ゴキ爺参上
夜が更け、エミさんたちの静かな寝息が響く中、勝手口では三匹の猫が身を寄せ合っていた。
「やっぱり行くの?」
マリアは渋い顔だ。菊千代が榛色の目をぎらっと光らせる。
「当然でござる」
「あんたたち、二匹で行ってくれば? どうせ私が行っても、あんなギターなんて役に立ちそうもないし」
「何の役に立つかまだわかってないでござるよ。それを確かめるためにも行ってみるでござる」
そのやりとりを見ていたロッキーが、マリアにそっと囁いた。
「……それとも、お前は別に行きたいところがあるのか?」
マリアの耳がぴんと立ち、いらだたしげに尻尾が揺れた。
「何が言いたいのよ?」
「俺が気づかないとでも?」
「ふん」
マリアは苦々しく鼻を鳴らし、その場に丸くなった。その背中が言葉なしに「仕方ないわね」と、言っているようだった。
菊千代とロッキーもまるで眠るように身を寄せ合ってうずくまると、ゆっくりと「解」と囁いた。
三匹の体が鈍い光に包まれる。それがすっと消えたときには二本足で立ち、丸くなって寝ている姿を見下ろしていた。
黒電話の霊を祓ったときと同じように、菊千代は侍、マリアは修道女、ロッキーはボクサーの格好をしている。
ふと、マリアがぴくりと耳を立てた。
「ゴキ爺が来てるわ」
そう言うと、するりと勝手口をすり抜け、外に出た。
「ゴキ爺って誰?」
首を傾げる菊千代とロッキーがあとに続くと、マリアが地面をじっと見つめている。その視線の先には大きなゴキブリの姿があった。
「マリア、ゴキブリと友達なの?」
素っ頓狂な声を上げた菊千代に答えたのは、マリアではなくゴキブリのほうだった。
「友達とは、恐れ多い。お初にお目にかかります。私はこの辺りのゴキブリの長で『ゴキ爺』と呼ばれているものです。マリアの姐御の手下でございます」
「手下だって?」
思わず目を見開くロッキーに、ゴキ爺が頷いた。
「姐御には以前、この家に害虫駆除が入ることを教えていただき、仲間が死滅する危機を救っていただいた恩義があるのです」
「大げさね。エミさんが怖がるから、家の中に入るなって警告しただけよ」
「姐御へのお礼として、我らはこの滝沢家には一歩も入らないしきたりなのです」
「それがどうしてここにいるんだ?」
怪訝そうなロッキーに、ゴキ爺は頭を垂れた。
「今回は例外でございます。姐御に至急お知らせしたほうがいいかと思いまして。実は、最近『たきのや』から不穏な気配がすると、動物たちの間で噂になっております」
「不穏な気配?」
首を傾げたマリアに、彼が「さようで」と更に深く頭を下げた。その姿はまるで忍者のようだ。菊千代は目を輝かせてゴキ爺を見ていた。
「それが、どうも姐御からご依頼いただいている件に関わりがありそうでして」
それを聞いたマリアは慌てて「こちらへ」と少し離れた場所にゴキ爺を招き、なにやらひそひそと内緒話を始めた。それを見つめ、ロッキーが「ふむ」と唸っている。
しばらくすると、マリアが戻ってくるなりこう言った。
「どうも、夜中になると店から重い気配がするらしいの。でも、霊らしきものを見た者はいないって」
続けざまにゴキ爺が言った。
「我らは『たきのや』に入るなどもってのほかですので、このあたりを縄張りにしている雀のチュン太郎に窓から様子を窺わせたのですが、何も変わったことはないと言うのです。ただ、『たきのや』の奥様が買った薬箪笥が増えただけで」
菊千代が首を傾げる。
「薬箪笥ってなんだ?」
「簡単に言うと、薬を入れるための引き出しがたくさんついた箪笥よ」
そう説明したマリアに、ロッキーが続けて言う。
「今度、カンさんが黒澤明の『赤ひげ』を観るときがあれば、注意して観るといい」
「ふぅん。母上も変わったものを買ったものでござるな」
すると、ゴキ爺がふっと顔を上げた。
「この店の奥様といえば、気になることがもう一つございます」
「なんでござる?」
「桐生天満宮にねぐらを持つネズミのチュウ吉から聞いたのですが……」
それを聞いた菊千代が咄嗟に口を挟む。
「それって、いつか拙者が天満宮で襲ったネズミではなかろうな?」
「それはチュウ吉の従兄弟でございます」
「それは申し訳ない。あのときは空腹で死ぬところだったでござるよ」
「わかっておりますとも。時雨様と秋野様の仲裁もありましたし、ネズミ一族では誰も根にもっている者はおりませんよ」
ゴキ爺はそう言うと、話を続ける。
「そうそう、それで気になることなのですが、最近、骨董市に奇妙な店が出ているそうなのです」
マリアが首を傾げる。
「奇妙とは? ぼったくりってこと?」
「いいえ、それがどうにもチュウ吉には『妙な胸騒ぎがする』んだそうです。神社の端に店を構えているんですが、誰も見向きもしないのですよ」
「端っこだからじゃないの?」
「いえ、一人として見ることすらしないのだそうです。まるで見えていないかのように」
「それは確かに妙ね」
「ところが、たった一人だけ店を覗いていた人間がいるというのです。それが『たきのや』の奥様だという話ですよ。おそらく、薬箪笥もそのときに買ったのではないかと」
菊千代たちは顔を見合わせた。
「じゃあ、それが『物憑きの霊』かな?」
ところが、ゴキ爺が首を横に振る。
「それがはっきりとは言えませんな。薬箪笥を買ったのは三ヶ月ほど前のことなのです。しかし、妖しい気配がするようになったのは最近のことですから」
「でも、怪しいでござるね」
「エミさん、変なことに巻き込まれてないといいがな」
「エミさんって、何か変なものを吸い寄せちゃう定めなのかしら? いるわよね、そういうタイプ」
三匹が「やれやれ」と肩をすくめていると、ゴキ爺がすっと身を低くした。
「それでは今宵はこれにて失礼いたします。また変わったことがあればお知らせに参りますので」
「ありがとう、ゴキ爺」
「マリア、すごいでござる。拙者も忍者の手下が欲しいでござる」
目を輝かせる菊千代に、彼女は呆れ顔になる。
「ゴキ爺は自分を手下だなんて言うけど、そんな偉そうなものじゃないわ。彼は友達よ」
ゴキ爺が感激のあまり声を震わせた。
「恐れ多いことです。マリアの姐御は弁財天様のお力を得て以来、今ではこの辺りのあらゆる生き物たちの情報網を手中に収めていらっしゃるのです。あらゆる揉め事をその機転とすがすがしい性格で解決してしまう、寛大な方でございますよ」
「やっぱり、夜の散歩に出ては、あちこちでお節介をやいているんだな」
ぼそりと呟いたロッキーの背中を、マリアが小突いた。
菊千代がわくわくしながら、ゴキ爺に鼻を近づける。
「ねぇ、また会えるでござるか?」
「もちろんでございます。それでは失礼いたします」
そう言い残し、ゴキ爺は音もなく姿を消した。それを見送ると、ロッキーがマリアを横目で見る。
「こっそり霊体になって夜中に家を抜け出していたな?」
「気づいていたの?」
「菊千代と夜中の運動会もせずに、一日中爆睡して大好きなカンさんの呼びかけにも返事しないなんて、お前らしくないからな。何かあるんだろうとは思ったが」
「あんたのことだから、どこに行っていたのかも察しはついているってことかしら」
「……さぁな。そうだとしても、俺がとやかく言うことじゃないだろう」
マリアは答えずに、ただ俯くばかりだ。
「それよりも今は薬箪笥を見に行こうじゃないか。『物憑きの霊』だという確信はないけれど、今の時点でば怪しいんだから」
ロッキーは気を取り直したように、店に向かって歩き出す。そして「やれやれ」としっぽを大きく揺らした。
「それにしても、どうしてこの辺りに住む動物たちが気づくほどの気配を、俺たちが見逃していたのかな」
菊千代もあとに続きながら、「確かに」と唸る。
「それを確かめに行くんでしょう?」
マリアが促し、彼らは『たきのや』の中に入っていった。
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