思いがけない客

 二月、庭先の蝋梅が淡い黄色の花を咲かせた頃だった。朝早くからエミさんとカンさんはどこかに電話をかけたり荷物をまとめたりした後で、慌ただしく車で出かけていった。

「なんだか騒々しいわね」

 マリアが首を傾げると、ロッキーのヒゲが横にぴんと張った。

「いよいよ出産なんだろうよ」

 だが、それから数時間後には、カンさんが一人で家に戻ってきた。

「あれ、もう終わったの?」

 マリアが拍子抜けしていると、彼の携帯電話が鳴った。カンさんにしては珍しく、少し興奮気味で話し出す。

「もしもし。あぁ、ミヨさん。連絡が遅くなってすみませんね。そうなんです、おしるしがあったんで入院になったんですがね、長くなりそうなんで、僕だけいったん帰ってきたんです」

 電話の向こうでパートのミヨさんが何かを声高に話しているのが聞こえた。カンさんが話しながらも、うろうろと部屋を歩き回っている。

「今はうちのお袋がついてます。いよいよってときに連絡がくるはずなんで、そうしたらまた病院です」

 どうやら出産は長くなりそうだ。

「エミときたら『一人で平気だから帰って店を開けろ』なんて言うんですよ。とんでもない、とてもそばなんて打てません。えぇ、今日は臨時休業にします。すみませんね」

 ロッキーが「やれやれ」と前脚に顎を乗せて寝そべった。

「エミさんらしいや」

 カンさんは電話を切った後も、そわそわと同じところを歩き回っていたが、やがて気持ちを落ち着けようと映画を観ることにしたらしい。テレビの画面に映し出されたのは、黒澤明監督の映画『七人の侍』だった。

「菊千代、あんたの映画よ」

 マリアが子猫に目配せする。

「きっと、一番好きな映画で気を紛らわそうとしてるのね。でも駄目ね、カンさんたら、貧乏揺すりなんかしちゃってるわ」

「これ、サムライが出てくるやつ?」

 菊千代が興味津々といった顔で、カンさんに近づき、膝の上に脚をかけた。

 カンさんはふっと微笑み、少しだけ落ち着きを取り戻して子猫を膝の上に乗せた。

「なぁ、菊千代」

 彼は菊千代の顎をさすりながら、こう囁いた。

「何のために生きるかってことが大事なんだ。よく見ておけよ」

 目の前に繰り広げられるのは、白黒の世界だ。菊千代には話の内容がよくわからず、そっと傍に座っていたロッキーに訊ねる。

「ねぇ、食べることは生きることだよね。だけど、死んでしまったらおしまいじゃないか」

 すると、ロッキーは尻尾を揺らして答える。

「人間……いや、サムライってのは俺たちとは違うんだろうさ。自分が命をかけるべきものを持ってるんじゃないかな」

「ふぅん」

 菊千代は、白黒の画面に映る人間の『菊千代』を見やった。侍になりたかった男の行く末を見守るごとに、彼の尻尾は忙しなく動いていく。

「俺も何か見つけるのかなぁ」

 生まれてきた意味もわからず、ただ生きることに執着した記憶がよぎる。この家にたどり着いたことに意味はあるのだろうか。ただのうのうと暮らしていくだけの道ならば、死んでいった兄妹たちの命との差はなんだったのだろう。

「何のために生きるかってことと、何のために死ぬかってことは同じなのかな」

 考えれば考えるほど、菊千代は混乱していく。そんな彼を、マリアが鼻で笑う。

「あんたは子どもだからわからないだろうけど、そういうのは考えるんじゃなくて、感じることなんだと思うわ。特に私たち猫はね」

 真夜中になると、カンさんは携帯電話で病院に呼ばれたらしい。キャットフードを山盛りにし、急いで出て行った。

 三匹はエミさんの布団で丸くなり、寄り添った。

「赤ん坊、早く見てみたいな」

 毛繕いをしていた菊千代が、顔を上げる。

「菊千代、あんた舌をしまい忘れてるわよ」

 くすりと笑い、マリアが菊千代の毛繕いを手伝いだした。ロッキーは自分の前脚を舐めながら、「ふうむ」と短く唸る。

「昨日、カンさんがパートのミヨさんに話しているのを聞いたんだが、エミさんは出産のあと、病院にしばらく泊まるそうだよ」

「しばらくって、どれぐらい?」

「一週間って言っていたな」

「そんなに先か……」

 しゅんと項垂れる菊千代の額をマリアが慰めるように舐めたときだった。

 不意に『べん』という音が木霊した。

「……なんの音?」

 琥珀色の瞳を広げたマリアを、ロッキーが「しっ」と短く制する。

「静かに」

 菊千代は体を起こし、ヒゲをぴくぴく動かした。

「……何か近づいてくる」

 その瞬間、どこからともなく闇が広がり、すべてを呑み込んだ。辺り一面が真っ暗だ。驚きのあまり口がぽかんと開いた猫たちの前に、遠くから光の塊が近づいてくる。目をこらすと、その光の中に何かがいるようだった。

「なんだ、あれは」

 思わずロッキーのヒゲが後ろに倒れた。

 彼らに迫ってくるのは巨大な光に包まれた蛇だった。そしてその額になんと女性が乗っている。更に、その蛇をまるで道案内するように、二匹の犬に似た獣が先頭を切って歩いていた。

 その獣の姿を見た菊千代が思わず叫ぶ。

「……あ! あいつら、あのときの!」

「知っているのか?」

 訝しげな目をしたロッキーに、菊千代が頷いた。

「エミさんと出会った日に、神社であの獣に押さえつけられたんだ」

「あいつら、犬より大きいじゃないの! あんた、それでなんともなかったの?」

「エミさんが来たら、いなくなったんだよ」

 ロッキーは耳を後ろに倒して警戒する。

「あいつら、どうも生身じゃないな。なんだって、ここに?」

 彼らが話している間にも、不思議な光が音もなく近づき、とうとう目と鼻の先で止まった。三匹は気圧されたまま、そこに立ち尽くすしかなかった。

 二匹の獣も蛇もただ者ではないに違いなかったが、特に彼らを圧倒したのは蛇に立ったまま乗る女性だった。

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