『たきのや』へ
女性の車は群馬県桐生市の道を走り出した。
桐生市は古くから絹織物の名所として名を馳せた街だ。徳川家康が石田三成討伐をする際に不足した軍旗を補ったのも、この地の人々だった。戦争で空爆を免れたこともあり、細く勾配のある曲がりくねった道が多く、家々がひしめき合うように建っている。そうかと思うと、渡良瀬川の広々とした眺めは開放的であった。
子猫と女性が出会ったのは『桐生天満宮』という神社で、街の中心部にほど近いところにあった。車はそこから西に走り続け、閑静な住宅街に入っていく。
やがて、彼女は民家の間に建つ一軒のそば屋の駐車場で車を停めた。そば屋の名は『たきのや』といい、濃い渋柿染めに屋号と八つ矢車の家紋が白抜きされた麻の暖簾が目印だった。
オス猫を抱きかかえた女性はこのそば屋の脇にある小道を進み、裏手にある青い瓦の平屋に入っていった。
「さぁ、ここが君のおうちですよ」
平屋の居間は窓から射し込む日差しで満ちている。その眩しさに子猫は思わず目を細めた。
どうやら捨てられずに済むようだ。そう胸を撫で下ろしたとき、不意に背後から声がした。
「エミさん、そいつ、なぁに?」
人間の声ではない。咄嗟に振り返ると、その声の主はサビ猫のメスだった。琥珀色の瞳で、まるで歌うように話す綺麗な猫だ。年は三歳ほどかと思われた。人間でいえば三十路前だろう。
エミさんと呼ばれた女性がサビ猫に優しく答える。
「マリア、今日からこの子も家族だからよろしくね」
エミさんは猫の言葉を知らずに返事をしているのだろうが、当たらずとも遠からずの答えだ。子猫がそう感心していると、サビ猫の前に降ろされた。
マリアはすんすんと子猫の匂いを嗅いでからヒゲを小刻みに動かした。
「私は去年この家に来たのよ。よろしく」
その言葉はエミさんには「にゃあ」という鳴き声にしか聞こえなかったが、挨拶だったのはなんとなくわかったようで「仲良くしてね」などと微笑んでいる。
「なんだ、新参者か」
今度は低い声がした。のそりと現れたのは、でっぷり太った黒猫のオスだった。まるで木炭のような色をした体は満月を思わせるほど丸い。お世辞にも綺麗とは言えない潰れた饅頭のような顔には、グリーンの瞳が光っている。
エミさんが黒猫の背をするっと撫でてこう言う。
「ロッキー、新しい家族よ。よろしくね」
ロッキーというらしい黒猫がすかさず「にゃあ」と鳴く。エミさんにはわからなかったが、それは実際のところ「しゃあねえな」という愛想のない言葉だった。
「お前さん、生後二ヶ月か三ヶ月ってところか。どこから来た?」
「……知らないよ」
ぼそっと子猫が答える。自分がどこで生まれて、どうして捨てられたのかなど、知るよしもなかった。ロッキーのほうもたいして興味はないようで、あっさり「そうか」と引き下がる。
「俺はこの家で一番の古株だ。今年で六歳になる」
彼は低い声でそう鳴くと、鼻をひくつかせる。六歳といえば、人間でいうと五十歳を過ぎた頃だ。
エミさんはリビングの端に段ボールを置くと、バスタオルを敷いた。子猫を抱きかかえると、そっと新しい寝床に置く。
嗅ぎなれない匂いにどぎまぎし、子猫はきょろきょろと辺りを見回した。這いつくばって段ボールの隅に小さくなると、少しは気が楽になった。
その様子をのぞくエミさんが「子猫用の餌を用意しなくちゃ。あとは病院に連れて行って……」などとぶつぶつ言っている。
段ボールの向こうからマリアの声がする。
「カンさんは知ってるの?」
ロッキーが「ふん」と鼻を鳴らす。
「そば打ちの真っ最中だから、知らないだろうさ。だけどカンさんが拒むとは思えないね」
「まぁね。カンさんは優しい人だもの。だけど、もうすぐ人間の家族が増えるっていうのに、この子まで養うのは大変じゃない?」
彼らの会話を聞きながら、子猫は首を傾げた。彼らが口にしている『カンさん』というのは何者だろう?
だが、それもすぐに知ることになった。びくびくしながら丸まっていると、玄関のドアが開く音とともに「ただいま」という声がした。
エミさんが「おかえり」と声をかける先には、背の高い男がいた。
彼の穏やかな顔が、段ボールを見つけて真顔になった。
「あれ」
抑揚のない声だが、驚いているのだろう。目がまん丸になっている。
「今日からうちの子よ」
きっぱり断言するエミさんに、彼はしばらく無言でいたが、やがて小さく頷いた。
「……名前を考えなきゃね」
「お願いね。とりあえず、朝食にしましょう」
カンさんが子猫をそっと撫でた。無言ではあるが、猫好きらしく、その目が「可愛いね」と言わんばかりに細められている。
マリアが「やれやれ」と耳を揺らす。
「あいかわらずエミさんは強いわね」
ロッキーが目を細めた。
「この夫婦はそれがいいんだよ。それに一番大事なところはきちんとカンさんが握っているんだから、ちょうどいいのさ」
「大事なところって何よ?」
「新参者の名前を決めるのはカンさんに任せただろう? エミさんはそういうところは心得ているのさ」
「そんなものかしら」
そう言うと、マリアはふんふんと鼻歌代わりにしっぽを揺らしてカンさんの後についていく。だが、子猫は動くこともできず、段ボールの隅に這いつくばって、ひらすらじっとしているのだった。
段ボールの匂いを嗅ぐと、どうしても死んでいった兄妹たちを思い出して嫌だった。かといって動き回る気力もない。
少しは段ボールの匂いが紛れるかと思い、バスタオルに鼻をうずめる。
「……あったかい」
バスタオルの温もりは母猫の懐とは違うものだったが、清潔でほわんといい香りがした。
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