骨董市にて

 骨董市のある第二土曜日がやって来た。澄んだ青空の向こうに雲が高くそびえている。今日も暑くなりそうだと、菊千代は窓辺で欠伸をした。

 エミさんは早朝から洗濯や掃除を済ませ、ダイキの着替えとミルクをわかりやすいようにテーブルの上に並べていた。ダイキが生まれてからは化粧もほとんどしない毎日だったが、この日はきちんと化粧をしていた。マスカラを塗り、最後に口紅を塗ったエミさんは、鏡に向かって苦笑した。

「フルメイクも久しぶりだと、新鮮ね」

 ミヨさんは約束通り九時にやってきた。ダイキはミヨさんの腕の中でもおとなしかった。

「それじゃ、お願いします。何かあったら携帯に連絡ください」

「はぁい。いってらっしゃい」

 エミさんは息子にちらりと申し訳なさそうな、どこか名残惜しそうな視線を送って家を出た。

「お母さんがお出かけしている間、おばさんといい子でいましょうね」

 ダイキは玄関をずっと見つめていたが、泣くことはなかった。ミヨさんにはわからなかったが、菊千代には微かな眉の動きで、彼が不安を堪えているのだと知れた。

 ふと見ると、傍らのロッキーがなにやら思案顔でドアを見据えている。菊千代が話しかけた。

「ロッキー、エミさんのそばにいなくていいでござるか?」

「俺が? なぜ?」

 ふっと我にかえり、ロッキーがヒゲを揺らした。

「昨日のエミさんの様子が気になるでござる。霊体になってそばについていたほうがいいと思うでござるよ」

「なに、大丈夫だ。子どもじゃあるまいし。それに何かあったら知らせがくる」

「誰からでござる?」

「うちに来る雀に、チュン助というのがいる。そいつの兄弟が桐生天満宮あたりに住んでいるからな。万一のときは教えてくれる。第一、時雨と秋野もいるだろうが」

 そう言って彼はさっさと寝室へ向かう。その後ろ姿を見送りながら、マリアが呆れたように言った。

「子どもじゃないだなんて言っておいて、ちゃんと雀たちに様子を見てくるようにお願いしてあるのよ。ロッキーは過保護なんだから」

「なんだ、そうでござるか」

「エミさん、もしかしたら香川が恋しいのかしら」

「どうしてそう思うでござる?」

「今まで、讃岐弁なんて話したことがないんだもの。『お腹おきたん』なんて言い出したの、ダイキが離乳食を始めたあたりからでしょ」

「そういえばそうでござるな」

 ダイキが離乳食を始めたのは一ヶ月前、生後五ヶ月の頃だ。

「でも、この一ヶ月、特になにも変わったことはなかったでござるよ」

「私たちにはそう見えても、何かあったのかもしれないわよ。だって、エミさんったら、お風呂の中でため息をついているもの」

 そう言って、マリアが前足を毛繕いし始めた。

「まぁ、何かあったとしても、女心のわからないあんたには何もなかったようにしか見えないでしょうね」

 菊千代は否定もせず、黙って俯いた。実際、ロッキーもマリアもエミさんの微かな変化に勘付いていたというのに、自分だけは彼女が何かを溜め込んでいることに気づけなかったのだから。



 エミさんは車に乗り込んだものの、ふとシートベルトを持つ手を止めた。

「そういえば、駐車場がないんだった」

 いつも利用していたコインパーキングが月極駐車場に変わってしまったと、噂で聞いたのを思い出したのだ。

「歩こう」

 骨董市の日は、天満宮近辺のあらゆる駐車場が満車になる。唯一の穴場だったコインパーキングがないとなると、新たな駐車場を探し回るより、最初から徒歩で行ったほうが気楽に思えた。それにダイキが生まれて以来、すっかり運動不足になっている。少しは痩せるかもしれないと、彼女は車を降りて歩き出した。

 家を出て曲がり角を過ぎると、なだらかで長い下り坂に出た。坂の向こうには丘陵に開かれた畑や家々が広がっている。はるか遠くの峰が抜けるような青空に映え、白い雲が眩しい。

 歩くごとに、エミさんの口元が緩んでいった。自分の体が羽のように軽く感じたのである。

 妊娠中に歩いたときは、お腹が重くて動くのも億劫だったし、ここ半年は抱っこ紐を使うか、ベビーカーに乗せるかして、常にダイキが一緒だった。

 ダイキがいないだけで、こんなにも身軽だったのか。そう思った。子どものいない人にとっては当たり前の歩みでも、このときのエミさんには月面を歩いているかのように感じたのだ。まるで背中に羽が生えてどこにでも弾んでいけそうな気がした。

 最寄駅につくと、二両編成の上毛電鉄に乗りこんだ。ベビーカーのときは苦労した段差もひょいと乗り越えられる。抱っこ紐だと前が見えなくて財布から小銭を取り出すのも苦労していたが、そんなストレスもない。

 エミさんは流れ行く景色を見ながら、思わず心の中で呟いた。

『一人ってこんなに楽だったのね』

 独身時代は旅行が趣味で日本各地を巡っていたが、今となっては夢のようだった。

『あの頃はカンさんとデートするためにしょっちゅう高松空港から関東に飛んできたのよね』

 故郷の香川県を思い出した彼女は、携帯電話を取り出し、通信履歴にある電話番号を見つめる。市外局番は香川県だった。そして頭の中に懐かしい顔を思い浮かべた。

『ほんまにしょうがない人だった。あれやこれや騒ぎばっかり起こして、心配ばっかりかけて。昔っからそうだった。ほんまにどうしようもない』

 讃岐弁が浮かんだのは無意識だった。蓋をして押し込めていた記憶が溢れ、一気に腹の奥で重くどす黒い苛立ちがうねりだした。それはカンさんとの暮らしの中でとうに忘れたと思っていた感情だった。次第にその苛立ちはヒリヒリとした痛みに変わる。

『違うわ、ほんまにどうしようもないんは、私かもしれん』

 ゆらゆらと揺れる手すりを見つめ、エミさんは目を細めたのだった。

 群馬県桐生市で開催される骨董市は、その名を『天満宮古民具骨董市』といい、東京東郷神社、川越骨董市と並び関東三大骨董市と称されている。

 桐生天満宮の境内に所狭しと店が並び、暮らしの道具からカメラや絵画、像といった美術品、刀剣に古書、玩具など様々な物と出逢える。

 骨董市のある第一土曜日にあわせ、同じ日に本町三丁目の通り沿いをびっしり八十ほどの店舗が品物を並べる。これは『桐生楽市』といい、いわゆる蚤の市である。天満宮までずっと続く様は骨董市の延長のようであり、品物も多種多様だ。中には野菜や惣菜、漬物まで並ぶこともある。

 更に、天満宮の近くでかつて賑わった市を復活させた『買場紗綾市(かいばさやいち)』も同時に催されている。ここでは主に繊維製品や食品、日用雑貨が並ぶのだ。

 これら三つの行事を『桐生三大市』と呼び、その界隈は大いに賑わう。楽器演奏や踊り、チンドン屋まで目にすることもある。

 桐生楽市まで来たエミさんは、あまりの人出に車を置いてきてよかったとしみじみ思った。歩道に店を出しているため、通行人とすれ違うのも気をつけていないとぶつかってしまう。ひと月ほど前、ダイキを抱っこ紐で連れてきたときも難儀したことを思い出した。慣れない抱っこ紐と気疲れで天満宮へ着く前に力尽き、桐生楽市だけ見て帰ったのだ。

 もう少し成長したダイキが何にでも手を伸ばすようになったらますます注意がいるだろう。それに乳児を連れて歩くにはミルクやオムツなど手荷物も多い。狭い通りを歩くのは苦労する。

『しばらくは来れないでしょうね。今日は目一杯堪能して帰らなきゃ』

 急いで見てまわれば、早めのランチを済ませることもできるかもしれない。ダイキがいると行けないような小上がりのない店や、混み合う店にも行ける。

『パスタもいいわね。うなぎなんて食べたら、カンさん拗ねちゃうかしら』

 エミさんは心も足取りも軽く、天満宮への道を急いだ。トンボ玉、着物の帯、硯、昭和のオモチャなどを横目に境内を進んでいたが、串団子を並べている店の前にさしかかると歩みを止めた。店先には串団子にそば団子、甘酒やかき氷もある。朝食を忘れたことに気づき、彼女は財布を取り出した。

「すみません、お団子ください」

 久しぶりの串団子だったが、味わう間もなく、あっという間に平らげてしまった。自分がいつの間にか早食いになっていることに気づき、エミさんは苦笑した。このところ、ゆっくり食事をした記憶がなかった。カンさんと一緒に食卓につくこともなくなっている。夫が夕食をとっている間はダイキをあやすか、たまった家事を済ませる。自分の食事は台所で立ったままかっこんで済ますようになっていた。

『やっぱり、骨董市は早めに切り上げて、ランチを済ませて帰ろう』

 昼までに戻るには急がなくてはならない。彼女は意気揚々と歩き出した。

 

 本殿の脇まで足をのばすと、店が途切れて木々や茂みが目立つようになった。本殿の裏手はちょっとした雑木林のようになっていて、基本的にここでは店を出す者はいない。

 しかし、薬箪笥を買った店はこの林の間にひっそりと出ていた。

『あの店で買い物をしたのは、まだ妊娠中だった頃よね』

 一年も経っていないが、もう何年も過ぎているような気がした。いつもこの辺りに店が出ていることなどないので、珍しさからつい足を止めたのだ。

『本殿の裏手って店を出しちゃいけないのかしら』

 それとも人通りがないから誰も出そうとしないだけだろうか。もしそうなら、わざわざ人の目につかないところに出す店など怪しすぎる。


 あのときもそう考えて警戒した。ところが、それでも目に飛び込んできた薬箪笥が無性に心を惹きつけた。まるで箪笥が自分のところに来たがっているように感じたのだ。

 後日、カンさんから『薬箪笥に開かない引き出しがある』と知らされたときは曰く付きのものを買ってしまったかと不安になったが、数ヶ月前にひょいと開いたらしい。

『古い小さな首輪と猫のおもちゃが入っていたって言っていたけど、あのおじいさん、中身を見ずに売ったのかしら』

 エミさんは首をかしげながら、店の主を思い出す。薬箪笥を売っていたのは、白いヒゲをたくわえた年配の男性だった。着古した着物に身を包み、まるで仙人のような風貌だったのを覚えている。

『今日はいるかな』

 舗装もされていない道をゆくエミさんは、「あっ」と、小さな声を漏らした。木々の間から探していた男性の横顔が見えたのだった。

 店主は痩せこけ、ひょろっとした体格をしていた。品物を並べたゴザの上にあぐらをかいている様も、出で立ちも、以前見たときとまったく同じだった。

 エミさんの視線に気づき、店主がふと顔を上げた。声には出さなかったが、小さく開いた口の形が「おや」と言っていた。丸くぎょろっとして白眼がちな目が、柔らかく細められる。

「いらっしゃい。あんたはいつぞや薬箪笥を買ってくださったお客さんだね」

「私のこと、覚えていてくださったんですか」

 店主が細く長いヒゲを指でなぞりながら笑う。

「そりゃあ、ね」

「あのときは箪笥を運んでくださってありがとうございました」

「いいんじゃよ、儂が運んだんじゃない」

 エミさんが薬箪笥を買った日、どうやって車まで持って行こうか考えていると、店主は道の先に向かって「おうい、手伝っておくれ」と声を上げた。すると見知らぬ大男が現れ、箪笥を軽々と担いだのである。

 車に箪笥を積むまで、男は何もしゃべらなかった。エミさんが話しかけても無言で頷いたり、首を振ったりするだけ。しかし、別れぎわに会釈をしたときに細められた目は優しそうであった。

「あの人、今日はいらっしゃらないんですね。従業員の方なんですか?」

「いんや、まぁ、呼べばくるが。あいつは仲間みたいなものかねぇ」

「そうですか。よろしくお伝えくださいね」

 そう言いながら、エミさんはいまいちスッキリしない顔をしていた。店主に言われるまで、箪笥を運んでくれた男のことを綺麗さっぱり忘れていたのだ。しかもどんな顔をしていたか、いまいち思い出せなかった。

 店主が呵呵と笑い、こんな冗談を言った。

「あの男、牛のようにのろかったじゃろう? 日が暮れる前に車へ運べてよかったわい」

 確かに彼の歩みはのそのそとゆっくりだった。体格が良かったのも牛を思わせる。しかし、彼の歩調は重い箪笥を担いでいるからか、身重の自分に合わせてくれているものだと思っていた。

「でもとても助かりました。妊娠していると歩くのも難儀するものですから」

 その言葉に、店主の目が一層細められた。

「あの牛男に伝えておこう。ところで、今日の腹は引っ込んでるところを見ると、無事に身二つになられたようじゃの」

「えぇ、おかげさまで」

「そうか、それはめでたい」

 店主はいかにも好々爺という顔つきで微笑む。目の前に並べた品物を目で示し、こう言った。

「お祝いにどれか差し上げよう。もし気に入ったものがあれば何でも」

「えっ、そんなわけには」

 エミさんが思わず目を丸くすると、店主は細いヒゲをつるりと撫でた。

「なぁに、人の造り出した物というのは、人の手のぬくもりが恋しいものじゃ。儂のようなジジイと一緒にゴザの上でいつまでも寝転んでいたくはないだろうから」

 エミさんはゴザに乗せられた年代物の櫛、古書、インク壺、茶碗と視線を走らせたが、その目がある物に釘付けになった。

「おや、それが気になるかい?」

 店主に言われて頷く。エミさんが視線をとめたのは小さな瓶だった。細長く、蓋のところに翼を模した装飾が施されていた。

「これ、なんですか?」

「香水瓶じゃよ。昔、ある金持ちが娘のために作らせたものらしい」

「だいぶ古そうですね」

「まぁ、百年は経っているな」

 エミさんは香水瓶を手に取ると、しげしげと日にかざして見つめた。

『なんだろう、この感じ』

 香水瓶を撫でながら、彼女は戸惑う。香水をつけない彼女には無用の長物でしかない。それなのに目が離せなかった。

『薬箪笥のときは自分のところに来たがっているように思えたけど、この瓶はなんだか助けを求めているような気がするわ』

 そう考え、思わず失笑した。

『馬鹿馬鹿しい。私ったら疲れてるのかしら』

 しかし、香水瓶はしっくり手に馴染み、まるで自分の長年の愛用品のような気さえする。

 店主がふっと笑った。

「そういう縁は大事になさるといい」

 自分の心を見透かされたような言葉に、エミさんは顔を上げた。

「初めて見たのに、どこか懐かしい気がするなら、その物と縁があるということじゃ」

「縁、ですか」

「そうじゃよ。物は人と繋がり、持ち主と心を交わし、そこを介してまた別の人と縁を繋げていくものじゃ」

 エミさんは眉尻を下げて微笑んだ。

「少しわかるような気がします」

 彼女の脳裏に浮かんだのは、滝沢家で大事に飾ってあるそば猪口だった。そのそば猪口はカンさんとの思い出の品で、それがなければ群馬に嫁ぐこともなかったのだ。

「じゃあ、この瓶をいただきます」

「あんたは見る目がある。いい物をお選びになった」

 エミさんは何度も礼をし、本殿の脇に抜ける道をまた歩き出した。

 店主がその後ろ姿を見送っていると、背後から低い声がした。

「誰が誰の仲間だと?」

 茂みの奥から現れたのは薬箪笥を運んだ大男だった。苦々しい表情を浮かべて店主を見ている。店主は振り返りもせず、小さく笑った。

「似たようなものであろうが」

「ふん、似て非なるものぞ。断っておくが、お前のために手伝ったのではない」

「知っておるわい」

「で、あれを渡してよかったのか?」

「よいのだ。人が何かを選ぶという行為には、何かしら意味があるのだからな。それに、今回選ばずとも、あの香水瓶、いずれは滝沢家に惹かれて行くであろうよ。この辺りで一番力の強い家じゃ」

「あまり暴れると罰をくらうぞ。ほどほどにな」

「わかっておるわい。それよりも、さっきの女の礼を聞いていたか?」

「うむ、聞こえた」

 大男はどことなく嬉しそうにはにかむ。

「あの者は何度も参拝してくれている。役に立ったなら幸いだ」

 大男の体が大きく身震いしたかと思うと、みるみるうちに、大きな牛になった。道の先にある牛の像の前へゆったり歩いて行き、すうっと消える。

「道真公の『なで牛』殿は寛容なことじゃ」

 店主がヒゲを撫でる。

「さてはて、あの香水瓶はどうなることやら」

 その声はまるで悪戯を企む子どものように無邪気なものだった。

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