八‐二 「殺しやがった」

  マンションを出て、小学校と中学校とを回ると、巧い具合に一周して家に戻ることができる。だからそこが、椋次のジョギングコースだった。中学高校時代は椎名も一緒になって走っていたのだが、家を出てからは道を歩きもしていない。椎名にとっては久しぶりに走る道だったが、大して懐かしくもならないのが不思議だった。それだけ、身に染みついた未知なのだろう。

 それにしても、重度の面倒臭がりであるはずの自分が、ジョギングなどよく続いたものだと思う。椋次に引きずられていたせいだろうか。他人の影響というのは存外侮れないものだ。他人どころか双子の弟である。

 紺色のスニーカーが、規則正しくリズムを刻む。黒いTシャツにジーンズという格好で帰省したのも、ある意味なにかの縁かもしれなかった。これがもしシャツにネクタイという服装だったら、流石に椋次の挑発には乗らなかったはずだ。それも全て、椎名の無意識は予想していたのだろうか? ――まさか。

 少し先に、椋次の背中が見えた。数歩詰めればすぐに並べそうな距離だが、ペースを変えるほどのこともない。自分と同じサイズの背中を眺めながら、確かに体力が落ちたかもしれない、と思った。昔は同じようなリズムで並んで走っていたはずだ。

 心地良く感じられていたはずの風が、ねっとりと身体に纏わりついていた。暑さはまだもうしばらく居座り続けるらしい。夏が長くなったのは異常気象のせいだろうか。首筋に汗が染みだす。

 どちらも喋らない。自分の足音だけを聞いている。

 単調な音が心地良かった。

 小さな信号が赤に変わり、椋次が律儀に止まる。ただ足踏みは止めなかった。そうしているうちに椎名が追いつき、久しぶりに横に並んだ。椎名のほうがわずかに背が高い、のは相変わらずらしい。この身長差はもう変わらないのだろう。昔、椋次が身体測定の結果を恨めしげに見比べていたことを思い出した。誤差の範囲だろうに。

「最近どうだよ」

 問うと、椋次が首を傾けてこちらを見る。ジョギング中くらい眼鏡を外せば良いのに、と思ったが、彼は頑なに眼鏡を掛けつづけていた。外すとなにも見えないがコンタクトレンズは嫌いだから、らしい。その気持ちは、解らないではない。

「お前こそどうなんだ」

 無造作に髪を掻きあげながら、椋次が逆に問うてきた。

「相変わらず、パソコンいじってるからなまって仕方ねえよ」

「いじけるなって」

 椋次が笑う。椎名もつられて笑った。

「お前は妙に機嫌が良いな」

「そうか?」

「彼女でもできたか」

 瞬間、足踏みのリズムが狂った。切れ長の目が丸くなっている。

 黒い車が一台、思いだしたように通りすぎた。

「……よく解ったな」

 真顔と台詞とに、椎名は思わず吹きだした。

「解りやすいんだよ」

 ささやかな優越を感じて、唇だけで笑ってみせる。椋次は呆れたように椎名を見つめている。なにか言いたげな眼つきをしていたが、椎名はなにも言わなかった。説明するのも面倒だ。

 はたと、信号が青に変わる。

 示しあわせるでもなく、二人は同時に走りだした。今度は同じリズムだった。

「職場?」

「いや、大学。でも最近」

 椋次の声が心なしか浮ついているような気がする。めでたい奴だ、と思ったが口には出さなかった。めでたい時期にはめでたい時期を満喫するのも悪くないだろう。それを観察するのは更に悪くない。

「大学ねえ」

「野郎だらけの理系大学とは違うんだよ」

「大学院だ」

 律儀に訂正すると、変わんねえよ、と笑われた。やはり機嫌が良いようだ。放っておいたら鼻歌でも歌いだしかねなかった。

「どんな?」

「大学のバイト仲間。優しい娘だよ。でも怒らせても可愛い」

惚気のろけるな」

「なんとでも言え」

 言って、なぜか心持ち胸を張ってみせる。もともと明るい性格だったが、ここまで浮かれているのは珍しいことだった。この機会にもう少し突っ込んだ質問をしてやろうか、と考えはじめたとき、不意に椋次が表情を曇らせたのが見えた。

「ただなー、若干面倒なことになってて」

「面倒?」

「元彼とやらがストーカーらしいんだよな」

 黙りこんだ。

 夜道に規則正しい足音が響く。灯りは、ぽつぽつと並んだ街灯と家々の窓。時折車の音が聞こえる。ヘッドライトとテールランプ。遠くを救急車のサイレンが掠めた。

「……そりゃ面倒だ」

 椎名は呟いた。それを言いたくて、わざわざ連れ出したのだろうか。部屋で膝を突きあわせてするような話でもないが、話してはみたかったのかもしれない。

 そろそろ小学校を通りすぎようとしていた。街灯が途切れて、椋次の顔が暗くなる。そのタイミングを待っていたかのように、彼は勝手に喋りだした。久野恵というのが、その彼女の名前らしかった。一年ほど前にはもう別れていたこと。今までは大人しくしていたが、恵が椋次と付き合いだして以来、ストーカー紛いの行動に走るようになったこと。自分の女を盗ったとでも思っているのか、椋次独りのときでもどこからともなく見ていることがある、こと――そんなことを、椋次は本気とも冗談ともつかないような軽い口調で言った。

 背後が気になった。

 振り返るのも躊躇われて、少しだけ速度を上げた。

 椋次がぴたりとついてくる。

「……犯罪じゃないのか、それ」

「さあな」

 別に気にしてねえよ、と、椋次は快活に笑ってみせた。

 椋次と自分の足音。規則正しい靴音に、別の音が混じってはいないかとつい耳をそばだてた。木の葉の擦れる音。車の通る音。

 汗が流れる。暦の上ではもう秋とはいえ、流石にまだ暑い。

「どーしたんだよ、椎名」

 椋次がこちらに視線を向ける。なんでもない、と、椎名は軽く頭を振った。気づけばまた椋次が少し前に出ている。

「心配でもしてくれてんのか」

「まさか」

 軽口を叩くと、厭な予感がすうと消え失せていった。所詮は他人事、と、どこかで思っているのだろう。弟とはいえ、他人の色恋沙汰に深入りすると碌な目に遭わない。

 首筋を汗が伝う。

 なぜか、ほんの少しだけ呼吸が乱れた。

「ま、なんとかなるだろ」

 椋次は涼しい顔で言って、空を見上げた。暗い夜空に点々と星灯りが見える。満天の星空を見て、蕁麻疹のようだと気味悪がった子供の話を思い出した。幸い、ここで見える星空など高が知れている。

 椋次が斜め前を走っている。体力の差が、微妙なものとはいえ兄弟の間に割って入っているようだった。疲れたまま走ったのではやはり分が悪い、と胸中で呟き、そんな言い訳がましいことを思ってしまった自分が悔しくなった。

 まっすぐに続く道は、もうじき中学校に差しかかろうとしていた。その道の途中に、自動販売機が一つ、煌々と光っている。中学時代には、部活帰りによく世話になった。

 ジーンズのポケットに突っ込んだ財布を、椎名は唐突に意識した。同時に喉の渇きを覚える。――人間とは巧くできているものだと思う。

「椋次」

 速度を落として呼びかけると、椋次が振り返った。眼鏡が街灯を反射して白く光る。縦にばかり長い身体は椎名と同じシルエットだ。

「ちょっと飲み物買うから先行ってろ」

 自動販売機を指さして言うと、また眼を丸くされた。思わずといった調子で進みを止めた椋次が、眼鏡越しにしげしげとこちらを眺めてくる。呆れているような、戸惑っているような、面白がっているような眼。

「……お前ほんとになまったんじゃねえの」

「長旅だったって言ってるだろ」

「長旅って単語は初耳だ」

「煩いな。すぐ行くから先に行っとけって」

 追い払うように手を振ると、椋次がやれやれとばかりに肩を竦めた。そのままくるりと背中を向けて、今までと同じペースで走りだす。振り返ることすらしない、潔いまでの走りぶりだった。

 椎名は溜息をつくと、財布を引っ張りだしてスポーツドリンクを買った。がこん、という音が、暗闇に妙に大きく響く。例え辺りが無人でも、例え真夜中でも、ものが買えるというのは便利なものだと思う。ペットボトルを取りだすとそのまま蓋を開け、半分ほどを一気に喉に流しこんだ。いつの間にかだいぶ喉を渇かしていたらしい。喉の渇きと身体のなまり具合は関係があるのだろうか。考えかけたが途中でやめておいた。あまり考えると逆に落ち込んでしまいかねない。しかしそもそも、椎名はそれほど体力がないほうではないはずだ。むしろあるのではないかと思う。ただ、好きで毎日ジョギングをしている酔狂な男には劣るかもしれないというだけのことだ。――そこまで考えて、ふと苦笑した。むきになっている自分が可笑しかった。

 スポーツドリンクをもう一口だけ飲むと、蓋を閉めながら椋次の背中を追った。かなり離されてしまったようだが、追いつけないほどの距離ではない。それにしても、先に行けと言われたら絶対に待たないのが彼らしいといえば彼らしかった。行けと言ったのは確かに椎名だけれど。

 ペットボトルを片手に大股で走る。自分の足音が聞こえる。前を行く椋次のそれよりも、少しだけ速いペース。椎名が追ってきたことには気づいているだろうが、椋次は全くペースを変えなかった。そういうところだけは顔と同じくらいに似ている。

 薄暗い街路樹の陰に入り、椋次の姿がすっと暗くなる。もうすぐ脇道を通り過ぎようとしていた。目の前の背中が徐々に大きくなる。もう少し、あと数歩。

 不意に――脇道から人影。

 椋次が驚いてたたらを踏む。

 二つの影が重なった――ように見えた。

 そしてそのまま、止まる。

 椎名も立ちどまった。飛び出してきた男の顔が見える。太い眉の下に、暗闇でもそれと判るほどに血走った両眼。明るい色のTシャツに赤色が滲む。

 ――赤?

 椎名は呆然と視線を動かした。半袖のシャツから伸びた逞しい腕。椋次の胸の上に、男の拳が触れている。否、拳ではない。握っている。柄が見える。

 ――なんだ?

 椋次が眼を見開いて見ている。自分の胸元を。目の前の男を。ああ、こいつは今日こんな顔をしてばかりいる。

「てめ……」

「葬式だ」

 絞り出すような椋次の掠れ声に、低い呟きが重なった。勝ち誇ったような。嘲笑うような。

 男が拳を振り上げたように見えた。遠くの街灯を反射して鋭く鈍く煌めいた、あれは、――ナイフ?

 椋次が胸を押さえた。崩折れるまでの一瞬の間に、真っ赤に染まった手が見える。

 ――血だ。

 ぐしゃ、と音がした。ペットボトルが足元で潰れている。驚くほど近い位置で、男が顔を上げた。眼が合う。だが男の眼など見ていなかった。右手に血濡れのナイフ。暗い地面に黒い血が滴る。暗い地面に。前を走っていたはずの椋次が。

 ――今、なにが起こった?

「椋次」

 椎名は、呟いた。

 思い出したように一歩踏み出し、その場にしゃがみこむ。無意識に腕をさしだし、倒れた身体を抱き起こしていた。見た目は細いくせにいやに重い。椎名もそうなのだろうか。昔の記憶が蘇る。小学生の頃、一度だけ椋次を背負って帰ったことがあった。椋次が熱を出して早退せざるを得なくなった小学三年生の冬。両親は揃って不在だった。だから、椎名が彼を背負って帰った。あのときも、椋次は重かった。そういえばあの頃は、二人揃って小柄だったはずだ。いつの間に、こんなに縦にばかり長い身体になってしまったのだろう。

 男が後ずさる。椎名と椋次とを交互に見ている。一卵性双生児がそんなに珍しいのだろうか? ――否、この男にそうは映るまい。

「お前ら……なん、なんだ」

 上ずった声。

 椎名は無視した。椋次の顔だけを見下ろしていた。歪んだ顔。胸を強く押さえた手の隙間から、だらだらと紅いものが流れる。流れる。流れる。Tシャツの皺に滲みこんで広がっていく。

「椋次?」

 呟くように呼ぶと、椋次が薄目を開けたように見えた。眼が動いて斜め上を見た気がした。薄い唇が痙攣したように動いて、――それきり目を閉じた。

 シャツを掴んだ赤い右手から力が抜けた。

「椋次」

 呼んだ。

「救急車」

 反応はなかった。

 椎名は――弟を見つめていた。

 苦悶の表情は動かなかった。

 黙って、椋次の身体を地面に横たえる。立ちあがって振り返ると、血濡れのナイフを持った男が、怯えた顔で椎名を凝視していた。椋次の血に染まったナイフを、相手はこちらに向けた。ぎらぎらと。眼光ばかりが強い。

「来るな」

 椎名は虚ろな声で呟いた。

「渡さない」

 男は歪んだ声で断言した。

 話がまるで噛みあわない。噛みあわせるつもりもない。

 ナイフの切っ先が赤い。震えている。我を忘れた眼。たぶん椎名も、同じ眼をしている。

 椋次は――死んだ。

 唇が、なぜだか勝手に歪んだ。

「相原椋次……」

 椎名は囁いた。

「俺はだ」

 一歩。

 力の入らない足でふらりと歩み寄る。ひっ、と、引き攣ったような息の音が聞こえた。椋次を刺した男の。刺して。殺した男の。

 ――殺シテヤル。

「く……来るなあああアぁァ!」

 眼前で男が絶叫した。

 同時になにかが鋭く閃く。脇腹が――熱い? 違う。これは。

 痛みだ。

 悟ると同時に激痛が駆け巡った。全身から力が抜ける。脇腹が熱い。体内に食い込んだ刃ばかりが冷たい。ずるり、と抜けるとともに血が溢れだすのをはっきりと認識した。歯を食い縛ると同時に、肩にナイフが突き刺さる。掠れた声が喉から漏れた。相手の絶叫が絶え間なく耳を刺す。――なにを。俺がなにをしたというんだ。殺される。殺さレル。殺サレル――椋次のように?

 真っ赤に染まった視界の隅に椋次の手が見えた。身体に刃物が突きたてられるのを四度目まで認識したところで、椎名は意識を手放した。

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