七 「貴方には、どこまで記憶がありますか」

 刀を振り上げた。

 名前も忘れた男を滅多斬りにした。身体を衝き動かしていた恐怖が、快楽にすり替わる。恐ろしいから斬っているのか。愉しいから斬っているのか。守るためか。壊すためか。保身か快楽か。判断できない錯乱の中で吼えた。もうどうでも良くなっていた。血塗れになりながら、叫び声をあげてまだ斬った。近づいてきた胡蝶を――来るな――袈裟掛けに斬り裂いた。いつの間にか隣に佇んでいた常磐を――来るな――眼を見開いた狭霧を――来るな――叩き斬った。誰かの鮮血が噴き出した。何度も何度も。そのうち消えてしかるべき魂の死骸が、真っ赤な肉塊となったまま積まれていく。刀の血糊もスーツに染みた返り血も頬に飛んだ血飛沫も消えない。斬りつづけても頭痛は消えない。金属的な耳鳴りも止まない。消えない。止まない。どうして。全身に血を浴びて振り返ると鏡映しのポーカーフェイス。斬りかかるより早く、こちらに向けられた銀の短銃。銀縁眼鏡越しに紅い眼差し。知っている。知っている。――知らない。発砲するその瞬間まで銃口を凝視している。この眼は。誰だ。

 ――目が、覚めた。

 白い天井が眼に入る。

 身体がじっとりと湿っていた。反射的に見回すが、どこにも血痕はない。全身を濡らしていたのは、汗だった。スーツもネクタイも、直す気が失せるほどに激しく乱れている。頭痛も耳鳴りも、気づけばどこかに消えていた。そうかあの死体はもう消えてしまったのか、と安心しかけたところでかぶりを振った。――違う。そんなはずはない。

 なにが。あったのだろう。

「気がつきましたか」

 起き上がると、真正面に常磐が座っていた。一分の隙もなく着こなしたスーツ。きちんと締めた黒ネクタイ。一つにまとめた長髪。黒いくせに気配がないのもいつものこと。死神というならこの男こそその呼び名に相応しいのではないか。

 景色をようやく認識する。執務室、らしかった。ローテーブルを挟んで二つ据えられたソファの、片方に椎名、向かい合って常磐。いつの間にこんなところで眠っていたのだろうか。狭霧はどこに居るのだろう。胡蝶は。

 ――なにが。起こったのだろう。

「俺、は……」

「どこまで憶えていますか」

 呟くと、常磐が無表情に問うてきた。なにかを知っているくせに、なにを知っているのかは悟らせない――いつも通りとはいえそんな顔つきにどきりとする。

「どこまで、って」

 問い返すと同時に思いだす。無意識に表情を変えたのか、常磐がひとつ、瞬きをした。

 ――平崎創一の魂を処理するために現世に行った。そして彼を見た。記憶が途切れた。最初に、刀を振り上げたその瞬間に。

「刀を」

 答えかけて口をつぐんだ。咄嗟に右手に視線を落とす。骨ばった手に、べっとりとこびりついた血の幻を見た。

 刀を振り上げて。

 それだけで終わったはずがないのだ。

 頭痛が。した。

 所業は右手が覚えている。

 右手だけではなかった。憶えている。刀を振り上げたことを。平崎創一を嬲り殺しにした映像を。獣のような叫び声を。肉を断ち斬った感触を。まるで傍観しているかのように。自分がしたはずなのに。身体は思い通りに動かなかった。そのうち立てなくなって座りこんだ。憶えている。操られているような。糸を引かれているような。そして糸を勝手に切られたような。――誰に?

 記憶は霞がかかっていて、けれど憶えているということは確かだった。

 背中に残った感触も。憶えている。背中に胡蝶がしがみついて、小さな手が乱れたスーツを掴んでいた。上着が乱れ、指が背中に食い込んだ。その痛みも。

 彼女は泣いていただろうか。泣いていなかったような気がする。泣けば、良かったのに。そのほうが、きっと楽なのに。

 椎名は、無言でソファに身体を沈めた。全身が恐ろしく疲労していた。

「いかがですか」

 常磐は硝子玉の瞳で椎名を見つめている。

「いかが、って」

 声までが疲れているような、気がした。

「あんたは全部知ってるんだろう」

「それは貴方も全て憶えているということですか」

 常磐の視線は微動だにしない。舌打ちをする余裕もなく、椎名は脱力するように頷いた。

「嬲り殺しにした」

 短く答えても、常磐の表情は変わらなかった。相変わらずの人形面だ。形の良い唇の片端が、椎名の眼の前でかすかにつりあがる。

「魂相手に殺すというのも可笑しな話ですけれどね」

「……俺は」

 視線を落とす。ソファの座面に投げ出された両手。力を入れようとしても巧くいかなかった。かすかに痙攣するだけだ。死に際みたいだ、と他人事のように思う。そして、ヴェール越しにしか憶えていない平崎創一の「死に様」を思う。吐き気がした。だが、吐き気を感じられる自分に安堵した。

 常磐は黙っている。椎名は俯いたまま、溜息とともにまた、言葉を吐きだした。

「俺は」

 完璧に取り返しのつかないことをした。

 それだけは解っていた。

 どうすべきなのだろうか。謝っても良いものなのだろうか。謝っても構わないとすれば、なにを。なにについて。誰に。平崎創一に土下座して、嬲り殺しにして申し訳ないとでも言えば良いのか。殺した相手は、とうに輪廻の輪に戻っているというのに。これでまた「葬儀屋」にトラウマを持つ魂を増やしてしまった、と自嘲的に考える。

 叫び声は憶えているのに、こちらに向いた恐怖の眼差しは憶えているのに、ひとりの人間の顔として、組み立てることができない。

「仕事は完遂したのですから、それほど問題はないでしょう。彼が現世から離れたことには違いない。……方法が残酷に過ぎたことは否めませんがね」

 淡々とした口調と事務的な言葉とは裏腹に、常磐の浮かべた表情は、どこか憐憫のそれに似ていた。それを憐憫だと感じた自分が嫌になった。

「どちらにしても済んだことです。ですから、まず自分の心配をしなさい」

「自分の?」

「例えば処分ですね」

 その二文字が、「始末」と結びついてしまった自分の連想を呪った。しかし、それもあながち外れてはいないのかもしれない。――脳裏にこびりついた惨状の記憶。あんな事態を引き起こすような「葬儀屋」は、「始末」を受けても文句は言えまい。

 それなら、罰されるなら、楽になれる、だろうか。楽にしてもらえるのだろうか。

 意味もなく、深呼吸をした。少しは落ち着くかもしれない。

「……どういう」

「平たく言えば謹慎です」

 覚悟の問いに、常磐はあっさりと答えた。そして椎名が拍子抜けする間もなく、狭霧と椎名を一時入れ替えるという意味のことを付け加えた。

 言葉の意味を測りかね、数秒沈黙する。

 気がついたときには、問い返していた。

「それだけか?」

 常磐はなにも言わず、困ったような微笑を浮かべて肩を竦めた。

「御偉方も、貴方の『始末』能力は惜しいと見えます」

 言って、唇だけで笑う。

 彼の台詞をもう一度咀嚼する。呑みこむと同時に、力が抜けた。

 それは。つまり椎名は、「葬儀屋」という組織から「始末」を期待されているということか。今回はただやりすぎたから、少し反省しろと――つまりはそういうことなのか。

 ――なにやってんだ、俺。

 自嘲するにも疲れすぎていた。

 本能じみた「衝動」に抗った。しかし屈した。忌まれていた。忌み嫌っていた。けれど克てなかった。だが組織の歯車として望まれていたのは、「衝動」のほうだった。

 ――どうしろっていうんだ。

「要するに、貴方にはまだ働いていただかないといけないということです」

 椎名の胸中を見透かしたように言い、常磐は少し身を屈めた。そこで初めて、硝子テーブルの上に分厚い書類が載っていることに気づく。放っておいてくれ、と叫びかけたが今の椎名に拒否権はない。

 常磐が書類の束を手に取る。ばさり、と、紙の擦れる音がいやに大きく聞こえた。

「貴方には、どこまで記憶がありますか」

 紙束を無造作に抱えて、常磐が言葉を投げてくる。椎名は咄嗟に視線を逸らした。視線の先には、黒いファイルがぎっしりと詰まった書架がある。どれもこれもが、かつて現世に留まっていた魂の記録。

「……もう言っただろう」

「いえ、生前の記憶です」

「あるわけがない」

「そうでしょうか」

 常磐は静かに穏やかに、挑発じみた台詞を吐いた。

 椎名は横目だけで彼を見た。常磐は相変わらず、整った顔に謎めいた微笑を浮かべている。

 操られるように、先を促す。

「どういうことだ」

「僕は、貴方を時雨という名で呼ぶつもりでした」

 唐突な言葉。

 頭が麻痺してきた。常磐の声には鎮静作用でもあるのだろうか。

「死後名は、無作為に決められます。貴方の場合は時雨と決められていたということです。……けれど貴方は自ら、椎名と固有名を名乗りましたね」

 ――椎名。俺は、椎名だ。

 常磐の眼がじっとこちらを見ている。

「なぜです」

 息苦しくなった。呼吸などしていないくせに。頭痛がした。消えたはずなのに。

 一度は受け入れたはずのことを、なぜ今さら掘り返そうとする。

「……知らない」

「そこですよ」

 間髪入れずに常磐が斬りこんだ。

「貴方は知りすぎていると同時に知らなさすぎる。その歪みを持て余した結果の――これではないですか」

 ソファの脇に、長い刀。

 椎名の手に馴染みきった日本刀。

 見てはいけないと、視界に入れることを避けていた凶器。紛うことなき椎名の「相棒」。

 黒い鞘。握り慣れた柄。

「……歪み」

 椎名は刀を眺めながら呟いた。歪みというなら、椎名がこの刀と共に現れた時点で、なにもかも既に歪んでいたのではないのか。初めから――狂っていたのではないのか。椎名という魂がなのか、椎名の運命とやらがなのか、狂気の主体は判らなかったけれど。

 目の前で、常磐がこちらに掌を見せた。三本の指を折り、人差し指と中指だけを立てて無表情に宣告する。

「選択肢は二つです」

 椎名は彼の指を見ている。女のような、白い華奢な手だった。こいつだって銃を握るくせに。

「すべて知るか、すべてなかったことにするか」

 常磐の台詞を聞いている。

「知っているものを知らなかったことにはできませんから、後者はつまり、死です」

 知るとはつまり、「衝動」の正体を見極めるということ。なかったことにするとは、「衝動」の前に屈すること。

 いっそ死んでしまおうか、と、とても気軽に思った。どうせもう死んでいるのだから。あの惨状を繰り返すよりは、消滅に走ったほうが確かに楽だろう。

「いずれにせよそれを飼い慣らさないと、貴方自身、もう耐えられなくなっているのではありませんか」

 久しく向けられたことのない、穏やかな台詞と声音。彼が自分を気遣っているように聞こえたのは、気のせいだっただろうか。――まだ働けと組織の意志を代弁するくせに、部下を気遣うような真似をする。どちらもある意味では常磐の本心であり、どちらもが建前なのだろう。幻影ファントムめ、と、椎名は口には出さずに毒づいた。そう思うと、死んでたまるか、という気にもなってくるから可笑しなものだと思う。

 ――思ったよりしぶといな。

 血濡れの悪夢を見て疲弊しても、まだ好戦的な部分が残っていたことを少し意外に思った。

「知る、って」

「少し特例を認めるだけです」

 気がつくと問うていて、常磐の返答も済んでいた。

 常磐は再び謎めいた笑みを浮かべたが、すぐに真顔に戻る。そして、抱えていた書類に視線を落とした。距離があるせいで、なにが書いてあるのかは見えなかった。ただ写真が貼ってあるのは見てとれる。誰だろう――と眼を凝らしかけたとき、常磐のほうから答えを言ってきた。

「貴方の生前データです」

 声音が躊躇っているように聞こえたのは。それは仮面だろうか。それとも本心だろうか。

「生前?」

 眉をひそめると、常磐はいつもの微笑でゆっくりと頷いた。今日はいやに饒舌だ。――常磐の口数が多いときには、大抵碌なことがないのだけれど。

「班長には班員の生前データが渡されます。なにかが起こったときに対応できるように……そして、変な仕事を回して不必要な刺激を与えないように」

 生前の記憶は「葬儀屋」から抹消されているとはいえ、それを不必要に刺激する事態は避けなければならない。例えば、火事で死んだ「葬儀屋」を火事場に向かわせることはできるだけ避ける。殺人事件の被害者となった「葬儀屋」に、殺人者の相手はさせない。病死や自殺は数が多いためにその限りでもないようだが、いずれにせよ、下手に刺激をして、「葬儀屋」に生前の記憶を蘇らせるのは危険以外の何物でもないのだ。肉体を持たない魂は、感情の揺らぎ一つで簡単に崩壊してしまう――それは椎名自身が証明済みだった。そしてそれを防ぐために、班長を始めとした管理職には、直属の部下の生前データを閲覧する権限が与えられる。――そんなことを、説明したようだった。第三班長の肩書は、それなりの権限を有しているらしい。死者のプライバシーを詮索するのが仕事なら、仕事に従事する死者自身も、プライバシーなどという言葉とは無縁のようだった。本人も知らないはずの情報に、個人情報保護が適用されるのかどうかは判らないが。

 常磐の言葉を聞きながら、椎名は、胡蝶を迎える前日の出来事を思い返していた。あの日彼が抱えていた分厚い書類は、椎名に初めの一枚だけを見せてくれたあの書類は、それでは胡蝶の生前データということになるのだろうか。

 ――こいつは。

 ――俺のこともあいつのことも知ってやがる。

 いま常磐の手の中にあるのは、他ならぬ椎名の生前データだった。

 再び書類に視線を落としてから、常磐は続けた。細い指が書類を繰っていく。

「これは貴方についての情報ですから、第三者である僕にとっては大して害はありません。そもそも僕は既に読んでいます。しかし、貴方が読むにはリスクが伴います。受け入れられればそれで良し、しかし、できなければ崩壊」

「……逝かせ遅れか」

「あるいは」

 椎名がぼそりと呟くと、常磐は静かに告げた。薄い笑みを、唇に残したままで。

「死のほうが楽かもしれません」

 椎名は黙って常磐を見ていた。

 ――逝かせ遅れ。

 自分で口にしておきながら、暗澹たる思いに囚われる。

 逝かせ遅れ――あるいは影。感情に凝り固まり、姿を失くした魂のなれの果て。感情のケモノ。一歩間違えれば、椎名自ら、あの暗い影に姿を変えることになるのだという。けれどそもそも「葬儀屋」などよりも、逝かせ遅れの影のほうが椎名の本質には近いのかもしれなかった。「衝動」に左右されるような出来損ないの魂に、カウンセラーを務める余裕などないのだから。

 頭の片側が重く痛んだ。

 常磐の抱える書類を見る。眼を凝らすと頭痛が酷くなるような気がしたが、構わなかった。幸か不幸か、頭痛にも吐き気にも慣れてしまった。

 ――殺しやがった。

 誰かの叫びが蘇る。誰の声だっただろう。聞いたことがあるはずなのだけれど。

 あの分厚い紙束に眼を通せば、それも明らかになるのだろうか。

 頭の中でぐるぐると回る。血濡れの情景。それは、いつの? 刀が突き立てられた平崎創一か。悪夢で見た胡蝶か。それとも、暗闇の中の? 斬り刻まれたのは血みどろの魂だけではなかったはずだ。

 ――胸を押さえた手が赤い。

 頭が。痛い。

 椎名は常磐の手元を見ている。分厚い紙の束を見つめている。ノイズのかかった映像が、時折脳裏に閃いた。

 もし読めばどうなるだろう。生前データを全て読みきったらどうなるだろう。

 ――黒い血が滴る。

 消されたはずの記憶は、なぜか中途半端にこびりついて残っていた。目の前の生前データは、それを補完する役割を果たすだろう。補完する――それだけだ。穴を埋められた記憶をどう扱うか、それは椎名次第。あるいは、その記憶を扱うことができるかどうか。そんなものを、抱えることができるのかどうか。

 ――倒れた青年を抱き起こしたのは、誰だったか。

 いずれ消え失せるのは同じことだ、と、冷めた声が呟いた。書類を読まねば「衝動」に呑まれて崩壊する。書類を読めば、記憶に耐えきれず崩壊する。「衝動」や記憶に打ち克つという選択肢はなかった。少なくともあの惨状を思う限り、事態は決してそんな生温いものではない。

 ――眼光ばかりが強い。

 読まずにこのまま「自殺」を選ぶか。読んで影と化すか。愉快な二択だ。冗談にならないくらい深刻な二択でもあるけれど。すべてを知らずにいることを、幸福ととるか理不尽ととるか。

 ――殺しやがった。

 なにを選ぶ。

 耳の奥に胡蝶の絶叫を聞いて、椎名は目を閉じた。今まで数えきれないほど泣かせてきた気がする。涙も出ない叫び声は、ある意味では泣き声よりずっと重かった。その胡蝶でさえ斬って捨てた悪夢を思い出した。吐き気がする。

 もうたくさんだ、と思った。

 あんな悪夢は。

 ――こちらを向いているその顔は、――誰だっただろうか。

 どうせ消え失せるなら知ってしまったほうが良い、と、椎名の中で誰かが囁いた。知るだけ無駄ではないか、と誰かが囁いた。

 ――知っている。倒れている顔も、屈みこんでいるその顔も。知っているのに思いだせない。ノイズの向こう側。消された記憶の向こう側。どうせ消え失せるなら。いずれにせよ消滅するなら。

 やがて椎名は呟いた。

「読む」

 ――例え影と化したとしても。

 常磐は、書類を繰る手を止めた。顔をあげて、紅い眼でじっとこちらを見る。硝子玉のような眼。椎名は力なく彼を見返した。力はなかったが視線は外さなかった。

「それ、読むよ」

 視線だけで書類を示す。常磐は一瞬手元を見、また無表情に椎名を見た。そして静かに問うた。

「後悔しませんね」

「今更なにを悔いろっていうんだ。……影になったらちゃんと『始末』してくれよ」

 強いて軽口を叩くと、常磐は微笑して応えた。

「無論です」

 笑っているのは口元だけだ。単なる軽口で終わるとは限らないと、相手もきちんと解っているらしい。この頭痛も幻覚も感じていないくせに、全てを理解したような顔でいる上司が腹立たしくもあり、また恐ろしくもあった。

 銃の腕は良いから信用しても良いだろう、と頭のどこかで思う。まさかこの人形を信用する日が来るとは思いもしなかった。

 常磐は書類を両手で揃え、もう一度、ひたと椎名を見た。

 椎名は常磐を見返した。疲れた眼だということは自分でも解っていたが、それでもかつての相棒を見つめた。

 やがて滑らかな動作で、右腕が分厚い紙の束を差しだしてきた。

「どうぞ」

 腕の主は、表情ひとつ変えなかった。だが読みにくい表情の裏には、もっと複雑ななにかが隠されているのだろう。

 ――ごめん。

 片手を伸ばして書類を受け取りながら、口には出さずに呟いた。常磐の手を離れた紙の束は、ずしりと重かった。

 書類の右上に、写真が貼ってある。いつも扱う書類と同じ形式だった。写真があり、名前があり、死亡日と時刻があり、死の状況が詳細に記される。現世を彷徨う魂と、「葬儀屋」になる魂とは、書類の上では同列に扱われるらしかった。ただ、手元の書類には「未練」の記載がなく、代わりに小さな死後名欄が設けてある。明朝体で記された「時雨」の文字が二重線で消され、代わりに常磐の流麗な字で「椎名」と書かれていた。

 椎名は改めて、写真の青年を見下ろした。見上げてくるのは無表情な自分の顔。切れ長の黒い眼。ラフなTシャツ姿。自分は生前も今と同じ顔をしていたらしいということが、まず初めの小さな発見だった。違うのは眼の色だけだ。

 ――これが俺だ。

 強いて見ないようにしていた姓名欄に、そろりと視線をやった。


 相原椎名。


 それが。彼の名だった。

 誰かの――自分の?――声がその名を呼んでいる。

 常磐がじっとこちらを見つめている。彼の台詞が蘇る。――けれど貴方は自ら、椎名と固有名を名乗りましたね。

 知らない。そんなことは知らなかった。

 強い眩暈を感じながら、椎名は紙をめくった。

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