嵐の前の静けさ

 母屋に戻った菊千代は霊体を解くと、ぐっと前脚を突き出して背伸びをした。

「霊体から戻ると、どっと疲れがくるでござるね」

 そう独りごちて欠伸をしていると、マリアが軽やかな足取りで歩み寄ってきた。

「おかえり、菊千代」

「ただいまでござる」

「ミサヲは元気そう?」

「ふむ、なにやらカンさんの傍は居心地がいいそうでござる」

「そりゃ、カンさんは男前だもの」

「いや、そういう意味ではござらんよ」

 菊千代が思わず苦笑する。彼女のカンさんへの一途な愛情は、過去に負った心の傷からくるものだと思っていたが、それが癒えた今でも変わらないらしい。

「マリアはこれから珠緒殿のところへ行くでござるか?」

 元の飼い主である珠緒の居場所を知って以来、マリアは昼下がりの数時間をそこで過ごすようになっていた。

「うん。そろそろ奥様がお昼寝する時間だから、添い寝してくる」

 彼女は「解」と唱え、霊体になって颯爽と駆けだしていった。

 菊千代がその後ろ姿を見送っていると、ロッキーがやって来た。

「マリアは行ったのか?」

「うむ、添い寝してくるそうでござる」

 そう答え、菊千代は苦笑する。

「それにしても、本当にこんな使い方をしてバチが当たらないでござるかね?」

「弁財天様がいいっていうんだからいいんじゃねぇか?」

 ミサヲの件が落ち着いた翌日、時雨が滝沢家にやって来た。そしてマリアに向かってこう告げたのだ。

『弁財天様はこのたびのお前たちの活躍を喜んでいらっしゃった。弁財天様はお前たちの思うままに力を使うように、そして自分に最も相応しい使い道を見つけるようにと仰せられた』

 それを聞いたマリアは元の飼い主が見つかっても、今までのように街中を霊体で歩き回ることを続けることにしたらしい。

『私、自分の手でギターを演奏して奥様に聴かせたいの。だって、映画に出てくるマリアは歌の力で笑顔を広めたんだもの。私も奥様を笑顔にしたいの。それに、外を出歩くとあれこれ情報が入っていいのよ』

 そう言って胸を張ったマリアは、『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアを目指し、ギター教室で飼われている猫から弾き方を習いだした。珠緒が昼下がりの陽気に誘われてうとうとし始めると、マリアは子守唄をつま弾く。それが終わると、一緒に日だまりの中で眠るのだ。

 珠緒のいる施設と『たきのや』の往復をしながらも、その道すがら動物たちの喧嘩を諫めたり、はぐれた子の親探しを手伝ったりと、気ままに動き回っている。

「うちの庭に来る雀によると、なんでも『人の大岡、猫のマリア、どちらの裁きも名裁き』って有名らしいぞ」

 庭にやって来る雀と世間話をするのが好きなロッキーはそう笑うと、ふと首を傾げた。

「それにしても、弁財天様はどうして俺たちにここまでよくしてくださるのかな?」

「マリアが秋野から聞いた話によると、エミさんが弁財天様の加護を受けている家柄だからということであるが」

「それが妙なんだよ。エミさんの実家はいたって平凡な家庭だった」

「ロッキーは母上の実家も知っているでござるか?」

「俺はエミさんと一緒に群馬に引っ越してきたからな」

 はたと菊千代は気づく。思えばロッキーはいつからエミさんといるのか聞いたことがなかった。

 それどころか、どこで彼らが生まれたのかも、どうして出会ったのかも知らなかったのだ。菊千代が気にしていなかったせいもあるが、ロッキーという猫は自分のことをあまり口にしない性格だった。

 そのとき、隣の部屋からエミさんの声がした。

「すごいね、全部食べたねぇ」

 その嬉々とした様子に誘われて部屋をのぞくと、エミさんがダイキに離乳食を食べさせたところだった。生後六ヶ月になったダイキは満足そうだ。エミさんはそんな我が子に微笑みながらこう言った。

「いいお顔してるね。お腹おきたん?」

 それを聞いた菊千代が首を傾げた。

「どういう意味でござろう?」

「何がだ?」

「母上がよく口にする『お腹おきたん』というやつでござる。父上は言わないでざる。あれは赤ちゃん言葉というものでござるか?」

「あぁ、あれは讃岐弁だよ」

「讃岐弁とな?」

「俺とエミさんの故郷、香川県の方言だ。あれはお腹がいっぱいになったか訊いてるのさ」

 彼は懐かしむように言うと、どこか遠くを見るような目になった。

「いいところだよ、香川は」

「遠いでござるか?」

「うん、まぁ、海は越えるな」

「海とはなんでござるか?」

「そうか、群馬には海がないからな」

 彼は「どこからどう説明していいやら」と小さく笑い、それっきり何も言わなくなってしまった。

 菊千代もそれ以上は深く訊くことはしなかった。ちょうどそのとき、エミさんがダイキを布団に寝かせたのを見て、駆けだしたからだ。

「ささ、菊千代が添い寝いたしまするよ」

 そう言っていそいそとダイキのそばで丸くなる。ダイキは「あうあう」と手足を大きく動かして上機嫌だった。


 母屋にミヨさんがやって来たのは、夕方のことだった。

「こんにちは、ダイキ君。大きくなったわね」

 彼女は目を細めてダイキに挨拶をすると、そばに座っていた菊千代の顎を撫でて「菊千代はオスだけどまるで乳母みたいね」と笑った。

「ミヨさん、毎日忙しいでしょ? お店に出られなくてごめんなさい」

 エミさんが麦茶を出しながら申し訳なさそうに言った。

「気にしないで。忙しいほうがいいのよ。あっという間に時間が過ぎるでしょ」

「そう言ってもらえると、嬉しいわ。ありがとう」

「それより、エミさん。もう少しで誕生日でしょう?」

 そう言うと、ミヨさんは「あのね」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「実はね、私とマチさんからプレゼントを用意したの。今年はね、少しだけど、時間をプレゼントしようと思って」

「どういうこと?」

 エミさんの目が丸くなった。

「しばらく骨董市に行ってないでしょう? あんなに好きだったのに」

「えぇ。あれは土曜日にあるでしょう? だからカンさんも休めないし」

「そうなのよね。それでね、土曜日の午前中は私が子守りをするから、骨董市に行ってこない? ただ、お昼時までしかいられないのが申し訳ないんだけどね、どうかしら? 私がいない間はマチさんが一人で頑張ってくれるわ。もちろん、カンさんも協力してくれるっていうしね」

「本当にいいの?」

「うん。もし骨董市じゃなくていいんだったら、定休日に丸一日、子守りしてもいいわ。そうしたらカンさんとゆっくりデートできるでしょ? そうする?」

 エミさんが首を横に振った。

「ううん、骨董市でお願いするわ」

「即決ね。カンさんが聞いたらショックを受けるわよ」

 二人はケラケラと笑い転げる。

「だってね、ダイキが生まれてから一度だけ抱っこして行ったんだけど、人混みも多いし、ゆっくりできないんだもの」

「そうよねぇ」

「それに……」

 何かを言いかけて、エミさんがふと口をつぐんだ。さっきまで笑っていたはずが思い詰めた顔になり、俯く。

 そのとき、ロッキーが見ていたのは、エミさんの膝の上に置かれた手だった。親指の爪を何度も擦るのを見て、彼は『何かあったな』と目を細めた。エミさんがその仕草をするときは、何か気になることがあるということなのだ。

「どうしたの?」という怪訝そうなミヨさんの声で、エミさんは我にかえった。

「あ、いえ、それに気になっている店があるのよ。ほら、薬箪笥を買ったでしょ?」

「あぁ、あのレジのそばの」

「うん。この前初めて見かけた店なんだけど、なんだか面白いものばかり売っていたの」

 それを聞いた菊千代とマリアが顔を見合わせる。また面倒なことが起こらなければいいが。菊千代は尻尾を大きく横に振った。


 その日の夜は蒸し暑かった。そのせいかダイキの機嫌が悪く、ミルクをあげてもオムツを替えても一向に寝る気配がなかった。

「ダイキ、どうしたの? 今日はぐずるわね」

 最初のうちはそう微笑んで息子を抱っこしていたエミさんも、次第に疲れた表情を浮かべていった。カンさんは別室で明日に備えて寝ている。一度寝付くと熟睡するタイプで、多少の泣き声では起きないとエミさんも心得ていた。それでも夫が起きないように心配する反面、起きてきて手伝ってほしい気持ちもあった。

 エミさんはため息を漏らし、どこか心ここに在らずといった面持ちでダイキを抱っこしていた。ところが、ダイキは寝付くどころか、とうとう泣き出した。

「あら、あら」

 慌ててあやすが、なかなか泣き止まない。普段のダイキは手のかからない子であるが、それでも時々はどうしようもなくぐずることがあった。

「オムツでもないし、ミルクはさっきあげたばっかりだし、どうしたのかしら。もしかして暑い? でもエアコンがききすぎてもいけないだろうし」

 真夜中の暗がりで途方に暮れる声がする。ダイキの泣き声はどんどん大きくなり、エミさんの顔つきが焦燥していった。ただでさえ疲労困憊の頭がさらに重くなる。

 どうして泣くのだろう。何がいけないのだろう。そう焦るうちに、とうとう頭に血がのぼり、いてもたってもいられなくなった。

「あぁ、もう、うるさい! 泣きたいのはこっちよ!」

 とうとう強い語気で言い放つ。すると、ダイキは更に激しく泣き出した。

 エミさんはハッと我にかえると、みるみるうちに罪悪感で胸がいっぱいになり、我が子を力一杯抱きしめた。

「ごめん」

 その一言が漏れた途端、彼女の口が横一文字になり、はらはらと涙が流れ落ちた。

「ごめんね、ダイキ。ごめん」

 震える声で繰り返し呟くエミさんの背中は小さく丸まり、今にも壊れそうだ。寝不足で充血した目から涙がぽたぽたとこぼれ落ち、ダイキの服に染みを作っている。

「母上が怒鳴るところなんて、初めて見たでござる」

 目を丸くする菊千代の隣で、ロッキーが目を瞬かせた。

「いやぁ、ここしばらくは疲れた顔をしていたよ。でも、それだけじゃなくて、何かいろいろと溜め込んでいるようだな」

 マリアが「ふぅん」と相槌を打ってから、ダイキを見上げた。

「エミさんがこんな風に爆発するのって初めてね。珍しい。それにしてもダイキはどうしてこんなに機嫌が良くないのかしら」

 すると、菊千代がぽつりと答える。

「若の声は何かを不安がっているようでござる」

「あんたにわかるの?」

「そんな気がするでござるよ」

 マリアがふっと耳を伏せた。

「じゃあ、泣き止ませてきなさいよ。私だって眠れないわ。カンさんはどうしてこんなに騒々しいのに爆睡できるのかしら」

「拙者だってそうしたいのはやまやまでござるが」

 すると、それを聞いていたロッキーが首を振った。

「大丈夫だ、今のでエミさんが少し落ち着いたから」

 そう言うや否や、ダイキの泣き声がやんだ。菊千代とマリアが見ると、悔いた顔をしたエミさんが息子を抱きしめ、背中をとんとんと優しく叩いているのだった。

「赤ん坊は母親の気持ちを察するんだろうさ。エミさんの中に溜め込んでいるものが不安なのかもしれない」

「それだけでござろうか。何事もなければいいでござるが」

 誰も返事するものはいなかった。そう言った菊千代すらも、エミさんの涙で濡れた伏目を見ると、何か起こりそうな予感で胸がいっぱいになるのだから。

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