八‐一 「社会人にはそれくらいの非日常が必要だ」

  自動改札を通り抜け、椎名はほうと息をついた。キャリーケースを引く手を左に代え、右腕をぐるりと回す。スポーツバッグを肩に担ぐよりは楽だが、キャリーを引くのが重労働であることには変わりない。なぜもっと小さなものを買わなかったのだろうと恨めしく思いながら、グレーのケースを眺めた。大は小を兼ねるというが、大きすぎるのも考えものである。シンプルで機能的なデザインは気に入っているのだけれど。

 それにしても、キャリーケースひとつ引いて立っているだけで、故郷の駅も新鮮に映ってしまうのだから不思議なものだった。あるいはむしろ椎名のほうが、この駅にとっての異質物になってしまったのだろうか。都会ならまだしも、片田舎の小さな駅に大荷物は似合わない。馴染むのは精々ショッピングカートくらいのものだろう。片田舎の駅はあくまで住民の足であり、旅行荷物を引いた旅人の居場所ではないのだ。――住宅街にがらがらとキャスターを響かせながら、そんなどうでも良いことを思う。久しぶりの帰省だ。無為なことに頭を遣うのも悪くない。

 歩き慣れた道には夜風が吹いていた。下宿先より心なしか涼しく感じられる風は、車内の冷房よりも心地良かった。衣替えにはまだ早い時期だったが、帰ったら羽織りものの準備くらいはしておいたほうが良いかもしれない。気温は急に下がることもあるから用心が必要だ。

 ぽつりぽつりと、仕事帰りのサラリーマンが歩いている。何気なく空を見上げると、雲の隙間に月が見えていた。もうすぐ満月だ。

 前に帰ってきたときもこんな季節だった、と、不意に思いだす。大学院入試が終わった解放感と、卒業研究のプレッシャーがない交ぜになった半端な時期。院試に受かって意気揚々と里帰りしてみたら、椋次りょうじが卒業論文に苦労していてげんなりさせられたのだったか。――椎名にとっては非日常となってしまった実家も、椋次にとっては日常の風景にすぎない。よって彼は、いつも通りに家で文献と格闘する。例え椎名が寛ぐために帰ってきたのだとしても。

 ――なにしに帰ったんだか。

 当てこすりのように呟くと、嫌味のように返された。

 ――余裕綽々の兄上とは違うんでね。

 それでも結局、二人揃って卒業はできたのだから、なるようになるというものらしい。

 椋次といえば――最近様子がおかしい。

 異常だというわけではない。ただ少し、変化があった。

 まず、メールの間隔が妙に開くようになった。そう頻繁にやり取りをするわけではないのだが、ぽつりと連絡をしたときの返信が、以前より遅くなったことは間違いない。それに加えて、機嫌が良いような気もする。文面は意外と饒舌だ。絵文字の出現率が上がったことに、恐らく本人は気付いていないのだろう。

 ――彼女でもできたんだろうか。

 帰って顔を合わせたら、一度つついてやるのも面白いかもしれない。自分の弟だとは信じがたいほど、椋次は交友関係が広いのだ。社会人の仲間入りをして、職場で良い恋人でも見つけた可能性は大いにある。羨むというより半分面白がっているというのが、弟の恋愛に対する椎名の視点だった。翻って自分のことを思うと、正直なところ面倒臭がっているのだろうと思う。長続きしない。恋愛以前に人間関係が苦手なのかもしれない。

 キャスターががらがらと鳴る。時折なにかに引っ掛かってリズムが乱れたが、至って単調な音だった。辺りが静かなせいで余計に響く。ビジネスバッグを提げている者は居ても、夜更けにこんなものを引きずっているのは椎名くらいだ。

 がらがら。

 一年経っても、風景はあまり変わっていなかった。スーパーがあり、バス停があり、学習塾がある。ぽつりぽつりと半端なリズム感で並んだ街灯。コンビニが潰れてなぜかクリーニング店になっていたことが変化といえば変化だったが、それとて驚くほどのことではなかった。そもそもあの区画は、すぐに店が変わってしまうのだ。立地が悪いのだろうか。

 そう簡単に、風景は変わらない。

 変わっていないのは、椎名も似たようなものなのかもしれない。大学院はそれなりに面白いし忙しいが、同じ大学の同じ研究室で進学したために、周りの環境はほとんど変わっていない。学生食堂のメニューも相変わらず同じようなものだし、アルバイトもまだ続けている。至って平凡な毎日だった。あるいは、変わらないからこそ、こうしてなにも変わらない故郷に安堵しているのかもしれない。

 ポストの角を右に曲がると、見慣れたマンションが見えた。キャリーケースを片手に階段を上る根性はなく、大人しくエレベータに乗る。ボタンを押しながら、去年はどうしただろうか、と考えてみた。よく憶えていなかった。

 エレベータの鏡を、見るともなしに眺める。相変わらずのTシャツとジーンズ姿だ。ただ髪が少し伸びたかもしれない。帰ったら切らなければ。――ああ、帰る、のか。昔は、あのワンルームは帰る場所ではなかったのだが。

 いつものタイミングでドアが開き、がらがらと荷物を引きずって外に出た。廊下をまっすぐに進んだ先の、突きあたりの角部屋の前。下宿ではなく実家の鍵を求めてポケットを探った途端、唐突に目的の扉が開いた。

 ひょっこりと顔を出した銀縁眼鏡。

 眼が合った瞬間、相手が頓狂な声をあげた。――椋次だった。

「あ」

 肩越しに、母の顔が見える。二人揃って切れ長の眼を丸くしているところはなかなかの見ものだった。けれど自分も多分、同じような顔をしているのだろうと思う。

「あら、お帰り」

「ただいま。……お前、なにしてんだよ」

 母に応えて、椋次に眼をやる。ラフな白いTシャツと紺色のジャージ。いつも通りといえばいつも通りの格好ではあったが、いきなりそんな姿を見せられると問うてみたくもなる。

「ちょっと走りにね」

「こんな時間にか」

 わざとらしくにやりと笑う弟に、大袈裟な呆れ声を投げる。正確には、呆れたふりをした。かれこれ中学時代からの習慣だ。コースまでずっと同じである。去年帰省したときにも走っていたのだから、今年も今晩も走っているに決まっている。この大袈裟な反応は、ある種の儀式なのかもしれない。

 椋次が、なぜか心持ち得意げに言った。

「多忙な社会人のジョギングは夜更けと相場が決まってる」

「……よく言うな」

「お前もパソコンばっかりいじってたらなまるぜ」

「煩いな」

 脇を抜けて玄関に入ろうとすると、当の椋次の声が追ってきた。

「せっかくだし来いよ」

「は?」

「走りに」

 振り向くと、椋次は相変わらずにやにやと企み顔をしていた。よくもここまで自分と違った表情が作れるものだ、と半ば感心してしまう。椎名には、あんな不気味な笑顔は作れない――多分。

「この大荷物引きずって里帰りした俺をいきなり走らせる気か」

「大したことないだろ」

「面倒臭い」

「なまったか兄上」

 茶々を入れられ、椎名はわざと露骨に不機嫌そうな顔をしてみせた。作ろうと思って作れるのはこの手の表情くらいだ。

 断る、と言おうとしたが、それも馬鹿にされそうで癪に障った。周りなどどうでも良いと言っておきながら、似たような顔の人間に挑発されるとつい意地になる。そんな性格を解った上での一言に違いなかった。そこまで読めていても反撃できない自分が嫌になる。

 不機嫌な表情を貼りつけたまま、椋次の笑みを見る。罠に掛かった自分を恨めしく思いながら、椎名は自棄になって舌打ちをした。

「……待ってろ、荷物だけ置いてくる」

「流石」

 軽口と口笛が飛んでくる。スニーカーを脱ぎにかかると、今度は母が呆れ顔でこちらを見下ろしていた。白髪が見えないのは染めたのだろうか。

「揃いも揃ってよくやるわね……疲れてないの?」

「疲れてるに決まってる」

「社会人にはそれくらいの非日常が必要だ」

 溜息交じりの椎名の声に、椋次の台詞が重なる。最近椋次のテンションが高い、という判断は、あながち外れているわけでもなさそうだった。普段なら、帰ってきたばかりの椎名をジョギングに引きずりこむことなどまずしない。少なくとも、椎名のよく知る椋次はそうだった。この一年で、相原椋次の「普段」に重大な変化が起こっていたのなら話は別だけれど。

 群青色のスリッパをつっかけてキャリーケースを持ち上げたところで、椋次が思いだしたように声をかけてきた。

「そうだ、椎名」

「……今度はなんだ」

「お帰り」

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