交錯する記憶

 菊千代が次に見たのは、古ぼけた小さな和室だった。カレンダーには昭和四十三年という文字がある。

「お父さん、お母さんはどこに行ったの?」

 部屋の奥で、小さな女の子がしゃくり上げながら、一人の男にすがりついていた。

 彼は唇を噛みしめ、女の子を抱き寄せる。

「遠くに行ったんだよ。でもね、お父さんはずっとここにいるからね」

 それから景色は流れ、女の子がみるみるうちに大きく成長していく。一方、それを見つめる男はどんどん年老いていくのだった。だが、いつもその顔には深い愛情が浮かんでいる。

 影の男は妻に先立たれてから、男手一人で娘を育てたらしかった。

 成長した女の子は、美しい女性になった。やがて、あの黒電話で誰かと話す姿が映った。頬が染まり、はにかみながら楽しげに電話をしている。

 だが、そこに男が現れると、娘から受話器を取り上げ、荒々しく電話線を抜き取ってしまった。

「何をするのよ!」

「またあの男だろう? あいつとは別れなさいと言ったはずだ!」

「お父さん、どうしてわかってくれないの?」

 娘は先ほどまでの幸せそうな顔が嘘のように、目に涙をためて父親を睨めつけていた。

「私は彼と結婚したいのよ」

「駄目だ! お前には地主の息子から縁談も来てるんだぞ? なのに、どうしてあんな工場の下働きの男のところに嫁いでわざわざ苦労しようとするんだ」

 娘があきれかえったように、父親に食いつく。

「地主ってそんなに偉いの? いつの時代の話をしてるのよ。確かにあの家は土地をたくさん持ってるけど、息子の女癖が悪いって有名じゃないの」

「その息子がたくさんの女の中からお前を選んだんだ。光栄じゃないか。貧乏暮らしがやっと終わるんだぞ」

「親が金持ちだからって、子どももそうとは言えないのよ。ろくに働きもしない馬鹿息子じゃないの。貧乏暮らしが嫌なのは私じゃなくてお父さんでしょ? 私は彼を愛してるのよ!」

 娘は泣きながら部屋を出て行った。残された父親は黒電話を床に投げつけ、床にへたりこむ。

 その後、娘は荷物をまとめると、父親が仕事に行っている間に家を出た。玄関を出るときに辺りを見回したあとは、一度も振り返ることもなく、外で待っていた男と肩を寄せ合って消えていった。

「どこにいった!」

 父親は娘が家を出たことに気づき怒り狂った。街中を走り回り、そしてとうとうやつれた顔で静まりかえった家に戻る。

 誰もいない暗い部屋。あのとき少女が母を恋しがって泣いた部屋は寒々としていた。

 そして月日は流れ、男は一人侘びしく暮らしながら、何かと黒電話に視線を送る。

 娘から連絡が来るのではないか。やっぱり父親のもとに帰りたいと泣いているかもしれない。そんな気がして、彼は寝るときも布団のそばに黒電話を置いた。

 だが虚しく月日だけが過ぎていき、やがて男のヒゲや眉毛にも白いものが目立ち始めた。体つきも痩せこけ、足下はおぼつかない。

 そのうち咳が止まらなくなり、彼は病院から入院をすすめられるようになった。だが、頑として男は黒電話のそばを離れなかった。

 そしてその日が来た。

 早朝、黒電話が鳴った。布団から飛び起きて黒電話を取った男が「もしもし!」と声を上げる。

 だが、そのうち彼の顔から期待も生気も消えていった。その電話は、娘夫婦とまだ見ぬ孫が事故で死んだという知らせだったのだ。

「……俺があのとき許していればよかったのか」

 電話を切った彼は、へなへなとその場に座り込む。

「いや、断固としてこの家に縛りつけておけば、死なずに済んだのかもしれない」

 嗚咽が漏れ、彼は力一杯畳をたたきつける。何度も何度もたたきつけ、声を上げて泣いた。

 失意にとらわれ生きる気力をなくした彼は、ある朝、部屋で冷たくなっていた。だが、死んでも彼の霊は黒電話に取り憑いて離れなかった。

 じっと鳴らない電話を見つめている死んだ男の目は、菊千代に数ヶ月前の自分を思い出させた。

 段ボールに自分と兄妹を入れて置き去りにした人間の顔がおぼろげに思い出された。足音が遠ざかってからも、彼はひたすら迎えが来るのを待った。その人間でも母猫でもどちらでもよかった。

「誰か来て。お腹すいたよ。寒いよ」

 何度も鳴いた。だが、誰も来なかった。そのうち、体の小さな妹たちが先に動かなくなり、冷たい肉の塊と化した。その中でも彼は、ひたすら戻ってこない温もりを待った。

 あのときの自分も、きっとこの男と同じ目をしていたのかもしれない。

 菊千代がそう思ったとき、景色がすうっと消え失せ、時間の流れが元に戻った。

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