第18話

「っとに歩き辛ぇな、この廊下……」

 転倒しないよう慎重に歩きながら、忠龍が小さな声で呟いた。その背には大きな包みを背負っている。どうやら、先ほどの部屋で寝台にかかっていた布のようだ。

「いっそ、奏響達が本当に火をかけてくれた方が良かったかもしれないわね。そうすれば氷もただの水になっただろうし」

「や、それはそれで困るんだけどな……」

 この会話を聞いたら本当に奏響が館を焼き討ちしかねない事を知らないまま、二人は歩いた。彼らを攫ってきた男達は現在酒かお楽しみの真っ只中なのだろう。辺りには人影が見当たらない。相も変わらず周りの部屋部屋から泣き叫ぶ声が聞こえてくるのには胸糞が悪くなるばかりだが、使い慣れた武器を持っていない上にアウェーど真ん中の現状では助け出すのは難しい。とにかくまずは脱出して、態勢を整えるのが先決だ。そう考え、断腸の思いで足を急がせる。

「見えたぞ。出入り口だ」

 歩くうちに、自分達が館に入る為に通った出入り口を発見した。あそこを出れば、とりあえず歩きにくい事この上無いこの廊下からはおさらばできる。そう考えた為に気が抜けたのだろう。

「きゃっ!?」

 短い悲鳴と共に、月華が足を滑らせた。そして月華は、思わず忠龍の服を掴んでしまう。

「ちょ、おま……うぉっ!?」

 当然の如くバランスを崩した忠龍も、月華と共にすっ転んでしまう。派手な叫び声と共に。

「おい、今声が聞こえたぞ!?」

「何事だ!?」

 そして当たり前と言わんばかりに男達が顔を出す。それを視認した忠龍達は顔を引き攣らせ、慌てて立ち上がった。

「あっ! てめぇらいつの間に!?」

「おい! 化け物どもが逃げたぞ!」

「化け物って言うな! 俺も月華も人間だぞ!」

「言ってる場合!? 逃げるわよ。アレを撒きなさい! 早く!」

 月華に叱咤され、忠龍は急いで背中の包みを取り外す。そして、結び目を解くと前方に向かって思い切り良くぶん投げた。

 包みは空中で広がり、中からは灰色の粉がぶちまけられた。先ほどの部屋にあった香炉の中身だ。包みの中は、灰が大量に詰まっていた。加えて、ふわふわとした埃や、竹の破片のような物も見える。どうやら、竹簡を破壊して砕いた物のようだ。

「竹簡を破壊したなんて、智多や理道に知れたら落雷ものね」

「仕方ねぇだろ! 緊急事態だ!」

 溜息をつきながらも駆けだす月華に、忠龍が同じように駆けだしながら言い返した。相変わらず凍ったままの床だが、灰やら埃やら竹の破片やらを撒いた事で多少の滑り止め効果は出たらしい。先ほどよりはスピードを出して、上手くバランスを取れば走る事さえできた。

 だが、それでもいつもよりは格段に遅い。その上、相手は靴に直接滑り止めの鉄片を施してある。おまけに、自分達よりもこの床に慣れている。

 不利な状況に変わりは無く、忠龍達と追手の間はどんどん狭まっていく。いつしか二組の間は人間一人分までに狭まり、月華を先に逃がした忠龍の肩を、追手の手が掴みそうになった。その時だ。

 ヒュン、と風を切る音が忠龍の耳に届いた。次いで、男の叫び声が耳をつく。

「うがぁぁぁっ!?」

「何だ、どうした!?」

「足が! 足が足が足がぁぁぁっ!!」

 錯乱状態になりながら叫ぶ男を、忠龍は呆気にとられて思わず見詰めた。すると、男の太腿に一本の矢が深々と刺さっている。

 あの矢には、見覚えがある。……と言うか、今現在、一本手元に持っている。

「無事か、忠龍! 月華!?」

 矢の持ち主の声が聞こえ、忠龍は出入り口の方を見る。そこには既に第二の矢を番えて屋内を狙っている放風。そして、月華の手を引いて外へと連れ出した文叔の姿があった。

「放風。それに……文叔!? 馬鹿、お前何だってこんな前線まで!?」

「弓使いと剣士が組んだ方がバランスが良いだろうと思って」

「そんな事は訊いてねぇ! っつか、奏響は!? あいつがいればお前が敵に姿晒すような真似しなくても済むだろ!?」

 忠龍が問うと、文叔は苦笑しながら答えた。

「いやー、だってさ。智多ちゃんを一人で行かせるわけにはいかないし。もし囲まれたりしたら、私や放風よりも奏響と一緒の方が智多ちゃんも安全でしょ?」

「……は?」

 文叔の言う意味がわからず、忠龍は首を傾げた。だが、その意味はすぐにわかる事となる。

「火事だ!」

「火事です!」

 遠く……恐らく屋敷の裏手の方から、叫び声が聞こえてきた。聞き覚えのある声――奏響と智多の声だ。

 その二人の火事と言う言葉に、忠龍は思わず辺りを見渡した。だが、別段煙などが出ている様子は無い。

 だが、その言葉に大いに惑わされた者がいたのだろう。やがて館の奥から激しい足音が鳴り響き始め、数多くの男達が姿を現した。更にその姿に混乱した男達が部屋から飛び出してきて、同じように館の出入り口へと殺到する。

「忠龍!」

 男達が出入り口に辿り着く寸前に、放風が忠龍の名を呼んだ。そして、忠龍に何かを投げて寄越す。

「忘れものだ! もう落とすなよ!」

 それは、この館に攫われてくる際に取落とした一振りの剣だ。鞘から抜き放って見れば、特に刃こぼれしたりしている様子も無い。それを確認した忠龍はすぐさま後ろを振り向き、押し寄せてくる男達に向かって剣を構えた。

 迫りくる男達に向かって放風が矢を連射する。足を射ぬかれて蹲った者を忠龍が蹴倒し、更に倒れた男を踏み付けて忠龍は剣を振るった。人の上で戦うなどバランスを取り辛い事この上無いが、それでも凍った床の上で戦うよりはマシであるように思える。男達は次々に床へと敷き詰められていき、狭い通路にはいつしか百人を超える人数が集まっていた。

 だが、忠龍は焦らない。狭い通路で密集し過ぎて身動きが取れなくなっている男達に背を向けると、彼は一気に外へと駆け出た。外に出ると同時に足元が急に固まったような安定性を得た。ここならバランスを気にする事無く、思う存分に暴れる事ができるというものだ。

 忠龍を追って、少しずつだが男達も外へと出てくる。だが、彼らは外へ踏み出した途端に忠龍に叩き伏せられ、地を嘗める事となってしまう。戸口が狭い為に、大勢で忠龍達を取り囲む事もできないまま、男達の人数はどんどん減っていく。そして、忠龍の眼前では男達がどんどん積み上がっていく。その積み上がった仲間を踏み越えて、新たな男が忠龍に襲い掛かってくる。

(こいつら、鉄片の付いた靴で仲間を踏み越えやがった……!)

 仲間を仲間とも思わぬ男達の行為に、忠龍は微かに怒りを覚えた。もっとも、自らもただの靴とはいえ彼らを踏み台にして戦っていた為、複雑な心境でもあるわけだが。

 仲間を踏み越えた男は、人の山から飛び降りるようにして忠龍に斬りかかってくる。確実に迎撃する為に忠龍は一歩下がり、剣を上方に構えて攻撃を受け流す。そうして降ってきた男と戦っているうちに、次の男が人の山から飛び降りてくる。安全を確保する為に、忠龍はまたも一歩下がらざるを得ない。そうして二人に増えた男達と戦っているうちに、三人目の男が降ってくる。

 忠龍の相手が三人になったところで、放風に制止されていた文叔が加勢に飛び出してくる。続いて、月華も放風の腰の剣を勝手に抜き取り、戦場に身を躍らせた。放風が二人に何かを叫んでいるのが聞こえたが、何を言っていたのかと考える前に更に新たな男が上空から降ってくる。文叔と月華も懸命に剣を振るうが、一人倒す間にまた一人降ってくる。実際には一人倒す間に二人降ってきているのだが、放風の射る矢が何とか半分に減らし続けている。

 それを繰り返しているうちに、気付けば忠龍達は戸口からかなり離れた場所まで下がっていた。そこへ山積みになっていた仲間達を蹴散らし、大勢の男達が飛び出してきた。距離を取らされた忠龍、文叔、月華は即座に対処できず、放風が彼らに矢を射かける。だが男達は伸びている仲間を無理矢理立たせて盾とした。そうして矢を防いだ彼らは、手に手に得物を持って忠龍達を囲み始める。

「ちょっと……これ、やばいんじゃないの?」

「……だな。っつーか、向こうの数多過ぎるよな。流石に反乱を起こそうとしていただけの事はある、ってか」

「え、そうなの!?」

 忠龍の言葉に、文叔がショックを受けた顔で問う。反乱を起こされるというのは為政者である文叔に民衆が不満を抱いているという事なのだから、当然と言えば当然だ。

「気にする事無いわよ。こいつら、ただ単に人々の上に立って威張り散らしたいだけの馬鹿だから。そんな奴らが性欲発散する為だけに騙されて攫われたんだから、逃集村の人達は迷惑なんてものじゃないわよね」

 文叔が落ち込む前に、月華が素早くフォローを入れた。そして、それに同意するように忠龍達を取り囲む男の背後から奏響が言った。

「本当にね。そんな元気があるなら、荒れ地を開墾して農業に勤しんだ方がよっぽど建設的だし、天帝も評価してくれるってのに。ただ威張る為に反乱を起こしておまけに女性を攫うなんて、愚かとしか言いようが無いんじゃないかな?」

 言うなり、奏響は腰の笛を抜き放ち、眼前の男の肩を思い切り強打した。周囲に、骨が砕ける音が響き渡る。その音に、奏響は軽く顔を顰めた。

「相変わらず、嫌な音だよね。人を殴った時の音ってさ。僕はこんな音よりも、自然と一体化できるような透き通った音を奏でたいのにさ」

「楽器を武器にしている時点で説得力ゼロだぞ。って言うか、いつの間に!? お前は裏に回ってたんじゃなかったのかよ、奏響」

「僕を誰だと思っているのさ? 神行法があるからね。あれくらいの距離なら一瞬で移動できるよ。あと、極力戦いたくないからこそ愛する楽器を已む無く武器にしているって事を理解してもらいたいね」

 言いながら、奏響は自らが握る笛を忠龍に掲げて見せた。それは、先ほど距離を測る為に奏響が奏でた銀色の笛。笛として奏でる事もできるが、人を殴り倒せるほどの強度も持つ暗器、鉄笛だ。元々が護身用に作られているものなので殺傷力はそれほど高いわけではない。が、見ての通り殺傷力が無いわけでもない。

「こっ……殺してないよね、奏響!?」

 殴られたのちピクリとも動かない男を見て、文叔が不安げに問う。すると、奏響はにっこりと笑って見せる。

「勿論だよ。死人を出したりしたら、何処かの皇帝陛下が悲しむからね」

 鉄笛で片手をてしてしと軽く叩きながら言われたその言葉に、文叔は心底安心して見せた。そんな彼に、奏響は言う。

「まだ安心はできないよ。何しろ、状況は殆ど好転してないからね」

「え?」

 間抜けな声を出す忠龍に、奏響は肩をすくめて見せた。そして、ぐるりと首を巡らせる。それにつられて、忠龍達も首を巡らせる。そして、思い出す。

「……ああ。そういや俺達、囲まれてたんだったな……」

「けどさ、奏響が来たからには安心なんじゃないの? だって、道士なんだし……」

「……道士を何でも屋みたいに言わないでくれないかな? 道士だって得意ジャンルとかあるんだよ?」

「なら訊くが、お前の得意ジャンルは何だ?」

「勿論、音楽だよ。まぁ、神行法とか占いとかも道士の基本みたいな物だからできると言えばできるけどさ、攻撃系は完全に不得手なんだよ、僕」

 放風の問いに、奏響は即答した。すると、月華が詐欺師でも見るような眼で奏響を見ながら言う。

「その音を使って色々できたわよね、確か? 笛の音で惑わせたり、形容しがたい大声で相手の鼓膜を破ったり。奏響、あんた自分が楽をしたくて適当な事言ってるんじゃない?」

「信用無いなぁ……」

 苦笑しながら、奏響が呟いた。そして、鉄笛を構えて敵の様子を窺いながらも言葉を続ける。

「それができるならやってるよ。けどさ、僕の音を使った術は、特定の人間にだけ聞こえる物じゃないんだよね。音が聞こえる者なら、僕以外の全員が平等に術にかかっちゃうんだ。こんな三百六十度囲まれてる状態だと、流石に味方を巻き込まずに……ってのは無理かな。皆、幻覚を見て同士討ちをしたり、鼓膜が破れたりしたら嫌でしょ?」

 その言に、一同は思わず頷いた。だが、すぐさま月華が首を傾げ、怪訝な顔で奏響に問う。

「じゃあ、何でわざわざ囲まれてる中に入りに来てるのよ? アンタ一人だけでも囲みの外にいれば、もう少し何とでもなったでしょう?」

「う~ん……そこなんだよね、問題は」

 奏響が申し訳なさそうに頭を掻く。

「いざとなったら、神行法を使って全員担いで逃げ出すつもりだったんだよ。けど、いざその場に立って見ると、結構目方や壁の厚さに厳しい物があるな……。こうなったら、月華と文叔だけ連れて逃げて、放風と忠龍は見殺しにするしかないかもね」

「おい!」

「駄目だよ! 見殺しなんて絶対駄目だ!」

 忠龍のツッコミと、文叔の抗議がほぼ同時に出た。そして、一拍遅れで月華が言う。

「じゃあ、私と文叔だけ連れて逃げ出して、残った奴らの鼓膜を破ったら? 奏響の力量なら、一方にだけ声を飛ばす事ならできそうじゃない?」

「おい!!」

「それも考えたんだけどね。後から取り調べとかするつもりだし、やっぱり彼らの五感は正常なままにしておきたいんだよね」

「俺達は!?」

 忠龍のツッコミはもはや泣きそうだ。ついでに、放風も。だが、そんな忠龍と放風は完全に無視して奏響はにこやかに言った。

「それにさ、僕もまだまだ修行中の身だからね。つい怒りに身を任せて行動してしまう事も無いわけじゃないんだよ」

「?」

 一同が、頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。すると、補足する為と言うよりは自らを律するように奏響は呟く。

「人間の声は、天帝がこの世に与えた最高の楽器だ。それをぞんざいに扱い、あんな悲しい音色を奏でさせるなんて……赦す事ができないからね」

 ぞくりとするような冷たい声に、忠龍達は思わず顔を見合わせた。それを瞬時の隙と取ったのか。忠龍達を取り囲んでいた男達が一斉に動き出した。男達は手に手に得物を振り上げ、忠龍達に斬りかかってくる。

 忠龍と文叔は剣で得物を受け止め、月華は相手の力を利用してそれを受け流す。放風は素早い連射で仲間の死角を守り、奏響は神行法で敵の背後に回り込み殴打する。

 能力面だけで言えば、忠龍達護龍隊が圧倒的に有利だ。だが、数が違い過ぎる。いつしか彼らは囲みを狭められ、互いの背中がくっ付くまでに追い詰められていた。剣も、弓も、鉄笛も、味方を巻き込んでしまう事を考えると思うように動けない。

 忠龍達を取り囲んでいた男達のうちの一人が、勝ち誇ったように雄叫びをあげた。

「死ねやぁっ!!」

「まぁまぁ。そう焦んなって」

 雄叫びが終わらないうちに、気の抜けるような間延びした声が聞こえた。どこから聞こえたかわからぬその声に、そこにいる全ての者が辺りを見渡した。

 その瞬間、今まで何も無かった彼方に巨大な土煙が巻き起こる。

「なっ……何だ!?」

 敵の一人が、素っ頓狂な声を上げた。それにつられて、その場にいる全員が土煙の方を凝視する。

 夜だというのにはっきりと見えるほど巨大な土煙。その土煙は次第にこちらに近付いてくる。そして、それに伴い地響きのような音が聞こえ始めた。

 やがて、その地響きの正体がはっきりとわかる距離まで土煙は近付いた。そして、その土煙を切り裂き、二つの影が躍り出た。

 一人は、馬に曲乗りをした人間。焔のように真っ赤な道服と黄色い腰帯を見に纏い、白いズボンと黒い靴をはいている。少し茶色がかった剛毛を青い飾り紐で無理矢理まとめているのが印象的だ。

 彼は背負った長剣を勢い良く引き抜くと、曲芸のようにくるくると振りまわした。すると辺りに風が起こり始める。その風は、彼が剣を一振り振り下ろすとゴォッと唸り声をあげ、忠龍達を取り囲んでいた男達の壁を一部吹き飛ばした。

 そんな曲乗りの道士の後ろからやって来るもう一つの影は、一瞬目を疑うような姿だった。ゆったりとした旅装束を身に纏い、手には槍。馬ではなく牛に跨り、一直線に突っ込んでくる。パッと見ただけではわからないが、その服装は文叔と全く同じ服装だ。そして、服だけではなく……顔までもが文叔と瓜二つだった。

「考福! 高矗!?」

 突然現れた増援に、忠龍達は驚きを隠せない。

「ちょっと留守にしてる間にお前らが出てったって聞いてよ。留守番に回された高矗に話を聞いてみりゃ、随分ときな臭ぇ話じゃねぇか。お前らだけじゃ荷が重いと思ってよ」

 考福が赤い道服をはためかせ、ニヤリと笑って言った。すると、文叔はむすっとした顔で言う。

「考福はわかるけどさ。何で来てるの、高矗? 君は私の影武者なんだからさ。洛陽で大人しくしてくれなきゃ困るよ!」

「お前が死んだら私が困るからに決まっているだろう。影武者として働いている以上、お前に老衰と病気以外で死なれるわけにはいかないのでな」

「じゃあ、何で素直に今回の影武者を引き受けてくれたのさ。私を死なせたくないなら、まずは私が一人で出かけようとするのを止めるべきじゃないの?」

「そうしたら、お前は大人しくしているふりをして、それこそ誰にも気付かれずにここに来ようとしただろう? それをされるくらいならお前を自由にしておき、行き先を把握しておいた方が良いと判断しただけだ」

 高矗の淡々とした説明に、文叔は不満げに顔をしかめた。本物と影武者が両方この場にいるという事は、現在洛陽には皇帝が偽者すら不在の状態という事だ。護龍隊とは関係の無い臣下の者達に気付かれたら、戻ってからの説教は避けられない。

「これじゃあ、何のために高矗を影武者にしたのかわからないじゃないか」

 言われて、高矗はニヤリと笑って見せた。

「これを見ても、まだそんな事が言えるのか?」

「?」

 文叔は、首を傾げて高矗の指さす方を見た。そこには未だに土煙が煙っている。だが、動きを止めたそれは風によって段々薄まっていき、次第にその後ろに隠れていたものが姿を現し始めた。

 そして、土煙が完全に消え去った時そこに現れたのは、五百人ほどの兵士達の姿だった。

「☆~%&#!?」

 突然現れた小さな軍隊の姿に、男達は勿論、忠龍達も言葉が無い。そんな様子を楽しむように見ながら、高矗は言った。

「北の地で反乱が起こりそうだという名目で、軍隊の一部を動員した。同じ顔だからな。本当に皇帝命令かと怪しむ事も無く付いてきてくれたぞ」

「付いてきてって……。え。それって、馮異とか朱祐とか、その他諸々いる大臣達素通りで直接兵士達に命令出して勝手に連れてきたって事!?」

「そうなるな。奴らを仲介すると、一々手続きが面倒だ。それに、ここに付いて来られて私とお前が入れ替わっていた事に気付かれても困る」

 その言葉に、文叔は頭を抱えた。影武者を利用して勝手に都を空けた上、大臣達に諮らず軍隊を動員したとあっては説教どころでは済まないかもしれない。

「まぁ、一か八かの賭けではあるが……夜中でもあるし、すぐに戻ればばれたりはしないだろう」

「ここから洛陽まで、どれだけの距離があると思ってるのさ……?」

 すぐに戻れば、というのは十分から精々三十分ぐらいの事を言うのだと思う。洛陽からここまで、とてもそれだけの時間で行って戻れる距離とは思えない。……と言うか、片道だけでそれの何十倍……いや、何百倍もの時間を要すると思う。

「心配すんなって。何のために俺が付いて来たと思ってんだ?」

 相変わらず剣で風を巻き起こしながら、考福がカラカラと笑う。その言葉に、奏響が納得したように頷いた。

「そうか。土遁を使ったんだね、考福?」

 考福は、軽く頷いて見せた。それだけで、奏響の推測が当たっていた事がわかる。

 簡単に言ってしまえば、土の力を借りた瞬間移動のような物だ。それを使って、五百人の兵士をほぼ瞬間で洛陽からここまで運んだのだろう。

「そ。帰りもそれで帰るつもり。あ、帰りは文叔にも一緒に来てもらうからな? お妃達が心配してたぞ」

「……わかったよ」

 渋々頷く文叔に、考福と高矗は「わかれば良い」と言うように頷いた。そして、高矗は槍を掲げると声高らかに号令をかけた。

「全軍突撃! 賊徒を一人残らず捕縛せよ!」

 それに応えて、兵士達は鬨の声をあげながら突撃を開始した。二百人いるかいないかの賊達は、倍以上の人数に襲い掛かられたちどころに縄目を受けていく。そして、それに便乗して考福が「俺も俺も」と突っ込んでいく。彼は剣から焔を出したり雷を出したりと好き放題だ。そして、その攻撃で動きが鈍くなった賊を兵士達が難なく捕らえていく。

「いやー……相変わらずやりたい放題だけど、見ていてスカッとするよね、考福の戦い方って……」

「ある意味、護龍隊の最終兵器だもんな。……攻撃力だけで言えば」

 最早自分達の出番は無さそうだと、早々に観戦モードに入ってしまった文叔達。茶でもあったら啜り出しそうなその雰囲気のまま、文叔は高矗に言った。

「それにしてもさ……堂に入ってるよね。高矗の号令。ひょっとしたら私よりも向いてるんじゃない? 皇帝」

「馬鹿を言うな。私はあくまで影武者だ。皇帝は文叔、お前でなければ世の中は治まらないぞ」

 高矗のその言葉に、文叔は首を傾げた。

「そうかなぁ?」

「そうだ。……と言うか、何だかんだと言って皇帝の仕事を私に押し付けようとするんじゃない。皇帝役なぞ、お前の影武者分だけで充分だ」

「えー? 高矗、私の影武者やってて何か嫌な事でもあった?」

 自分のせいで他人が嫌な思いをしているかもしれないとなると、文叔は瞬時に心配そうな顔になった。すると、高矗は真面目な面持ちで言う。

「何故私が牛に乗って戦う術を学ばなければいけないんだ?」

「そこかよ!?」

 かなりどうでも良さそうな〝嫌な出来事〟に、忠龍は思わずツッこんだ。

「いや、ほら。私が新に対して反乱を起こした時に牛を利用した話ってかなり広く伝わってるみたいだしさ。それなら、高矗には戦闘の時牛に乗って戦ってもらった方が相手はより一層高矗の事を私だと信じるかな、って……」

「……いや、普通はやらんだろ。俺が敵なら、牛に乗ってる奴が皇帝なんて言われたら怪し過ぎて逆に狙わん。罠が仕掛けられていると言っているようなものだからな」

「僕も。それは偽者か罠かって考えるかな。だって、「狙ってくれ」って言わんばかりじゃない?」

「……」

 放風と奏響に立て続けに言われ、文叔は黙りこくった。そして、ちらりと目を逸らすと、館の方へ向って歩き出す。

「そ、そうだ。ここはもう考福と兵士達に任せておけば大丈夫そうだしさ。私達は捕まってる女性達を助け出そうよ。そのまま逃集村に帰してあげても良いけど、考福がいるなら一旦洛陽に連れて行った方が良いかな? ほら、こんな事があったんだし、この先の身の振り方とか、政府の方でフォローしてあげないと。あ、話によっては、逃集村への支援も考えた方が良いかもねっ」

 慌てながら言う文叔に、忠龍達は苦笑した。そして、同じように苦笑しながら高矗は忠龍に言う。

「あれだ。王莽や、漢末期の劉氏皇帝であれば、犯人が自分に関係無いとわかった時点でこの件を放り出していただろう。それが、全く関係無い女達の将来を案じ、忌み嫌われているという村の事まで心配している。荒れ果てた今の天下には、ああいうお人好しな皇帝が必要だ。そうは思わないか、忠龍?」

「そうだな。っつーか、俺は文叔がそういう奴だって知ったから護龍隊の頭領なんて引き受ける気になったわけだし」

「そうだったな」

 穏やかに微笑み、高矗はひらりと牛から降りた。どうやら、文叔と共に館の中に入るつもりでいるようだ。同じように、奏響、放風、月華も続く。

 そして忠龍も、賊と兵士の戦闘に背を向け、館に向かって歩き出した。何かを忘れているような……そんな影が心の隅を過ぎった事にも気付かぬままに。

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