第14話

 相変わらず、フクロウがほーほー、と鳴いている。その鳴き声をかき消すかのような大きな笑い声が、城門横にある詰所から聞こえてきた。

 そこには四人の男が座り、酒を飲み騒いでいる。卓の上には一般兵士の常食するような物とは思えないほど豪勢な料理が並んでいる。

「さぁ、呑め呑め! 俺の奢りだからって遠慮はするな!」

 四人の中では隊長格であるらしい男が上機嫌に言った。口ひげをはやして偉そうにしてはいるが、育ちや品はあまり良くなさそうだ。

「勿論。まだまだいけるぜ、永繁エイハン様!」

「酒は飲み放題だし、美味い物も食い放題。本当、この仕事に就いて良かったっすよ、俺」

「そうそう。まさか、たかが城門兵がこんな美味い物を毎日のように飲み食いしているだなんて、皇帝陛下どころか老子様だって気付きはしませんよ」

 部下らしき三人の男が口々に永繁という名であるらしい隊長格の男を称賛した。永繁はその言葉を、気分が良さそうにうんうんと頷きながら聴いている。兵士達は、更に調子づいて言葉を発し続ける。

「それもこれも、みんな永繁様のお陰だ」

「永繁様が門を通る余所者に通行料を払わせる事を考えなければ、俺達は皆美味い物の味も知らずにこの世を去る所でしたからね」

「違ぇ無ぇ!」

 そこで一同は、弾けたように大笑いをした。そして、一しきり笑ったところで兵士の一人が永繁に問う。

「それにしても永繁様、昨日捕らえたあの農民……一体どうするつもりなんすか?」

「確かに。いつまでも牢に捕らえたままにしておく訳には……かと言って、放免するわけにも、勝手に殺す訳にもいきませんしね」

 そう言って、兵士達は困ったような顔をした。すると、永繁は不敵に笑って見せる。

「なァに、簡単な事だ。あいつが皇帝陛下の悪口を言っていたから捕らえた。牢に入れてもそれをやめようとしなかった上、牢から出して取り調べるなり城内に護送するなりしようとした所、突如切りかかってきた為にやむなく斬り殺した……という事にしておけば良い」

 要は、罪なんていくらでもでっち上げられるからサクッと斬り殺そう、という事だ。それを聞くと、兵士達はぽんと手を打って感心したような顔で永繁を見た。

「そりゃ良いや! 俺達は規律違反どころか、陛下を悪く言う不定の輩を捕まえ処分した功臣になるって事か!」

「そうなるな」

「流石ですね……お見逸れしました!」

 最早「こんな褒められ方をされて本当に嬉しいのか?」と問いたくなるほどの世辞を言い、兵士達は更に口を開いた。どうやらかなり酔っている様子だ。

「あの農民さえ処分すれば、俺達が他所から来た奴相手に通行料を請求してる事を知ってる奴は一人もいなくなるっすからね!」

「しっかし、あの農民も本当に運が悪いよな~。俺達が通行料を請求してる場面に居合わせなきゃ、こうやって死ぬ事にもならなかったのによー」

「確かに。しかし、あのような人物は放っておくと誰に言いふらすかわかったものじゃないですからね」

「下手に正義感燃やされて、訴えでられちゃたまんないっすしね」

「実際、あの目は「明日にでも訴えでてやろう」という目でしたからね。先手を打つに越した事はありません」

「捕らえて正解ってワケか」

 兵士達が口々に好き勝手な事を言っていると、永繁は苦笑しながら三人を制した。

「おい、あんな農民の事などもうどうでも良いだろ? どうせ近々死ぬ奴なんだ。もう俺達を訴えるような力は残っていない。それよりも、折角の料理だ。冷めないうちに喰おうぜ」

「はい!」

 兵士達が揃って返事をし、四人は再び料理に手を伸ばしつつ大騒ぎをし始めた。そして、その様子を窓からこっそりと窺っている者がある。忠龍と文叔だ。

「成る程……これが真相か」

「兄貴……兄貴はやっぱり悪くなかった……。悪いのは……こいつらだ!!」

 忠龍が怒りを込めた目で馬鹿騒ぎをする四人を見詰め、文叔は軽く溜息をついた。そして、現状を確認するように口に出す。

「この四人……特に頭の李松リショウ、字を永繁と言うあの髭の男は、度々洛陽の城門を通ろうとする何も知らない通行人……主に商人などから通行料と銘打って賄賂を要求していた。払わない者は城門を通さず、巻き上げた金で贅沢三昧。しかし、その賄賂を要求している場面をたまたま頑良……忠龍の兄さんに目撃された為、事の露見を恐れてやむなく捕獲。そして、近々殺害しようとしている……というワケだな」

 そこまで言って、文叔は再び溜息をついた。一応皇帝である自分のお膝元でこんな悪事が展開していたのだから、溜息をつきたくなるのも仕方がない。だが、忠龍は文叔のその様子には全く気付かなかったらしい。

「何て奴らだ……こんな奴らの為に兄貴は……もう我慢ならねぇ!!」

 怒りを押し殺した声で呟くと、忠龍は立ち上がり、戸口の方へと足を向けた。それに気付いた文叔が慌てて立ち上がる。

「ん? おい、待て忠龍!」

 文叔が止めるのも聞かず、忠龍は勢い良く扉を開け放った。響き渡る音に、飲み食いをしていた四人が視線を集める。

「ム?」

「おい、何だテメェはっ!?」

 兵士の一人が怒鳴りつけると、忠龍は無言でその兵士を睨みつけた。そして大きく息を吸い、怒りを抑えつけた通常よりも低い声で言う。

「テメェらの悪事、全て聞かせて貰った……。罪の無い人間に罪を被せて自分達の罪を誤魔化そうなんざ……それが役人のする事かよっ!?」

「礼儀のなってねぇガキだな……テメェは何だって聞いてんだろうがっ!」

 永繁が剣を抜き、忠龍に斬りかかった。忠龍は瞬時に腰の剣を抜き放つと、いとも簡単にその剣を受け止めて見せる。

「テメェらに礼儀を説かれたくなんかねーんだよ。……兄貴を返せ!!」

「兄貴? 返す? あぁ、あの運の無い農民の事か」

 忠龍の言葉に、兵士の一人が詰まらなそうに言う。そして、別の一人がそれに言葉を続けた。

「永繁様、どうやらこのガキ、あの捕らえた農民……鄧守の弟のようです」

 言われて、永繁は納得したように頷いた。

「成る程……兄弟揃って死にに来やがったか。そんなに兄貴に会いたければ、すぐにでも会わせてやる! 牢獄の中でな!! 黄鮮コウセン英敬エイケイ韓読カントウ。この不届きなガキをひっ捕らえろ!!」

「はっ!!」

 永繁に命じられ、名を呼ばれた三人の兵士達は一斉に忠龍に襲い掛かった。だが、忠龍は永繁の剣を弾き飛ばすと同時に床を蹴り、素早く剣を閃かせた。三人の兵士は、たった一閃で吹っ飛ばされてしまう。

「ぐっ…!」

「どうした? 洛陽の城門を守る兵士の力ってのはこんなモンかよ? この程度の実力しか無ェくせに、威張り腐って……テメェらみてぇな奴らがいるから国は乱れて、いつまで経っても戦が終わらねぇんだ!」

 三人に向かって、忠龍は言葉を吐き掛けた。その姿に、兵士達はじり……と後ずさる。

「畜生、何だこのガキ……ガキのくせにこんな……。おい韓読! テメェ相手がガキだからって手ェ抜いてんじゃねぇだろうなっ!?」

「まさか! 俺は一切手加減せずにやっています!」

「じゃあ英敬、お前か!? 手ェ抜いてんのは!」

「俺だって! ガキ相手だからってこんな生意気な奴に手を抜いたりしないっすよ!」

「じゃあ何だ? 俺が手ェ抜いてるとでも言いたいのか!?」

 三人の中では一番歳かさらしい兵士が残る二人を怒鳴りつけた。敬語の兵士が韓読、微妙に敬語なのが、英敬、そしてこの歳かさの男が黄鮮というらしい。

「黄鮮! 何をグチャグチャ言ってんだ! 今はそのガキに集中しねぇか!!」

 暫くの間兵士達の遣り取りを見ていた永繁が、痺れを切らしたのか黄鮮に怒鳴りつけた。すると、今まで凄みを利かせていた黄鮮が瞬時に大人しくなってしまう。

「けっ……けど、永繁様……!」

「グチャグチャうるせぇんだよ、オッサンども! 俺がテメェらみてぇな鈍ら兵士に負けるわけがねぇだろうが。護衛の仕事でも食い扶持を稼ぐ為にずっと体を鍛え、武術の腕を磨いてきたんだからなっ! 城門を司る役職にある事をいい事に賄賂で美味いモン食ってぬくぬくとしてるような奴らじゃ、話になんねぇんだよ!」

 忠龍が剣を突き付け、凄む。それに気圧されたらしい黄鮮は顔を歪ませると、そばで同じように気圧されている年下の同僚を呼んだ。

「チッ……おい、韓読!」

「はっ……はい!」

 呼ばれて韓読が近寄ると、黄鮮は韓読の耳に口を近付け、何かを囁き始めた。

「いいか? …………」

「はい……はい……ハッ!」

 話が終わると、韓読は慌てて部屋の奥へと走り行く。

「あっ、待てテメェ! 逃げる気か!?」

 韓読を追おうと忠龍が走り出そうとしたその時だ。

「おっと、待ちな!」

「韓読はどうやら別の用事ができちまったみたいっすからね……」

 忠龍の前に、黄鮮と英敬が立ちはだかった。二人は再び剣を手に、忠龍を睨みつけている。

「……テメェら、まだ俺には勝てねぇって事が理解できねぇのか? 話になんねぇって言ってんだろうが!」

 忠龍は吠え、剣を構え直す。黄鮮達は再び及び腰になった。だが、それに助け船を出した者がある。

「それじゃあ、今度は俺と手合わせ願おうか」

「!?」

 突如かけられた声に忠龍が振り向けば、そこには先ほど忠龍に弾き飛ばされた剣を再び手にした永繁の姿がある。その顔には面白いおもちゃを見付けたとでも言わんばかりに歪んだ笑いを浮かべている。

「俺の手下どもを随分と可愛がってくれたんだ。それに、さっきは油断していたとはいえ、手下の前で剣をブッ飛ばされるなんて恥をかかされた。タップリ礼をしねぇとなぁ……!」

「……賄賂で美味い飯食ってるようなオッサンの礼なんて、全く期待できねぇけどな。……良いぜ、来いよ。ぶちのめしてやる!!」

 誘いに乗るように、忠龍は永繁に向き直った。その姿を永繁は胸糞悪そうに眺めている。

「ケッ……生意気なクソガキが!!」

 言うや否や、永繁は剣を閃かせて忠龍目掛け走り出した。

「自分達だけ美味い汁を吸おうと考える役人よりはよっぽどマシだ!!」

 忠龍も、怒鳴ると同時に床を蹴り、永繁に向かって斬りかかる。二人の剣がぶつかり合い、激しい金属音と火花を散らした。二人はそれらを散るに任せ、そのまま激しい音を立て続けながら剣を打ち合い始めた。

「うぉぉぉぉぉっ!!」

「うぁぁぁぁぁっ!!」

 二人の男が、激しい咆哮と共に剣を振るい続ける。だが、やはり腕前、体力、気力、それら全てにおいて忠龍の方が勝っていたのだろう。段々に永繁の旗色は悪くなり、遂に彼は忠龍の攻撃を避ける勢い余って尻もちをついてしまった。

 永繁の前に、剣を構えた忠龍が肩で息をしながら立った。そして、王手をかけようとしたその時だ。

「そこまでだ!」

「!?」

 一瞬、時が止まったかのように思えた。響き渡った声に忠龍が振り向けば、そこには先ほど逃げた筈の韓読が立っている。そして、その横には……

「兄貴……!」

 韓読は、縄を打たれた忠龍の兄――頑良を連れていた。頑良は目の前に弟の姿を認めると、青ざめた顔で叫ぶ。

「忠龍……逃げろ!」

 叫ぶ頑良を、韓読が床に押さえつけた。そして、それに乗じて黄鮮が忠龍に言う。

「おっと、逃げるんじゃねぇぞ! 助けに来た兄貴を目の前で殺されたくなかったらなぁ!!」

「! テメェ!」

 咄嗟に、忠龍は黄鮮に向かって斬りかかろうとした。だが。

「動くなと言っているっす!」

「……っ!」

 英敬が頑良の首筋に剣を近付け、いつでも斬れると言わんばかりに忠龍を見ている。今動けば、頑良は確実に殺される。

 そう判断した忠龍は、足を止め、剣を持つ腕をだらりと下ろした、

「へっ、ちょろいモンだぜ。あれだけ威勢が良かったのに兄貴が死ぬかもしれないとなると途端に静かになりやがって。さっきまでの元気はどうしたんだよ!」

 得意満面になりながら、黄鮮は忠龍に殴りかかった。腹を殴り、床に崩れ落ちたところを蹴り、踏みつける。忠龍の顔が、苦痛で歪んだ。

「ぐっ……!」

「さっきは散々言いたい放題言ってくれやがって……俺にも一発殴らせるっすよ!」

 言いながら、英敬も忠龍の腹を思い切り蹴り付けた。

「うぁっ……!」

 忠龍の呻き声に、頑良が懸命に身を乗り出そうとする。

「忠龍……俺は良い。俺は良いから、早く逃げるんだ! お前が捕まろうと捕まらなかろうと、俺はどの道殺される……お前まで死ぬ必要は無いんだ。逃げろ!!」

 だが、兄の渾身の叫びを聞いても忠龍は逃げようとはしない。

「……嫌だ!」

「忠龍! 兄貴の言う事を聞いてくれ、頼む!!」

 願いを拒否する弟に、頑良は悲痛な声で言った。だが、それでも忠龍は首を横に振り、言う。

「俺は……兄貴がこいつらに連れてかれた時、何がなんだかわからなくて、ただボーッと突っ立って見てるしかできなかった……。無理矢理連れてかれる兄貴を助けられなかった。……兄貴を助けられなかった事……助けようとすらしなかった事……昨日からずっと後悔してたんだ。もう、あんな思いはしたくねぇんだよ! 兄貴を見殺しにはしたくねぇ! だから逃げない! 逃げてたまるか!!」

「忠龍……」

 頑良はかける言葉が見付からず、ただ弟の字を呼んだ。その様子を眺めながら、永繁と兵士達はニヤニヤと笑っている。

「どうやら、兄弟揃って死ぬ覚悟はできてるみてぇだな」

「永繁様、そろそろこいつらの処分を。放っておいては、何を仕出かすかわかりません」

 韓読が永繁を促した。永繁は頷きながら、忠龍達を馬鹿にするように笑って見せる。

「フン……そうだな。さっさと首を刎ねて……」

「……悪いけど、そこまでにしてくれないかな?」

 突然、湧いたような声が聞こえてきた。それと同時に頑良を捕らえていた韓読が背後から思い切り殴り倒される。

「グアッ!?」

「!? 韓読!」

 倒れた拍子に頭を打ったらしい韓読は気を失ってしまい、頑良の縄尻を手放してしまった。縄目を受けているとはいえ自由を得た頑良はとっさに韓読から飛び離れ、声の主を正面に見た。すると、その目はみるみるうちに丸く見開かれていく。

「あっ……貴方は……!」

「……おい、誰だお前は!?」

「!? 文叔! お前!?」

 頑良が何か言葉を続ける前に、黄鮮と忠龍が続けざまに叫んだ。そこには忠龍が名を呼んだ男――文叔が困った顔をして立っている。

「全く……だから待てと言ったんだ。何も考えずに押し入って暴れれば、こいつらは君の兄さんを人質に取ろうと考えるかもしれない事くらい、少し考えればわかるだろう?」

 文叔はまるで小さな子どもに説教をするように忠龍に言った。言われた忠龍は忠龍で、まるで親に怒られた子どものように小さく縮こまってしまう。

「そ……それは……」

 口籠る忠龍に、文叔はフッと笑みをこぼした。そして、言う。

「まぁ、その熱い所が君の良い所らしいけどね。……遅れてすまなかった、忠龍」

 その言葉に、忠龍は意気を取り戻し、今まで散々やられてダメージが蓄積されているのを誤魔化すように強がって言う。

「……まぁ、遅刻した事は許してやるか。助けてもらったしな」

 足元をフラフラさせながら立ち上がる忠龍に苦笑をしながら、文叔は頑良の縄を抜き放った剣で切った。そして、頑良を忠龍の背後に押し遣りながら言う。

「調子が良いね。……それよりも、君は兄さんを守るんだ。折角人質に取られているところを助けたのに怪我をされたり死んだりされちゃあ、私がここに来た意味が無くなるからね」

「おぅ! 任せとけ!」

 頑良を取り戻した事で元気になった忠龍が威勢良く応じると、文叔はまたにこやかに笑って見せた。

「やっぱり君は、威勢が良いのが一番だ。黙って殴られてるなんて、忠龍らしくない」

「……おい、出会って一日の奴に言われたくねーぞ、それ……」

「確かにね。……さて、私が誰か……だったね?」

 忠龍の言葉に答えてから、文叔は永繁達に向き直った。今まで唖然として文叔達の遣り取りを見ていた永繁達はハッと我に返り、唾を飛ばしながら問うた。

「そうだ! お前は一体何処の誰……?」

 言いながら、段々永繁の語尾が弱くなっていく。上司のその様子に、兵士達は怪訝な顔をした。

「……永繁様?」

「どうしたんすか? 永繁様」

「テメェ……どっかで見たような……。それに、文叔……その字、何処かで……」

(!? 文叔の字……聞いた事があるような気がしたのは俺だけじゃなかった!?)

 永繁の言葉に、忠龍はピクリと反応した。すると、文叔は相変わらずニコニコとしながら言う。

「そりゃあ、聞いた事くらいはあるだろう。特に、役人はね。ただ、普段は誰も私の事を本名はおろか、字ですら呼ばないからちゃんと覚えている人は少ないかもしれないな」

「はぁ!? 字ですら呼ばれねぇって……それじゃあ、テメェは一体普段何て呼ばれてるってんだ?」

 黄鮮が変な物を見る目で文叔を見る。永繁も、英敬も、韓読も……それに、忠龍もだ。だが、忠龍の背後にいる頑良だけは、複雑な顔をして押し黙っている。

「……そうだね……〝陛下〟って呼ばれてる……かな?」

「陛下?」

 文叔の言葉に、忠龍が思わず首を傾げた。黄鮮の目が、変な物を見る目から奇人を見る目に変わっている。

「おいおい、何だよ陛下って。それじゃあまるで……」

「姓は劉、名は秀。字は文叔。……私の名だ」

 その言葉に、辺りは水を打ったように静まり返った。やがて、忠龍が信じられないという顔で言葉を絞り出す。

「劉……秀? それに、陛下って……まさか文叔、お前……!?」

 忠龍の言葉に、黄鮮達も言葉を続ける。

「……漢の高祖九代目の子孫にして、再興された漢の初代皇帝、劉秀……!?」

「テメェが漢の皇帝、劉秀!? 挙兵時に馬が用意できなくて牛でやって来たって言う!?」

「死なないように死なないようにと生きてたらいつのまにか皇帝になってた〝なんちゃって皇帝〟!?」

「酷い言われ様だなぁ……」

 決して誇れない自分への世間的な人物像に、文叔は苦笑した。

「でっ……でも、おかしいじゃねぇか!? お前、自分が皇帝だなんて一言も……それに、お前が皇帝だとしたら俺とお前が初めて会った時お前の横にいたオッサンは……!?」

「彼は武官の一人だよ。あの時たまたまあの場にいたのを、君が勘違いしただけだ」

「……」

 文叔の説明に、忠龍は開いた口が塞がらない。酸欠の金魚のようにぱくぱくと開閉するばかりである。だが、そんな忠龍の意識を現実に引き戻す声がした。

「クックック……成る程なぁ……」

「!?」

 振り向けば、永繁が何がおかしいのか、相も変わらずニヤニヤと笑っている。彼は納得したように頷きながら文叔に言った。

「皇帝陛下は俺達の仕事振りを見ようと此処に来た事がある……その時にあんたの事を見た事があったわけだ、劉秀陛下。俺もあの厳つい男が皇帝だと思って、そちらにばかり集中してたからな……全然記憶に残ってなかったぜ。すまねぇな」

 全く済まなさそうではない謝罪を口にする永繁に、文叔は手をヒラヒラと振りながら答えた。

「いやいや、私の方こそ、紛らわしい見た目で混乱させてしまった。反省はしていないが謝罪しよう。すまなかったな」

「誠意が全然感じられねぇ……ってか、この場合別に反省も謝罪もする必要とかねぇだろ……」

「だよね? 皆が勝手に間違えたんだし」

 ケロリとして言う文叔に、忠龍はがくりと肩を落とした。

「……いや、もう良いです。一瞬でも皇帝に反省とか考えた俺が馬鹿だった……」

「まさにその通りだ……最高権力者である皇帝に反省を求める馬鹿はそうはいねぇ。だが、皇帝じゃなけりゃ話は別だよな?」

 忠龍の言葉に同調するように、永繁が言った。その瞬間、忠龍と文叔の顔に緊張が走る。

「……どういう事だ!?」

「〝皇帝〟は今洛陽の宮廷にいる筈だ。つまり、ここにいるのは〝真っ赤なニセモノ〟。皇帝じゃなけりゃ遠慮する事はねぇ。城兵の詰め所に勝手に入り、好き放題に暴れてくれた事……反省してもらわねぇとなぁ……」

「……あぁ、そういう事か」

 永繁の言葉に、文叔が納得したように頷いた。その横で、忠龍は顔をザッと青ざめさせる。

「テメェ! 文叔を……皇帝を殺すつもりか!?」

 忠龍の背を、冷や汗が流れる。駄目押しをするように、永繁は言った。

「問題は無いさ。この性格だ。夜一人で宮廷を抜け出す事もしばしばだろう。一人で勝手に宮廷を抜け出し、俺達門番に無理矢理門を開けさせた馬鹿皇帝は、外で一人狩りをして遊んでいた所を夜盗に殺された……俺達は護衛についていこうとしたが頑として拒否された……どうだ? こうすれば筋は通ると思わねぇか?」

「うん、すごい」

「感心すんなっ!」

 思わず忠龍はツッコミを入れた。文叔の態度があまりにものほほんとしている所為か、今一緊張感に欠ける。

「クックック……まぁ、そういう事だ。個人的な恨みは無ぇが……死んでもらうぜ、皇帝陛下!」

「文叔!!」

 永繁が文叔に向かって斬りかかった。忠龍が剣を握りしめ、床を蹴った。だが、間に合わない。このままでは、こののんびりとした皇帝陛下は斬り殺されてしまう。はずだった。

 少なくとも、文叔が永繁の剣を止めるまでは、その場にいる誰もがそう思っていた。

「何っ!?」

「えっ!?」

「永繁様の剣が止められた!?」

 永繁、忠龍、黄鮮が次々に驚きの言葉を発する。驚きのあまり、今度は英敬が口をぱくぱくとさせながら黄鮮に問うた。

「そんな……永繁様は俺達の何倍も強い筈……。それが何で牛で挙兵するようなボケボケ皇帝に止められるんすか、黄鮮殿!?」

「俺に聞くなよ!」

 わけがわからず、黄鮮は英敬に怒鳴り付けた。その様子を垣間見ながら、文叔は溜息をついている。

「全く……だから皇帝ってのは嫌なんだ。私はそれなりに剣の腕も立つし反乱軍に参加して新の兵と戦った事だって何度もあるのに、皆〝皇帝』〟って聞くだけで私は弱くて戦う度胸も無いと思い込んでしまう……。武官以外の為政者は皆弱くて度胸が無いと思ってるんだから。やっぱり皇帝なんか辞退して、執金吾になっておけば良かったなぁ……」

「な……な……!?」

 予想外の展開と文叔の言葉に、永繁は言葉が見付からない。そんな彼に視線を戻し、文叔はにこりと笑って見せた。

「まぁ、良いか。皇帝は執金吾に比べて戦う機会が少ないから、死ぬ確率が減るしね」

「こ……この野郎、化物か!? 永繁様の剣を受けながら、こんな涼しい顔して喋っていられるなんて……」

「今度は化物扱い?」

 嫌そうな顔をして、文叔が呟いた。すると、英敬が納得いかない顔をして言う。

「だっ、大体、何で皇帝陛下がこんな農民を助ける為にわざわざ動いてるんすか! 一人二人の農民なんか助けたところで、皇帝陛下には何の得も無いっすよ!?」

 言われて、文叔は一瞬きょとんとした。だが、すぐに笑みを取り戻して言う。

「あぁ、その事? そうだね……忠龍の兄さんに何度か世話になった事があるし、罪も無い農民が捕らえられたってのが気になったってのもあるけど。……やっぱり一番の原因は、忠龍の気持ちが何となくわかったから……かな?」

「はぁ? 皇帝が農民の気持ちがわかる? 何言って……」

 言いながら、永繁は自棄気味に文叔に斬りかかった。だが、文叔は動じない。無駄の無い動きで素早く動き、ある時は剣を弾き、ある時は拳を永繁に叩きつける。武官であると言われても納得できてしまうほどの動きだ。

 そして、その動きは遂に永繁を追い詰め、床を嘗めさせるに至った。

「グアッ!」

「永繁様!?」

「なろぅ! ワケわかんねぇんだよ!」

 黄鮮が永繁に代わり、文叔に斬りかかる。ここで永繁が負ければ自分達も罪を被る事になるからか。必死の形相だ。だが、それでも文叔の動きは変わらない。ただ、黄鮮の言葉に文叔は少しだけ顔を曇らせた。

「わからなくても良いよ、別に。……わからない方が良い……」

 悲しそうな、顔だった。だが、何があって彼がそのような顔をするのか、忠龍にはわからない。

「……ん?」

 文叔と黄鮮の斬り合いを見守る忠龍の視界に、動くものが見えた。それはじりじりと壁際まで動くと、壁に立てかけてあった弓矢に手を伸ばした。

「このまま……このまま終わらせられるか……」

(あいつ……さっき文叔が気絶させたのに……!)

 それは、先ほど文叔が殴り倒した筈の韓読だった。彼は弓に矢を番え、文叔にギリリ……と狙いを定めている。

「お前さえ死ねば……そうすれば、俺達が罪に問われる事は無いんだ。先ほど永繁様が仰ったように……だから……死ねぇっ!」

 狂気に染まりかけている目で呟きながら、韓読は矢を放った。矢は真っ直ぐに文叔へと飛んでいく。忠龍は、咄嗟に飛び出し、剣を振り抜いた。

「文叔!!」

「!?」

 忠龍の剣は矢を叩き折り、忠龍はその身を韓読と文叔の間に踊り込ませた。その様に文叔は、驚いた顔で忠龍を見ている。

「……忠龍?」

「焦らせんな! お前が死んだら、俺や兄貴も危うくなるんだぞ!?」

「あ、あぁ。……だけど忠龍、君の兄さんは? 私は君に兄さんを守るよう言った筈だぞ?」

 文叔が眉間にしわを寄せて問うと、忠龍は不敵に笑って見せた。そして、親指で軽く自分の背後を指す。

 そこには、忠龍や文叔がこの詰所に入ってくるのに使用した扉。勿論、外に繋がっている。もっとも、この場合は外と言っても洛陽の城内ではあるが。

「兄貴なら……お前らがやり合ってるうちに外へ逃がした。洛陽城内なら隠れる場所は腐るほどあるし、外へ逃げる事さえできればまず捕まる事は無い。……どっか抜けてる皇帝陛下が、ちゃんとこいつらを捕まえてくれればな」

「忠龍……」

 言葉が見付からず、文叔はただ忠龍の名を呼んだ。すると、忠龍は今しがたの自分の発言を照れ隠すように言った。

「良いから! 折角俺が残って、しかも矢からお前を助けてやったんだ! これでこいつらに負けてみろ。ぶっ飛ばすぞ!」

「……皇帝にぶっ飛ばすなんて言えるのは、君だけだろうね……」

 唖然としながら文叔が言うと、忠龍は煩そうに言い返す。

「うるせぇ! 文叔は文叔だろうが! 大体、命賭けた状況の最中で皇帝もクソもねェよ!」

「……うん、確かに」

 文叔ののんびりとした肯定に少々呆れながらも、忠龍は剣を構えて文叔の背後に立った。

「……良いか、俺がお前の背中を守る。お前の背後から飛んでくる矢や襲ってくる兵士はは皆叩き落して地面に沈めてやる! だからお前は、前にだけ集中しろ!」

「わかった。じゃあ私も、忠龍の背後を守るつもりでやるよ」

 言われて、忠龍はむず痒そうな顔をした。家族以外の者に守護対象として見られたのは生まれて初めてだ。

「……好きにしろ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 にっこりと笑って、文叔はまっすぐに永繁を見据えた。その永繁は、自分の思うように進まぬ展開に苛立ちを隠せないでいる。

「クソッ! 何が「背中を守る」だ! 皇帝陛下は、大人しく宮廷の奥で大臣達に守られてりゃ良いんだよ! 韓読! こいつらに向かって矢を撃ち続けろ!」

「はい!」

 はっきりと返事をし、韓読が第二の矢、第三の矢を続け様に射てくる。それを忠龍が漏らさず叩き落とし、文叔は永繁に斬りかかる。

「俺達もやるぞ、英敬!」

「はい! 皇帝だからって、何でも思い通りにいくと思ったら大間違いっすよ!」

 永繁の劣勢を見てとった黄鮮と英敬も剣を再び構え、文叔と忠龍に襲い掛かる。すると、その二人をも視界の隅に収めながら文叔が言った。

「私は絶対に勝てる戦いしか挑まない。死にたくないからね。……悪いけど、死にたくないからこの戦い……勝たせてもらう……いくよ、忠龍!」

「おぅ!!」

 文叔の呼び掛けに忠龍が応え、どちらともなく二人は床を蹴って勢い良く前進した。文叔は永繁に。忠龍は三人の兵士達に向かって。

「うぉぉぉぉぉぉぉ!」

「うぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 渾身の雄叫びをあげながら、二人は眼前の敵に斬りかかった。永繁達も、負けじと声を張り上げ、文叔達の攻撃を受けようと剣を構える。

 両者の剣がぶつかり合い、甲高い金属音が鳴り響いた。

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