九 「死にますか、生きますか」

 全身に激痛が走った。

 身体から血が噴きだすのをはっきりと感じる。ものを考える余裕などない。明確なのは、脳裏にこびりついた殺意だけ。

 ――殺してやる。

 身体など。動かないくせに。だが。殺さなければ。殺される。だから。違う。今は。

 ――殺してやる。

 目の前に長い日本刀。殺せ。殺せ。椋次は殺された。椋次が。俺が。だから。代わりに。剥き出しの衝動が無意識に焼きつく。紙の束が手を離れた。片手で刀を掴み鞘を払う。白い刃に映る紅い双眸。顔を上げて眼に飛びこんできた顔に、あの男を見る。殺さなければ。そうでなければ。殺される前に。ナイフを椋次に突き立てて引き抜いて血が溢れて殺して真っ赤な刃をこちらに向けて斬って刺して抉って真っ赤な痛みなど知らずに真っ赤に染め上げてぎらぎらとした眼をして突き立てて痛みの向こうに見えて血に染まっていく身体を見下ろして狂気の眼で殺したあの男を――殺シテヤル。

 刀が空を斬り裂いた。金属音。支えを失った書類が床に散らばった。跳ね返された刀を握りなおし手首を返す。見据えた先にはポーカーフェイス。紅い眼がこちらを見つめている。右手に銀色の銃。ヒトゴロシの道具。頭が熱くなる――殺さなければ。殺される。誰も彼も。殺せば良い。あんなことになど。ならない。刀を構え再び斬りかかる。殺せ。殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺セ殺セ殺殺

 ――違う、常磐じゃない!

「ああああアアァッ!」

 絶叫。再度、金属音。

 そして、――沈黙。

 肩が上下している。

 喘いでいることに、今更のように気がついた。なぜ。死人のくせに。酸素など必要ないくせに。

 苦しい。苦しい。頭痛の名残に吐き気がする。吐いてしまえば楽になるだろうか。なにか、吐くことができるだろうか。腹の奥に凝った黒いものを。

「気が済みましたか」

 頭上から、静かな常磐の声がした。俯いたままでその声を聞く。視界が揺らいでいる。床の上に、書類が散らばっている。その上に鞘が落ちている。それだけを見ている。紙の上に、今にも蠢きそうな黒い文字の羅列。

 椎名は、そろりと顔を上げた。刀の柄を握りしめた両手が震えている。すらりと伸びた白い刀身を眼で追うと、常磐の肩まで橋を架けているのが見えた。当の常磐はその刃を、銀色の銃で止めている。ソファに腰かけたままの、当たり前のような姿勢で。――この優男はいつの間に銃を抜いたのだろう。

 誰も斬っていない。

 急に力が抜けた。取り落としかけた日本刀を慌てて握りなおし、慎重に持ちあげる。床に落ちた鞘を拾い上げ、刀を元通り鞘に収めた。その時機を見計らってか、常磐は肩から銃を外し、細くついた刃の跡を指でつうと拭った。それからホルスターに仕舞いこみ、何事もなかったかのように脚を組む。

 椎名は力なく、ソファに座りこんだ。刀を掴んだままだったが、手放す気にもなれなかった。

「大丈夫ですか」

 常磐が平たい口調で問うてくる。椎名は散らばった書類を眺めながら、無言で頷いた。そして、書類に綴られていた過去の記憶を反芻する。

 四谷隼人――それがあの男の名なのだと、活字で知った――は、久野恵を相原椋次に奪われたものと思いこみ、彼を逆恨みした結果殺害を企てた。椋次に毎晩ジョギングの習慣があることを知り、それを利用することを思いついた。計画どおりに椋次を殺すことができたものの、偶然居合わせた椎名を見て錯乱し、彼をも滅多刺しにして殺害した。大方椋次の幽霊にでも見えたのだろう。――大丈夫だ。全部なぞっても、まだ正気でいる。

「一応」

「良いでしょう」

 掠れた声で呟くと、常磐が微笑した。その整いすぎた表情は、かつて椎名を殺した誰かのものとは似ても似つかない。そうだ。別人だ。別人――大丈夫だ。解っている。常磐を斬る理由などない。

 刀を握りしめたままの手に視線を落とすと、関節が白くなっていた。全身に汗を掻いていることに気づく。肌を濡らしているのは、血液であるはずがない。散乱した書類を、革靴を履いた足が踏みつけている。それをぼんやりと眺めながら、椎名は半ば放心して呟いた。

「あれが、俺」

 脇腹に激痛が走った。次いで肩。胸。喉。――解っている。そんなものは幻だ。目の前に居るのは常磐だ。絶叫しながらナイフを振りかざしたあの男ではない。違う。違うのだ。

 汗が止まらない。

 常磐は頷き、落ち着き払ったいつもの口調で言った。

「貴方の知りたかったことは総て書いてあったはずですよ」

 彼の声で、辛うじて正気へ引き戻す。あの男は。あの男は、こんな落ち着いた話しかたなどしなかった。もっと、どこかが外れたような眼をして錯乱した声を絞り出していた。だから――これは常磐だ。

 そうだな、と、椎名はおざなりに応えた。確かに、書類には総てが書かれていた。書かれていたことも、書かれていなかったことも、明らかになった。例えば、殺人衝動の正体も。月影との関係も。あの自殺現場で動揺した理由も。椎名が椎名と名乗れた理由も。或いは、仕事で数限りなく使ってきた口癖の正体も。どれもこれも全部。

 ――葬式だ。

 ――あんたの葬式、挙げにきたぜ。

 所詮は「相原椎名」なのだ。ただ、憶えていなかっただけ。知らなかっただけ。「椎名」はつまり「相原椎名」の死体で、記憶に束縛され翻弄される上澄みでしかない。

 つまり、そういうことだ。

 ――だからどうだっていうんだ。

 どうしようもなく疲弊していた。深く溜息をつくと、常磐の声が容赦なく滑りこんできた。

「気分はいかがです」

「最悪だ」

「総て明らかになったのに、ですか」

「だから、だよ」

 自分の声が喘いでいる。まだ本調子ではないらしいと遠くで思った。

 刀を離せない手を見つめながら考える。総て解ったとはいっても、それだけのことだ。「衝動」がこれで消えるわけでもあるまい。今後同じように「衝動」の発作を起こさないとも限らない。なにも変わっていない。得たものは結局、血塗れの幻が一つきり。それが喜ぶべきことなのか否か、今の椎名には判断がつかなかった。

「後悔していますか」

 ひび割れの隙間に入りこむような常磐の声は、心地良いようでもあり、不愉快でもあった。

「……判らない」

 曖昧に答えるのが精一杯だった。我ながら勝手な返答だと思う。自ら望んだ結末だというのに。

 目を閉じると、瞼の裏に椋次の顔が見えた。それとも月影だったのかもしれない。どちらでも同じことだ。瞼の裏が真っ赤に染まる前に目を開けたが、その瞬間、全身に突き刺すような痛みを覚えて思わず身体を折った。――吐きそうだ。汗が。止まらない。

 朦朧とする頭に。常磐の声が響く。

「とにかく、貴方は逝かせ遅れにならずに済んだようですね」

 逝かせ遅れ――魂のなれの果て。影。感情のカタマリ。生前の記憶に振り回され、常磐に斬りかかった椎名。自分と影との間に、どれだけの差があるというのだろう。

「……辛うじて、な」

「どうしますか」

 顔を上げて薄目を開けると、常磐の眼が見下ろしていた。無感動な硝子玉の眼だった。

「死にますか、生きますか」

 死人を相手に妙な二択もあったものだ、と思う。それ以外は空白だった。空白を痛みが埋めていた。思考できるだけの頭が残っていない。

 判らない、と掠れた声で呟くと、間髪入れずに常磐の声が飛んできた。

「逃げるんじゃありませんよ」

 椎名はなにも言わなかった。ただ身体を折って、歯を食い縛っていた。

「そのまま『死ぬ』なら、今は幸せです。楽になれますからね」

 だらだらと脂汗を流しながら、あるはずもない生前の痛みに耐えている。傷など一つもないくせに、刺すような痛みが全身を覆っている。常磐の声も容赦なく降ってくる。

「ただし次の輪廻で同じ記憶を抱えるでしょう。貴方が持て余した分だけ、同じような歪みが魂に焼きつく」

 瞼の裏に、血に塗れた自分の幻。椎名は無理に両眼をこじ開けた。白くなった両手にも着崩したスーツにも、血の一滴さえ付いていないことを確かめて僅かに安堵する。

「貴方に残った死の記憶は、消すことができません。貴方は、『椎名』であることと同様に、理不尽な死を受けた事実から逃れることはできない。鳩羽の魂に、貴方と『葬儀屋』への恐れが焼きついてしまったように」

 矢島輝彦の姿が蘇る。赤ん坊の口から迸る鳩羽の絶叫。耳を覆いたくなるようなそれを知りもしないで、常磐は淡々と続けた。

「もし『葬儀屋』を続けるつもりがあるのなら、記憶は飼い慣らさなければなりません」

「知ったことか」

 こみあげてきた苦いものを呑みこむかのように、殊更に突き放した物言いをした。それだけのことで喉に激痛が走る。ここも――刺されたのだ。

 喉に手を触れた。じっとりと汗ばんでいた。

「転生しようがどうしようが、それが貴方であることには変わりません。いずれどうにかしなければ、破壊衝動は追ってくる。どうにかしなければならないから――僕は貴方に生前データを見せたのですよ、椎名」

 言って常磐は、にっこりと笑ってみせた。場違いなほど穏やかな微笑だった。

 ――記憶は飼い慣らさなければなりません。

 最初からそのつもりだったのか、ということにようやく思い至り、椎名は小さく舌打ちをした。焼きついてしまった記憶は変わらない、いずれ飼い慣らさなければならない、というのなら、選択肢などないも同じことだ。

「幽霊の正体見たり、です」

「……どこが枯れ尾花だ」

 呟くと、常磐は脚を組みかえた。相変わらず、作り物のように整った所作だった。

「正体が判ったのは事実です。相手が判れば対処のしようもある」

「対処ってなんだよ」

「それは貴方の考えることです」

 苛立って問うと、平然とした答えが返ってきた。この男に訊いたのが間違いだったか。――対処など、してどうなるというのだ。問おうとした矢先、常磐が微笑を向けてくる。憫笑のような。微笑。

「少なくとも対処すれば、貴方は原形を留めることができます」

 ――しなければ、原形を留めることができない。暗に示されたその宣告に、一度は引いた汗が再び首筋を伝う。

「死人は現世に留まれません」

 思考が麻痺してくる。もやがかかっている。そうだ。この男は、饒舌なとき碌なことを言わない。

「死者を現世から切り離せば、半端な存在から解放される彼らにも、生死の掟にも都合が良い。しかし彼らにも彼らなりの理由があって、現世に留まっている。だから彼らの未練を断つことこそが必要になる。そして魂を捌くことが『葬儀屋』の仕事――彼らが現世に迷う理由を断つ、生死の番人」

 書類を読み上げるような。いつもの口調もどこかに消え失せた、無味乾燥な言葉の羅列。

 呆けたような椎名の眼を、常磐は瞬きもせずに見据えた。そして一語ずつ区切りながら問いかけてきた。

「貴方は、なにを迷っているのです」

「迷ってなんか」

 反射的に答えかけて、口をつぐんだ。

 刀を握ったままの手から、意識して力を抜いた。そうでもしないと手放せそうになかった。やっとのことで左手を離してから、呟く。

「……面倒なだけだ」

「なぜだと思います。貴方が、彼らのように迷っていないのは」

 常磐が畳みかける。

 椎名は視線を落とし、手を見た。関節の白い右手。まだ刀を握っている右手。左手で指を支えながら、一本ずつ外していく。人差し指。中指。震えているのは右手か左手か。指を一本外すたびに、刃の重みがのしかかる。

「知らない」

「貴方がとうに受け入れているからですよ」

 椎名は顔を上げた。

 整いすぎた能面のような白い顔が、微かに笑んでいた。

「なにを驚いているのです」

 表情同様に、微かな笑みを含んだ声。

 椎名はなにも言わずに見つめている。なにも考えられない。空っぽだ。

「言ったはずですよ。受け入れられなければ――貴方は既に逝かせ遅れと化して僕に撃たれているはずでした」

 常磐は、右手を握って銃の形を作った。その手を軽く持ちあげると、目を細めながら、人差し指の先を椎名に向けてくる。単純すぎる、似合いもしない子供騙し。

 椎名は尖った指の先を凝視する。撃たれる、と、そんな馬鹿な想像をした。

 ――殺さなければ、殺される。

 頭のどこかで誰かが言った。

 だが別の誰かは、この相手はそれをしないのだと確信していた。

 ――だから、殺さなくても良い。

 身じろぎもせずに見つめていると、常磐は、なぜか満足そうに手を下ろした。そして宣言した。

「貴方の魂は、記憶を受け入れました」

 ――受け入れた?

 椎名は常磐を見つめたままで反芻した。俯くと、ばらまかれたままの書類が散らばって見えた。生前データ。椎名という魂を形作り、「衝動」を膨れ上がらせた相原椎名の記憶。いつの間にか快楽と化してしまった、恐怖に根ざした殺人衝動の根源。

 ――まさか。

 あのとき自分を襲った感情の奔流。奔流に流されて、刀を握って振り上げて振り下ろして絶叫して、滅多刺しの激痛に襲われた。

 ――痛みはどこに行ったのだろう。

 椎名は、刀を硝子テーブルの上に置いた。ごとりと重い音がする。そのまま屈みこんで、散乱した書類を拾い集めた。時折、文字の中に埋もれて生者の名前がちらついた。相原椎名。相原椋次。

 書類を抱え、揃える。上下を整え、四辺を丁寧に揃えた。そしてそれを、テーブルの真ん中に置いた。顔を上げると、常磐が脚を組んで座っている。見たこともない種類の微笑を浮かべていた。

「ようこそ『葬儀屋』へ、――相原椎名」

 あのときと同じ台詞。違うのは名前だけ。

 椎名はしばらく沈黙した。

 そして呟いた。

「……詭弁家め」

 まるで、物解りの悪い死者を輪廻に還すときのような。そんな思いに囚われたが、むしろそのほうが楽だと感じていることに気がついた。

 刀を見やる。

「『始末』が絡む以上はこのままだ」

「いずれ解決します。貴方はどうやら、自分の無意識を受け入れられる器らしいですからね」

 褒めているつもりなのだろうか。よく判らない。椎名の判断を待つことなく、常磐はいつもの微笑で滔々と喋る。

「感情などどうとでも扱えます。……そうですね、敢えて言うなら下手な抑圧は避けたほうが良いでしょう。中途半端な抑圧は、また歪みを生むだけですから」

 ――あまり溜め込まないのがいちばん良い。

 誰かに向けた記憶のある台詞が、不意に耳の奥に蘇った。

 ――魂ってのは実体がないからな、感情の影響をまともに受ける。

 感情を自ら吐き出した少女に、かけた記憶のある言葉。理不尽な死を受け止めかねていた彼女は、感情を飼い慣らして解放された。

 同じだ、と思った。

 理不尽に殺され、湧きあがる殺意を抱え込んだ青年と。抗うことすら諦めて刀を手にした「葬儀屋」と。斬っても斬っても満たされなかった「衝動」――あのとき斬った影は、あるいは椎名自身ではなかったか。

 ――ほどほどに、正直になれよ。

 はにかんだような笑みを浮かべた少女の幻が、一度浮かんでゆっくりと消えた。

 掌に視線を落とす。ようやく刀を手放した右手には、まだ柄の跡が残っていた。椎名はそれを見つめている。そして考える――消せるだろうか、手に染みついたこの烙印を。

「相原椎名は、応えてくれそうですか」

 芝居がかった言葉で、常磐が穏やかに問うた。

 椎名は顔も上げなかった。

 ただ、小さく頷いた。

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