にゃむらい誕生
神社にて
十一月のことだった。寒々しい空気で満ちた朝の街を、オスの子猫が彷徨っていた。毛色は雪のように白いが、頭頂部と尾にキジに似た黒と茶の模様があり、子猫特有の青い目と毛羽だった体毛をしている。ここ数日歩き通しのせいで肉球が痛み、飢えは体の芯を抜くような虚無感をもたらした。
よたよたと歩きながら、ついこの間まで母猫の腹に顔をうずめて眠っていたのが嘘のようだと、彼は疲れ切った頭で考えた。
捨てられた子猫のうち、生き残ったのはこのオスだけだった。猫の平均寿命など知るよしもないが、たった二ヶ月の生涯とは短すぎる。そう考えた彼は迫り来る死の恐怖から逃げることを選び、兄妹の亡骸を踏み台にして段ボールから外に転げ落ちたのだ。
子猫にとって、この世は四方を敵に囲まれた戦地のようだった。猛スピードで走り抜ける車や吠える犬、巨大な人間に怯え、親の顔を忘れる頃には、虫を尻尾で祓うのも億劫なほど疲れ果てていた。
やがて、彼は神社にたどり着いた。食べるものなどありそうにもなかったが、ここには車もなければ、人も犬もいないことが彼のヒゲをたるませた。
あとになって考えてみれば、このときの彼は運がよかったといえる。この日、このとき、この神社に潜り込んだことは実に幸運なことだったのだ。しかし、本殿の下に丸くなる彼は、ただ己の不運な生涯の始まりを呪うばかりだった。
ひもじさが胃を焦がす。なにか食べ物を見つけなければならない。思わず項垂れたとき、本能を刺激する足音を聞きつけた。顔を上げると、ネズミが柱の陰から顔を出している。
彼のヒゲが咄嗟にピンと張った。目に輝きが戻り、地面に伏せるように低く構える。じりじり間合いをとってから夢中で飛びかかった。
ところが、背中に重みを感じたかと思うと、瞬く間に彼は参道に押しつけられてしまった。漏れ出た子猫の悲鳴に、ネズミは一目散に逃げていく。
目を白黒させる子猫の前に、太い獣の足がどんと置かれる。唸るような低い声が降ってきた。
「我らの目の前で殺生とは」
天を仰いだ子猫は思わず息を呑む。自分を押さえつけていたのは、輝かんばかりに艶めく黄金色の獣だった。一見すると獅子に似ているが、それよりもたくましく、神々しい。その背後には獣がもう一匹いて、姿形はよく似ているものの毛色が白く、頭に小さな角があるのだった。
世の中のことを何も知らない子猫にも、彼らがただならぬ存在だということが知れた。なにせ、びりびりとヒゲの先から荘厳な気配が伝わり、体を震わせるのだ。
「ここを天神様の境内と知ってのことか」
黄金色の獣が太い声で叱責する。子猫は声を震わせながら、それでもしっぽを膨らませて怒鳴った。
「知るもんか。お前のせいで獲物が逃げちまったじゃないか!」
すると、白い獣が「ほう」と感心したように口の端をつり上げた。
「面白い。お前は怖くないのか? 我らがただの犬ではないことくらいわかるだろう」
白い獣は声色から察するにメスのようだ。
「怖いさ。けど、俺は生きるんだ。離せ!」
白い獣は「いい目だ」と満足そうに呟き、傍らの黄金色の獣にこう言った。
「どうだろう。弁財天様からお預かりしたものを、この子に託してみては」
黄金色の獣は訝しげな目で猫を見下ろした。
「こいつに? まだ小僧だぞ」
「この子は強くなる。それに、あれをご覧よ。向こうからわざわざお迎えにいらしたじゃないか。そういう定めなのかもしれない」
白い獣が鳥居のほうを見た。子猫もつられて獣の視線を追うと、一人の女性が見えた。二十代後半か三十代くらいで、朗らかな顔つきをしている。艶やかな黒髪を肩に垂らし、ゆったりとしたワンピース姿だ。そのお腹は丸く膨らんで前に突き出ている。
鳥居をくぐった女性は、境内に入るとすぐに、参道に倒れ込む子猫をみつけた。途端に顔がほころび、「まぁ、可愛い」と声を漏らして近づく。
「逃げないね。迷子なの?」
逃げようにも逃げられるはずがない。なにせ、子猫の体は獣が押さえつけたままなのだ。ところが、奇妙なことに彼女には獣たちの姿は見えていないようだった。
「捨て猫かな。かわいそうに。動けないくらい弱っているのね」
彼女の白い手がすっと差し伸べられた。子猫は思わず身をこわばらせる。短い放浪の間に、何人かの人間と出会ったが、いい思いなど一つもしなかったのだ。
彼女の指先は子猫の顎を優しく撫で始めた。不思議なことに、指先が毛並みにそって滑るたび、体の芯から力が抜けていくようだ。
子猫が目を細めて喉を鳴らし始めたとき、体にのしかかっていた重みがふっと消え失せた。黄金色の獣が脚をあげたのだ。
重圧から逃れて腰が浮いたところを女性がすかさず抱き上げる。そして、こう囁いた。
「うちに来る?」
それを聞いた白い獣が満足そうに頷き、黄金色の獣は高笑いをした。
「なるほど、巡り合わせか。小僧、この場で殺生しようとしたことは水に流そうぞ。弁財天様からのお達しを待つがよい」
その言葉が終わるや否や、突風が巻き起こる。二匹の獣は瞬く間に走り去っていった。
「あいつら、何者だ」
子猫が呆気にとられていると、女性がゆっくりと歩き出した。
どこへ行くのだろう。しかし、不思議と恐れはない。体毛を通して女性のぬくもりが伝わってくる。その腕はしっかりと子猫を包み込んでいるが、きつすぎないよう気を配られていた。
やがて、女性は車に乗り込んだ。襟元に巻いていたストールをほどき、子猫を包んで助手席に乗せる。子猫が大人しく丸まっていると、女性が「いい子ね」と微笑んでエンジンをかけた。
初めての車の感覚に怯えて動けなかっただけなのだが、そう言われると悪い気もしない。だが、慌ててヒゲをピンと張る。
「待て待て、油断するな。だって俺たち兄妹を捨てたのだって同じ人間だからな。今度はもっと遠くに捨てられるのかもしれないぞ」
運転している女性を仰ぎ見た。今まで見てきたどの人間よりも穏やかな瞳をし、口元には微笑みが宿っている。だが、あの腕の温もりに気を許したところで、裏切られるかもしれない。子猫は憂鬱な気分で、ストールに顔をうずめたのだった。
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