傷と痕 5/5 「渡すものがある」

 まっすぐ執務室へ向かうつもりだったが、気が変わった。

 椎名は黙って班室へ戻った。自分のデスク――ではない。もっと手前だ。書類作業に没頭する横顔を認める。相棒と似ているようで似ていない、直線的なロングヘアだった。

「あんた」

 相手が跳ねるように顔を上げた。丸く見開かれた眼が椎名を凝視する。眼だけが揺れている。どこかで見た眼だ、と思ったが、思い出すことは感情が拒否した。

 一拍ののち、彼女は眼を伏せた。椎名は構わず問うた。

「……淡雪ってあんたか?」

「そうだけど」

 淡雪は、名前の通りに消え入りそうな声で応じた。

「渡すものがある」

 なんで今日は、同じことばかりをしているのだろう。仕事のうちだといえばそれまでだが、あれもこれも、椎名の私情だといえばその通りだ。つらつらと詮無いことを考えながら、椎名は彼女の机の上に、目的のものを置いた。

 玻璃の銃。

 淡雪は、今度こそ眼を丸くして硬直した。

 椎名はそれを見下ろしていた。そして黙っていた。

 ――あんたには、俺を殺す権利があるかもしれない。

 そこに置かれた銃をひったくって、銃口をこちらに向けて、引鉄を引くだけだ。至極簡単なこと。迷う必要すら無い。たった五秒ですべてが終わる。それなら終わらせてくれないだろうか。傷も痕も残らないくらい、綺麗さっぱりと。もう随分、傷をつけてきたのだし。銃の使いかたなど、彼女は充分に心得ているのだろうし。

 淡雪は長い間、銃を眺めていた。

 そしてようやく、口を開いた。か細かったが震えてはいなかった。

「玻璃は」

 ゆっくりと、顔を上げる。初めて眼が合った。疲れたような表情をしていた。

「玻璃はあなたが殺したの」

「殺したも同然だが、厳密には違う」

 椎名は彼女の眼を見て答えた。

「玻璃は玻璃のままで消えた。あいつがそれを選んだ。それだけだ」

 淡雪はゆっくりと、瞬きをした。そしてまた、眼を伏せた。

「……傷を、受けすぎたのかな」

「そうかもしれない」

 傷に喰われたという意味では、そうだ。けれど数の問題ではなく、彼自身が傷を志向しすぎたのだ、とも思う。

 けれど。

「謝ってたぜ」

 淡雪が眼だけでこちらを窺った。

「ごめんなさい、って。俺が聞いたのはそれだけだよ」

「……そう」

 辛うじて聞こえる程度の返事があった。

 それきりまた、沈黙が落ちた。

 長居は無用だ――潮時か。思った瞬間、顔を伏せたままの淡雪が椎名を呼んだ。

「椎名」

 相棒と上司以外の死人に名を呼ばれるのは随分と久しぶりだな、と、間の抜けた感想を抱いた。

「なんだ」

「玻璃を見送ってくれてありがとう。わたしじゃきっと無理だった」

 絞りだしたような早口。それきり淡雪は、沈黙した。机上の銃を見つめたままで。

 その横顔を眺めて、椎名は小さく呟いた。

「助けられなくてごめん」

 影と化したのちに元の姿に戻った者の存在を、椎名は知らない。恐らくはこの組織の中で指折りに影との遭遇数が多い自分がそう判断するのだから、間違いないだろうと思っている。その程度には自負がある。

 だからもう、終わりだったのだ。あの斎場で、無害な「葬儀屋」としての玻璃は終わっていた。けれど彼が彼を保ったままで還ることができたのなら――それならきっと、最悪ではなかった。

 椎名は彼だったかもしれない。

 彼は椎名だったかもしれない。

 ただ少し、なにかが違っていただけで。椎名が傷を山ほどに抱えた爆弾であるというのは、それは文字通りにそうなのだから。

 この先も、椎名は椎名のままである義務がある。

 そしてそれ以上に、月影を月影のままでいさせる義務がある。

 更に言うなら、玻璃の姿を忘れてはならないのだと――思った。

 椎名は踵を返した。

 死者には、死者の役目がある。



≪終≫

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葬儀屋 斜芭萌葱 @hmoegi

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