家族の想い
菊千代が目を覚ましたとき、ダイキは離乳食とミルクで腹を満たし、穏やかな眠りについていた。台所からはエミさんが包丁を使う音と何かを煮込む音が聞こえてきた。ほんのり、味噌の匂いもする。
時計を見ると、既に夕方の五時を過ぎていた。
「ロッキー、マリア、起きるでござる」
菊千代が揺さぶると、ロッキーが大きな欠伸をした。
「やれやれ、寝てしまったか」
「ううん、霊体だと休んだ気がしないわね。早く元に戻りましょうか」
三匹が伸びをしたときだった。玄関の扉が開いて、カンさんが帰ってきた。その手には何やら小さなビニール袋を持っている。
「あれ、今日は早いのね」
エミさんが台所から慌てて出てきた。
「うん、今日は蕎麦が品切れしたから、早く閉めたんだよ」
「そうなの」
エミさんはふっと目を伏せた。
「あなた、あの、今日は骨董市に行かせてくれてありがとう」
「ああ、いいんだよ。ゆっくりできた?」
エミさんは言葉に詰まったが、ぎこちなく笑う。ふと、彼女はカンさんが手にしていた袋に気がついた。
その視線に気付き、カンさんが「ああ、これ?」と残念そうに差し出した。
「このそば猪口、突然割れてしまったんだよ。誰も手を触れていないのに」
袋を覗き込み、エミさんは「あっ」と声を漏らす。欠片に描かれていた模様は、電車の中で自分を救ってくれたそば猪口のものと同じだった。
「覚えてる? これがあるから、僕たちお付き合いしたんだよね」
エミさんの記憶が鮮明に蘇る。
康之を忘れようとあちこちに旅行をしていた頃、エミさんは京都の骨董市で檜垣文のそば猪口に惚れ込んだ。繊細な模様と落ち着いた色あいに、無性に心惹かれ、予算を大幅に超えていたが、迷わず購入したのだ。
そして彼女は自分の旅行をまとめたブログに、そのそば猪口の記事を書いた。それを偶然観たカンさんがコメントを送り、そこから二人は交流を始めたのだった。
カンさんから桐生市の骨董市を紹介され、彼女は興味本位でこの地を訪れた。カンさんは初めて店を臨時休業にし、エミさんを案内した後、自分の蕎麦をふるまった。
「あの日は初めて店を臨時休業にしたもんだから、ミヨさんたちに何事だって騒がれたっけ」
「聞いたことあるわ。何かあったのかって訊いても『大事な用事がある』の一点張りだったって」
のちになってエミさんと会うためだったと知り、ミヨさんたちはしばらくカンさんをからかっていたらしい。それを思い出してか、カンさんの頬が染まった。
「だって、ずっと気になっていた人に初めて会うんだよ。大事な用事以外に説明しようがないよ」
もてなしの礼として、エミさんは檜垣文のそば猪口を彼に贈ったのだが、お互い惹かれ合うのに距離や時間はそれほど必要なく、結局は二人の所有物となったのだった。
カンさんが照れ臭そうに頭を掻く。
「プロポーズしたとき、ずいぶん返事を待たされたからやきもきしたなぁ」
「そうだわ、私、あの頃はあなたがあんまり優しくて……」
その拍子に、ふっと涙が溢れた。
「私ね、あなたが優しいから、もしまた壊れたらどうしようって、怖かったのよ」
仰天するカンさんに、エミさんが尋ねる。
「ねぇ、あなた。どうして私を選んでくれたの?」
涙の滲む声で、彼女は言った。
「あなたにはどう見えたかわからないけど、私、傷だらけでどうしようもなく弱くて、我が儘なの。それにとっても臆病。それなのに、どうして?」
すると、カンさんは困ったように笑う。いつもの穏やかな顔つきだが、その目は真摯だった。
「うん、何かを引きずっているのはわかっていたよ。でもね、君にぴったり寄り添うロッキーが鏡になってくれた。ロッキーを見ていれば、君がどんなに優しい人かわかるには十分だろう?」
エミさんが泣きながら笑う。
「やっぱり、あれはあなただったのかしら」
康之に捉われていたいた自分を救ってくれた姿を思い出し、エミさんが涙を拭いた。
「家族でいてくれて、ほんまにありがとう」
カンさんはそっと妻を抱き寄せ、いたわるように優しく髪を撫でた。
「こちらこそ、ありがとう」
三匹がうっとりとそんな二人を見ている。
「讃岐弁って素敵でござるな」
「ふふん、エミさんが喋るからいいんじゃないか」
そんなことを言っていると、ふと天上から大きな気配と視線を感じた。
「ああ、弁財天様がご覧になってるわ」
マリアが思わず呟く。その鼻をかすかに蓮の香りがかすめたのだ。
「あっ」と、菊千代が声を漏らす。ぼんやりと、カンさんとエミさんの背後に、凛々しい僧侶と美しい巫女が手を取り合って微笑んでいるのが見えたのだ。だが、それも一瞬のことですぐに消えてしまった。
ロッキーが目を丸くして「今の見たか?」と惚けたように言った。
「ご先祖様も心配して様子を見に来てくださったんだな」
マリアが夢見るように呟く。
「手を重ねてたわよね。もしかして、遠いご先祖様もご夫婦だったのかしら」
「さあな。でも、僧侶と巫女だろ? 自分たちの末裔を見守る同士ってところじゃないか?」
「ロッキーは夢がないでござる。叶わぬ恋の相手だったかもしれぬでござるよ」
「それなら、カンさんたちがご先祖様の想いを叶えたってことになるわよね。ロマンチックだけど、もしそうなら、ご先祖様は辛かったんでしょうね」
「ご縁ってやつか? 世代を飛び越えても結びつく想いってのは理解できないな」
ロッキーが少し考え、そっと呟く。
「俺たちがどうして選ばれたかって話だけどさ、もしかしたら、猫と人間の感情ってどこか違うのかもしれないよな」
「どういう意味よ?」
怪訝そうな顔のマリアに、ロッキーが答える。
「俺たち猫にも感情はあるけれど、でも、人間ほどひねくれてはいないだろう? だからこそ、辛い想いに取り憑かれた奴らを目の前にしても他人を背負い込んで潰れることはないからかもしれないぞ」
「そうかしら。でも、痛いとか怖いって感情はあるんだから、こじらせるのもほどほどにしてほしいわ」
菊千代は不満げに尻尾を揺らした。
「それに、若たちと同じ時間を過ごしている拙者たちも、同じ想いを共有していると信じたいでござるよ」
すると、マリアが「ふふん」と鼻を鳴らした。
「そんなこと、言わずもがなよ。当然でしょ、私たちは家族なんだから」
そうきっぱり言い切ると、彼女は珍しく少し切なそうな目になった。
「祓われた物憑きの霊みたいに輪廻の道を行くときは、『生まれてよかった』って思えるように死にたいわ。カンさんたちの家族になれたことで、そう思えるって確信できるけどね」
菊千代は喉を鳴らしてマリアの頬に顔をすり寄せた。
「拙者たちは家族だって証明できたでござる。きっと、家族になるために生まれてきたんでござる」
ロッキーが、じゃれあうマリアと菊千代の肩を抱き寄せて大口を開けて笑った。
「さぁ、いい加減に霊体を解こう。今日の猫缶はかつお味だ」
菊千代が屈託のない笑みで応えた。
「父上も帰ってきたことだし、みんなで一緒にご飯にするでござるよ」
小さな胸がじんわりと温かいもので満たされていく。共に食卓を囲む幸せが体を駆け抜け、尻尾をピンと立たせた。
「解」
そう唱えた彼らの顔に浮かぶ表情は晴れ晴れとしたものだった。
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