君 上 「それなら運命という言葉ででも片づけてしまいなさい」

【時系列:本編前 / 第零話読了後推奨】


 それには形がなかった。

 黒く塗りつぶされた不定形のそれを、職業人としての自我が、斬り捨てるべき対象であると認識する。けれど個人としての自我は凍りついたまま動けない。

 形のないそれが明確な殺意を持っている。殺意だけが形を持っている。

 具現化した殺意は刃と化し、なんの前触れもなく自我を斬り裂いた。音もなく叫ぶ。しかし自我は自我を保ったままだ。せめて混濁に沈んでしまえれば良かったものを。

 激痛というより灼熱だった。絶叫ではなく断末魔だった。なぜ断末魔を何度もあげなければならないのだろう。それは地獄のような矛盾だ。

 斬られ刺され抉られるのに比例して、腹の底にふつふつと闇が溜まる。流れ出る血潮を埋めるように、黒いものが満ちていく。

 やがて不定形の影に成り下がることを、自我は予感する。物理的な苦痛と圧倒的な恐怖が、何度目かの断末魔を生む、――。

「椎名」

 ――叫びは名前に掻き消された。

 眼を開けると、組んだ両腕と殺風景なデスクが見えた。ブラックスーツに皺が寄っている。自分はなぜこんなに強く腕を組んでいるのだろうと、それだけをぼんやりと不思議に思った。

「椎名、聞いていますか」

 再び名を呼ばれてようやく振り返る。肩までの長髪を短く束ねた、人形のような優男が立っていた。

 常磐が椎名の顔を認め、ちらりと顔を歪めた気がした。不審か憐憫か、いずれにせよ面白くない反応だ。表情そのままの台詞を、常磐は率直に口にした。

「酷い顔ですね」

「あんた相手に愉快な顔なんてできるか」

 吐き捨てるように応えると、そういうことではないのですが、という呟きが聞こえた。無視する。応じる必要もなければ、それだけの気力もない。なにかひどく恐ろしい目に遭ってしまったような気がしたが、もう思い出せなかった。不定形の悪夢なら、いけ好かない上司以上に見慣れている。わざわざ手探りで引きずり出すこともあるまい。

「内線が聞こえませんでしたか」

 常磐が再度問うてくる。声のする位置が変わっていた。主の居なくなった隣席に、いつの間にか勝手に座ったらしい。椅子一つ軋ませず、気配を消して動くのは、もはや彼の特技のようなものだった。

 椎名は答えず、常磐を見返した。整った中性的な顔立ちに、意味深な含みは感じられない。面倒な企み事をしているわけではないらしいが、それ以上のことは判らなかった。少なくとも、なにか具体的な用件があって、班長自ら班室まで出向いてきたということは確かだ。暇でもないだろうにご苦労なことである。

「まあ、眠っていたのでは仕方ありませんね」

「……内線?」

 勝手に納得する常磐に、数拍遅れて問い返す。声が掠れていた。コーヒーが欲しい。

 常磐は動じる気配もなく、微笑で頷いた。

「何度か掛けたのですが、繋がる気配が微塵もなかったので直接来てみた次第です。あまり遅くなると時間が来てしまいますのでね。……さて、行きましょうか」

「ちょっと待て」

 一方的に告げ当たり前のように立ち上がった常磐を見上げ、思わず声を掛ける。気づけば常磐の調子に喰われてしまっていることを内心腹立たしく思いながら、見下ろす上司に言葉を継いだ。

「あんた、なにしに来たんだよ」

「決まっているではありませんか」

 にっこりと笑ってみせたその表情は、椎名の見慣れた企み顔に限りなく近かった。問いを発してしまったことを、瞬間的に後悔する。

「貴方を彼女に引きあわせに」

 彼女。

 真っ先に浮かんだのは狭霧だったが、今更彼女と引きあわせるというのも妙な話だ。誰のことだ、とたっぷり頭を捻ってようやく、その意図に思い当たる。

「……相棒とやらか」

「察しが良いですね」

 涼しい返事が降ってくる。椎名は露骨に顔をしかめた。そして、常磐が数秒前まで腰かけていた回転椅子を一瞥する。

 前の相棒が――鳩羽が逝ったのは、いつのことだっただろうか。恐らく、さほどの時間は経っていないのだろう。常磐の性格上、相棒の居なくなった「葬儀屋」をそう長いこと放っておくとは思えない。例えそれが、相棒という存在を厭い、また周りのどの死人にも忌まれる異端の場合であったとしても。

 常磐の掛けていたデスクには、つい最近まで椎名の相棒が座っていた。今となっては昔話だ。死人のくせに、死人としての寿命を全うしたという冗談のような理由で、彼は輪廻に還っていった。

 取り残された椎名には、新たな相棒があてがわれる。

 管理局員は、二人一組で行動するのが常だった。椎名は相棒など疎ましがるだけの異分子だったが、上司たる常磐は、その類の原則を決して破らない堅物だった。否、堅物と言うと語弊があるか。その類の掟には便乗する、悪趣味な常識人だ。椎名がどんなに忌まれていようと、誰もが椎名と組むことを断固拒絶しようと、大原則を変えようとしないのだから。

 だが、それにしても――新たな相棒がやってくるにしても、今までと同様に、人事異動のようなものだと思っていた。他の死人と組んでいた誰かが、回りまわって不幸なことに椎名の相棒として据えられる。今まで繰り返してきたように、そんなものだと思っていた。

 今回は違う。

 椎名と組まされるのは、今まさに「葬儀屋」としての生を受けようとしている、正真正銘の新人だった。

 告げられたときにはなんの感慨も起こらなかったが、考えてみれば、ただの異動よりもよほど面倒なことになることは明らかだ。

 次に相棒になる死人だといって、常磐が少女の写真を見せてきたのは最近のことだ。

 初めて「葬儀屋」となる死人が二度目の生を受けるとき、相棒との邂逅は、他の死人を隔離した二人きりの執務室で行われる。いつもは常磐と狭霧が事務仕事をしているあの部屋から、このときばかりは二人の主が消える。

 あの少女は、なにも知らずにこの世界にやってくるというのか。迎える椎名がどんな死人かも知らずに。

「……行かねえって言ったらどうするんだ」

 往生際が悪いことは承知していたが、呟かずにはいられなかった。

 見下ろす常磐は圧倒的な威圧感を持って、穏やかに笑いかけてくる。

「そうなれば、強引にでも連れこむだけの話です」

 視線を逸らして、椎名はあからさまに舌打ちをした。どんな手段を使う気でいるかは知らないが、口にした以上は平然とやってのけるのだろう。それもぞっとしない話だ。

 諦めて立ち上がる。視点が急に上がって、自分の身長を不意に実感した。思えば立ち上がるのも随分と久しぶりだ。

 僅かに下の位置で、常磐が仮面の微笑を浮かべている。唇を結んで凝視する椎名の眼を平然と受け流し、彼はするりと背中を向けた。

「行きましょう。時間になってしまいます」

 向かう先は執務室だ。そんなことは解りきっている。常磐の仕草の一つ一つに過剰反応してしまう幼さが束の間嫌になった。自暴自棄もここまでくるとただの我儘だ。常磐について、大人しく革靴の歩みを進めていること自体が、既に奇跡的なことのように思える。

 ぴんと伸びた背中が、思い出したように言葉を投げてきた。

「気が進まないのは重々承知ですが、組織とはそういうものですよ」

 たしなめるでもなく、ごく自然に思いつきを口にしたという調子だった。

 一瞬、足が止まった。それを気取られないよう、いつもの口調でぼやく。

「好き好んで入った組織でもねえよ」

 ――ようこそ、「葬儀屋」へ。

 常磐の言葉が、耳の奥に蘇った。茫洋とする意識の中、初めてこの喪服を着て、初めて死者としての自我を持ったあの日のことだ。相棒という位置づけで現れた常磐は、芝居がかった言葉をごく当然のように投げてきた。そして椎名の意識は、逃れられない決定事項として、その事実を受け入れてしまったのだ。常磐の白い手と握手をして。

 あの少女もそうして、この事実を受け入れるのだろうか。それとも本能的に恐れるだろうか。なにか忌々しいモノとして、自分の姿を見るのだろうか。それなら自分は、どのように接するべきなのだろう。異動してきたかつての相棒たちと違って、これから迎える相手は真っ白だ。椎名のことをなにも、知らない。

 常磐が執務室へ歩みを進めている。その後ろを、椎名は機巧からくり人形のようにつき従う。――この優男はなにを考えているのだろう。なにか策があるふりをして、その実、なにも考えていないのではないだろうか。

 後姿のままで、優男は言った。気がつけば、白い手が執務室のドアノブを掴んでいる。あの日椎名に差し出されたのと同じ、女性的で華奢な手だ。

「それなら運命という言葉ででも片づけてしまいなさい」

 ちらりと振り返り、微かに笑う。

「運命、ね」

「受け入れられない現実を呑みこむには便利な言葉です」

 平然と言って、常磐は扉を開けた。見慣れた硝子テーブルに臙脂のソファ、壁を埋めた書架と黒いファイル。何度となく足を踏み入れてきた常磐の部屋だ。

「もう間もなくです」

 自分は中に入らず、常磐は眼差しで椎名を促した。夢遊病者のように中へ入ると、常磐が思い出したように問いかけてくる。

「名前は憶えていますね」

 ロングヘアの少女の名を、無機質な書類の明朝体で思い出す。

 視線だけで振りかえった。

「……胡蝶」

「結構です」

 平坦な言葉に頷いてにこりと笑い、常磐はそのまま扉を閉じた。

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