傷と痕 4/5 「あんたはどっちの『玻璃』だ」

 椎名は振り向いた。

 月影が立っていた。右手に銃を持て余して眼を見開いていた。

 その真後ろに黒い塊が佇んでいる。

「どけ!」

 叫ぶと同時に刀を抜いた。鞘を投げ捨てて床を蹴った。月影が背後を振り返る。それよりも、黒色がひらりとかわすほうが早かった。月影が飛びのく。斬りかかろうとした刀が空を掠めた。

「ははは」

 耳障りな声が嗤った。人間の声だ。けれどいやに粘着質で金属質だ。椎名は相手を睨みつけた。

 喪服の青年だった。黒髪に紅い瞳とブラックスーツ。中肉中背、取り立てて特徴のない青年。ただ、身体の正中線の右側だけが、常闇のような黒に潰されていた。輪郭線も曖昧だ。左半分だけがヒトのかたちをしている。その左手に、銀の銃をぶら下げている。

 左半分だけの顔が、口を三日月にして笑った。それがもともとの彼の表情なのか、その姿になったがゆえのものなのか、は、椎名には判断がつかなかった。

 情報局の入口から、喪服が一人顔を出したのが見えた。騒ぎに気付いたか。眼が合うか合わないかのうちに叫んだ。

「閉めろ!」

 紅い眼が丸くなる。慌てた様子で扉がぴしゃりと閉まる。駄目押しとばかりに言い放った。

「出てくるんじゃねえぞ!」

 さすがに異常には気がついただろう。否、異常というなら椎名が情報局フロアに来たことこそが異常だった。ならば結局疫病神は自分のほうか。それはまた愉快な話だ。

 椎名は、半身の影に向き直った。視界の隅に月影が居る。無視するべきか、否か。

「あんた、玻璃だな」

 刀を構えたままで、椎名は低く問うた。

「そうだよ。君は椎名で、そっちは月影」

「よくご存じで」

 皮肉のつもりだったが、通じなかったかもしれない。

「先にこっちとはとんだ臆病者だな」

 玻璃が、半分しかない顔を不審げに顰めた。椎名は相手を睨めつけたままで続けた。

「やばいってんなら圧倒的に俺だろ。先に丸腰の情報局員片付けようって腹なら要するに臆病者だって言ってるんだ」

 懇切丁寧に説明してやったつもりだったが、玻璃はああ、と気のない声を漏らしただけだった。

「特にそんなつもりじゃなかったんだけどな。二人とも居るから一度で済むと思っただけさ」

 相変わらず不快な音で話す。声と影とがぶれている。椎名は顔をしかめて、柄を握りなおした。なるべくじっとりとした声音で、そうかい、と呟く。

「なら、得物持ちは得物持ち同士、仲良くやろうじゃねえか」

 再度踏み込む。玻璃が左手の銃を構えた。こちらから見えている身体は半分だが、彼の体感としてはどうなのだろう。構えが不安定になることは無いのだろうか――考えたところで、反射的に身体を捻った。

 銃声。

 振り返る。廊下の壁に弾痕があった。

 ここで撃ったらちゃんと壁に傷が残るんだな、と、椎名は妙に感心した。普段銃を使うのは現世だ。現世の物質に、死者は干渉できない。銃を撃っても現世の壁は無傷のままだ。当たって爆ぜるのは死者ばかりである。

「壁にも傷が残るんだな」

 玻璃が同じことを呟いた。片手で不安定に銃を構えて、自分の手元を物珍しげに眺めている。

 目的が解らない、と思った。殺す気でいるなら――既に死んでいるのにおかしな言い回しだが――もっと必死で襲い掛かってくるだろう。というよりもっと錯乱していただろう。影に潰されかけていると聞いた時点で、話が通じるとは思っていなかった。半分影に侵されながら、残りの半分でものを考えているさまは、端的に不気味だった。

 彼はなにを確かめに来たのだろう。

 刀を構えなおして椎名は問うた。

「俺のなにが気に食わないんだ」

「危ないからさ」

 至極当然と言わんばかりに玻璃が応じる。そんなことは解ってるよと毒づきたくなったが、応じた玻璃も、当たり前のように平然としていた。ただ、返事をしたということは、それなりに的を射た問いだったのだろう。

 左手でぎこちなく銃を弄びながら、独り言のように呟く。こいつは左利きではなかったようだな、と思った。

「傷だらけなのに治ったふりでいる君たちは危険だ」

「たち?」

「君も彼も。傷だらけで死んでおいて」

「――それ以上言うんじゃねえ」

「全部爆弾なんだ。いつ爆発するか知れたものじゃない」

「黙れって言ってる」

「だから除去しないといけないんだ」

 椎名は踏み込んだ。眼の前で玻璃が眼を見開く。

 振り下ろした刃が影の肩口を断った。玻璃の、かつて右腕だった場所。人体にしてはあまりに呆気無い手応え。慣れた感触。これは――ヒトではない。影だ。手に伝わる感触。これは、この得物でしか得られない。

 どさり、と、腕のような黒い塊が落ちた。玻璃が驚いたように眼を見開いてそれを見る。その視線の先で、かつて腕だったそれは、じゅっ、と、焼け焦げるような音で消えた。

 あああああ、と、玻璃が虚ろな音で呟いた。地を這うような唸り声。痛みは無いのだろうか、と思ったが、それ以上を考えるのはやめた。恐怖か怯えかそれとも単なる驚愕か。いずれにせよ半分以上は壊れている。

 視界の端で、月影が息を呑んだ、ような気がした。

 無視した。

「残念だが、傷っていうのはつくものだ。どんなに大切に扱ったとしても」

 椎名はしいて押し殺した声で言った。

 握った柄。鍔。刀身。目を凝らせば浮かび上がる無数の傷。消えたのは、斬ってきた死者たちの血と影だけだ。それ以外の時間は、この日本刀に刻みつけられている。たぶん、椎名の記憶にも。

「俺が傷ならあんたは割れるのか?」

「なに?」

 玻璃が顔を上げた。眼が痙攣したように揺れている。こいつはこんな状態で、どうして会話が成り立つのだろう。

「あんたはどっちの『玻璃』だ」

 玻璃、という語は二つの意味を持つ。一に水晶、二に硝子。水晶は硬いが硝子は脆い。見た目に大差は無いのに――。そういえばこっちも見た目に大差は無いんだな、と、椎名はふと考えた。まっさらな状態で二度目の生を得た月影と、傷の記憶を抱えた椎名。それなら硝子は椎名のほうか。この場でそれは、笑えない。

 ――なあ、玻璃。あんたはどっちなんだ?

「僕は僕だよ」

 気の無い声でそれだけを零す。でも、と継いで、玻璃は左眼だけで、右腕のあった場所に視線を落とした。

「この傷は戻らないんだな」

 そもそも、彼のどこからが腕だったのだろう。霞んだ右半身は、もう漆黒がぼやけるばかりで人のかたちを成していない。ただ、右肩から下の体積を失っただけだ。

「……戻る?」

「死人の傷は治らないんだ。巻き戻して、元に戻るだけだよ」

 銀の銃を弄んでいた左手が、ぴたりと止まる。そしておもむろに、持ち上げる。銃口が己が頭蓋を向く。そうしながら言葉を垂れ流している。

「僕はずっと疑問だった。死人はどこまで傷つけると戻れなくなるんだろう? ――」

 銃声。

 ――ああ。

 ――昔、同じことがあったな。

 玻璃が眼を見開いて、銃をこめかみに押し当てて、椎名を凝視して、硬直している。

 椎名は玻璃を見て、そして、視線をずらした。

 半ば忘れていた視界の外で、月影が銃を構えていた。引鉄を引いたのは、月影のほうだった。

 銀縁眼鏡の奥の眼は怯んでいた。けれど鋭かった。

 たぶん壁の弾痕が増えているのだろうな、と椎名は思ったが、それを探す気にはなれなかった。

 玻璃が恐る恐る、振り返る。月影が居た。椎名と同じ顔で、銀縁眼鏡を掛けて、銃と視線を向けていた。

 月影が問うた。椎名と同じ声で。

「お前、なにをそんなに恐れてるんだ」

「……なに?」

 呆けた調子で問い返す。虚空を眺めて数秒思考して、玻璃は視線だけでこめかみを見た。こめかみに向く銃を、持つ、左手を。

 椎名は咄嗟に踏み込んだ。

 刀を振るった。眼を細める。――間違えるなよ。

 銀の銃を握った左の手首を、斬り落とした。

 重い音で、銃が床に落ちる。左手が続いて転がる。噴き出したのは真っ赤な血液――ではなかった。ばたばたばたと粘着質な音で、コールタール状の漆黒が滴った。見慣れた影の中身。

 一拍遅れて、玻璃は事態を認めた。左眼を見開く。右半身の暗闇が左半分に覆いかぶさる。庇おうとしているのかもしれない。けれど傍目には、ただ黒が濃くなっただけだ。

「あああああああ」

「驕るなよ」

 椎名は言い放った。玻璃が眼だけで椎名を捉える。椎名はそれを無視して月影を見た。時間が止まったように、銃を構えて硬直している彼に目配せをする――通じただろうか、と思った矢先、月影がはっと銃を下ろした。

 椎名は視線を外した。月影と眼が合う前に。

 そして玻璃を見た。呆然と佇むヒト型の、右半分は暗闇。左半分は喪服。左の手首から先は、銀の銃と一緒に足元に転がっている。ぼたぼたと、黒が足元に零れて滴って溜まっていく。その黒に表情ごと抜かれてしまったような空白の顔に、言葉を押し込んだ。

「驕るなよ。俺たちは死者であって不死者じゃないんだ」

 死んでいるからもう死なない。違うのだ。輪廻の手前で立ち止まっているだけ。生者に死があるように、死者には輪廻が漠然と待ち受けている。それだけの話だ。傷が治ろうが戻ろうが同じこと。致命傷を受ければ強制的に輪廻へ呑みこまれる。同じことだ。

「死者は死者であることから逃れられない。それだけの話だろう。戻る傷は戻るし戻らない傷は戻らない。だが結局逝く先は同じだ」

 死と同時に輪廻へ飛び込むか。死の時点で喪服を着せられるか。どれだけの違いがあるというのだ。

「おなじ」

「同じだ。驕るんじゃない」

 音だけで呟いた玻璃に言葉を投げつける。

「傷がついて痕が残るのは、昨日と違うっていうのは、先に進んだ証明だ。毎日を過ごしてるって、それだけのことだろう。あんたは先に進んでただけなんだよ。なにを拗らせてやがるんだ」

 ぱたり。ぽたり。黒い雫が滴っている。

「受け入れろ」

 椎名は突き放した。

 残酷かもしれない、と思った。けれどそれがすべてなのだ。小さな傷を化膿させて、その傷に喰われてしまった。それだけのことなのだ。

「あんたは誰だ」

 椎名は、玻璃を見た。左半分に、ぽつりと紅い瞳があった。

 その瞳が椎名を見た。

「ぼくは」

 半分残った唇が言葉を発した。

 右半分は無い。左手も無い。身体は半分以下で、けれど意識は。

「玻璃だ」

 一言。

 瞬き。

 もう一度、椎名を見た。

 そして誰へともなく眼が泳いだ。

「……ごめんなさい」

 右半分の影がふわりと霞んだ。輪郭が滲む。その空気に侵食されるように、砂絵をゆっくりと吹き消すように、足元の影溜まりごと、落ちた手首ごと、玻璃は――消えた。

 あとには銀の銃だけが転がっていた。

 椎名は刀を提げたまま、銃の傍へ歩み寄った。目立つ傷も無い、綺麗な得物だ。普通そうだろう。傷がつくほど銃を使い込む死人などそうそう居ない。あの上司なら嫌というほど使い込んでいただろうが、彼は滅多なことでは銃に傷などつけないだろう。――ああ、そういえばあのときの傷は、残っているだろうか。

 屈んで、銃を拾う。そして無造作にポケットに納める。

 立ち上がったところで、真正面に月影が居た。

 仏頂面のまま、黙って左手を突き出してくる。刀の鞘だった。最初に投げ捨てたものを拾ったらしい。妙なところで気の付く奴だなと感心しながら、表情には出さずに受け取る。白い刀身を鞘に納めて左手に提げる。礼を言おうとしたところで、今度は有無を言わせず右手を突き出してきた。

 銀の銃。

 椎名は数秒、それを眺めていた。そして呟いた。

「お前」

「返す」

 表情と同じ、平坦な声。声も口調も嫌になるほど聞き慣れている。

 身を守れといって、つい先刻手渡したばかりの銃。恐らく役目を果たした、銀の銃。役目を果たしたなら当然椎名のもとに戻るべきで、月影も同じように考えている。というより根本的に、銃器が手元にあることなど、普通の死人は良しとしないだろう。

 ということを考えながら、椎名は銃を眺めていた。

 月影が不審げに眉を顰める。念を押すように、また銃を突き出す。

「返すよ」

「……いや」

 椎名は。ゆっくりと、首を振った。

「持っとけ」

「は?」

 月影が頓狂に問い返す。

「なんで」

「他人だからな」

 苛立ちの滲んだ詰問に、抑えた一言だけで応じた。

 解らせてたまるものかと思った。だから、大して意味の無い言葉を選んだ。

「……上司に報告してくる」

 恐ろしく自分らしくない言葉を吐いて、踵を返す。班室に戻ろうとしたところで、背中に声を投げられた。

「おい」

 歩みは止めない。終わったのだ。終わったのだから。これで終わりだ。

「悪かったよ」

 ――止まった。

 振り返った。

 持て余したように銃をぶら下げて、喪服が一人立っていた。縦にばかり細長い身体。切れ長の紅い眼。銀縁の眼鏡。表情は、わからなかった。あまりに見慣れた顔で。自分はこんな顔をするときなにを考えているだろうか?

「お前にばっかり背負わせてごめん」

 ――名を間違えそうになった。

 椎名はわざと、彼を睨んだ。

「仕事だからな」

 意図的に乾いた台詞を選んだ。

 踵を返して、もう振り返らなかった。

 壁には弾の痕が二つ残っていた。

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