双眸
翌朝、目を覚ました菊千代は、隣でマリアが寝息をたてているのを見つけた。明け方には戻ってきたらしい。その寝顔はどこか苦悶していて、疲れているように見えた。
声をかけようか迷ったが、ロッキーが『寝かせてやれ』と目配せした。
そのとき、玄関が開いてカンさんが店から戻ってきた。朝の蕎麦打ちを終えた彼は、まっすぐリビングのソファに座り込み、深いため息を漏らした。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
きょとんとするエミさんに、彼は「いやぁ」と答える。
「なんだか息苦しいというか、妙な胸騒ぎがして落ち着かないんだ」
「蕎麦の打ちすぎで息切れでもしてるのかしら? 強心剤でも飲む?」
「いや、そういうんじゃないんだよなぁ。なんだか、焦っちゃうんだよ。何故か『こうしちゃいられない』『こんなところにいる場合じゃない』って気分になるんだ。おかしいもんだ」
「あなたが? 焦る?」
エミさんは目を丸くし、そして声をたてて笑い出した。
「あなたほどマイペースな人もいないのに、珍しいわね」
カンさんがつられて笑みをこぼした。
「うん、自覚はあるよ。だけど、ここ数日はなんだか店にいるとそわそわしてしまうんだ」
「おかしいこともあるものね。何かの虫の知らせかしら。とりあえず、朝食を済ませてゆっくりしたら?」
「うん、そうするよ」
二人はいつものように食卓に腰を落ち着け、「いただきます」と声を合わせた。
佃煮を白いご飯に乗せながら、エミさんが思い出したように口を開く。
「そういえば、あの箪笥の引き出し、開いた?」
「レジのところに置いた箪笥かい? いや、どうしても右下の引き出しだけ開かないんだ。中で何かがひっかかっているのかもね」
「骨董市で買ったときは、お店の人は『取っ手を修理したのはここ数年だからまだまだ使えますよ』なんて言っていたのよ。私がその場で全部開けて調べてみるべきだったわ」
「せっかくだから、修理に出そうか?」
「そうねぇ。次の骨董市でまたあのお店の人に会えたら、相談してみるわ。修理屋さんを安く紹介してくれるかもしれないでしょ」
ロッキーと菊千代が思わず顔を見合わせる。右下の引き出しといえば、菊千代が気にしていたところだ。彼らは額を合わせ、こそこそと囁いた。
「ゴキ爺にはマリアから頼んでもらうとして、秋野たちにも相談してみよう。カンさんたちより先に引き出しを開けたほうがいい気がする」
「うん、拙者もそんな気がするでござるよ。骨董市の店というのが、やはり怪しいでござる。秋野たちなら何か知っているかもしれぬよ。なにせ、天満宮が住処でござるから」
そう言って菊千代がカンさんを見上げたときだ。彼は思わず身をすくませた。
それはほんの一瞬だった。
カンさんの向こうに人の双眸が浮かんで見えたのだ。何かを訴えているような、悲しみを帯びた目だ。だが、それが男のものか女のものかもわからないうちに、ふっと消えてしまった。
菊千代の尻尾がぶわりと膨らんだのに気づいたロッキーが「どうした?」と驚く。菊千代が睨む方向には既に何も浮かんではいない。
「……なんだか、急いだほうがいい気がするでござる」
菊千代はヒゲをピンと張ったまま、そう呟いたのだった。
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