の入り口にじっと佇み、なかなか赤ん坊に近づこうとしなかった。その目にあるのは嫌悪というより、不安だった。
この夜、カンさんは初めての沐浴やミルクに奮闘したあと、嬉しい疲れを感じながら晩酌を始めた。
エミさんと赤ん坊が寝静まったところで、なるべく小さな音量でひっそりと映画を観る。
画面に映ったのは、またもや映画『七人の侍』だった。産婦人科に呼び出されて中断してしまったところから続きを観ている。
菊千代は、自分と同じ名前を持つ男の姿を目に焼き付け、そして赤ん坊を見やった。
柔らかく、頼りない姿だが、その奥に秘めている光を見出し、彼はピンと耳を立てた。
「決めた。俺は侍になる!」
ロッキーとマリアが驚き呆れて彼を見た。だが、菊千代は真面目な顔でこう言い切った。
「食べることは生きることだ。そしてこの映画の男は生きるために死んでいった。でも、そう決めたのは損得でもなく、命令でもなく、自分の心の声に従ったからだ。俺はこの赤ん坊を守りたいと思った。その声に従って生きる。だから、俺は侍になる」
マリアが鼻で笑う。
「なれるわけがないでしょう。あんたは猫よ?」
「俺は……いや、拙者は侍になる……でござる!」
「その侍言葉、胡散臭いわよ」
「だって、マリアが言ったんでござる。考えるより、感じるものだって」
マリアはぐっと言葉に詰まったが、むきになって牙を見せた。
「なによ、あんたなんか侍というより『にゃむらい』よ!」
「ひどいでござる!」
「その変な言葉遣いをやめなさいよ!」
二匹がとっくみあいの喧嘩を始めるのを、ロッキーが呆れ顔で見ている。
「やれやれ、若いな」
「ロッキーも見てないで、何か言ってよ!」
毛を逆立てるマリアに、彼は「ふふん」と笑った。
「男が決めたことだ。口出しするのは野暮だぞ」
そして、首輪にぶら下がる弁財天からの贈り物の重みを感じ、静かに言った。
「俺はエミさんのために、その子を守る。お前は好きにしていいぞ」
ふくれっ面のマリアがつんとそっぽを向く。ロッキーは菊千代に向かって目を細めた。
「お前のにゃむらいっぷりが楽しみだな」
「ロッキーまで! 拙者は侍でござる!」
高らかな笑い声が響き渡る。赤ん坊は何も知らずに寝息をたてていた。
こうして、そば屋『たきのや』を営む滝沢家に、一匹の小さな『にゃむらい』が誕生したのだった。
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