君 下 「次はどれくらい持つかしら」

「毎度自室から弾き出されるというのも面倒なものね」

 班室を横切って廊下に出ると、狭霧が腕を組んで壁にもたれていた。歩みを止めて、常磐は相棒の斜向かいに立つ。面倒だと言いながらも、彼女の表情はどこか楽しげだった。新刊小説でも手にしたような顔だ。

 執務室には二枚の扉がある。一方は班室に接し、もう一方は直接廊下に通じるものだ。班室を通って廊下に出た常磐を、狭霧は廊下側の扉の隣で待ち構えていたことになる。

 弾き出される――。

 そうだ。通常であれば常磐や狭霧が事務仕事を行うはずの執務室に、今は椎名が陣取っている。居るべき部屋を追われてしまえば、班長といえども手持ち無沙汰になるだけだ。

「合法的休憩時間と理解しておりますが」

「君らしいわ」

 狭霧が苦笑する。相槌代わりに笑みを返すと、狭霧がふいと背後を振り返った。視線の先には、執務室の扉。

「……さて、どうなるかしらね」

 ショートカットの隙間で、銀のピアスが揺れている。

「どう、とは」

「次はどれくらい持つかしら」

 気軽な口調で言って、狭霧は常磐を見た。紅い両眼は好奇心を覗かせている。常磐は――狭霧に入れかわり、苦笑を浮かべた。

「貴女のそんなところは嫌いではありませんけれどもね、僕は」

「死人に口なしっていうのは嘘っぱちですからね」

 好き放題言わせてもらうわ、と笑う様子は随分と楽しげだ。もしかしたら落ち着かないのかもしれない、とも思う。

 扉を見た。

 その向こうに、今は椎名が一人で立ち尽くしている。けれどもう間もなく、この部屋の中では新たな死者が生まれるはずだ。椎名の五人目の相棒となる、彼女が。

 椎名は、彼女をどんな顔で迎えるつもりなのだろう。

 四人目の相棒が椎名のもとから去っていったのは、死という不可抗力のためだった。しかしそうでなかったとしても、あの二人が長続きしていたかどうかは怪しいものだ。少なくとも普通の死人にとって、刀を扱い殺人衝動を抱える長身の男というのは、恐怖や忌避の対象以外の何者でもない。四人目も、その例に漏れなかった。恐らく、彼は輪廻に還らなかったとしても、遠からず椎名との組の解消を訴えでてきただろう。

 もう限界だ。

 椎名が殺人衝動を抱える「化け物」であることも知れ渡ってしまった。職場の異なる情報局員までもが知っているというのだから始末に負えない。彼が密かに零度の鎮魂歌ゼロ・レクイエムと呼ばれていることも、常磐はその二つ名の付きはじめから知っていた。知っていながら、何人かの相棒を椎名にあてがってきた。しかしそれももう限界だ。これ以上、事情を知る者を彼の相棒に据えるには無理がある。

 だから、次に新人が来たときには、その死者を椎名につけようと決めていた。まっさらの新人ならなにかが変わるのではないかと、そんな幻想めいた期待も抱いていた。あんな少女ならなおのこと。自分にしては随分と夢見がちな判断だと、そういえば狭霧に笑われたか。

 彼女の顔を思い出した。書類に貼られた生前の顔だ。

「正反対だからこそ、ということもあります。……僕は彼女に期待していますよ」

 扉を見ながら独り言めかして言うと、狭霧が視界の隅で少し眉を上げた。

「彼女は辛いんじゃないかしら」

「そうかもしれませんね」

 試すような言葉をそのまま受け流す。相棒が肩を竦めたのが見えた。やっぱり、とでも言いたげだ。

「君は極端ね」

 狭霧を見た。理知的な眼が、観察するように常磐の眼を捉えている。形の良い唇から、矢継ぎ早の問いが歌うように飛んでくる。

「椎名に肩入れしてるの? 椎名で遊んでるの? それとも全員駒扱いしてるのかしら」

 狭霧は微笑んでいる。どこか凄味のある笑み――と言ってしまうと、彼女は怒るだろうか。

 穏やかに、見慣れた眼を見返す。

「……鋭い女性は嫌いではありません」

「はぐらかすのは下手なのね」

 笑顔の相槌には応えなかった。ただにこりと笑みを返し、行きましょうか、と呼びかけて彼女の前を通りすぎる。

「廊下で聞き耳というのも野暮ですから」

「了解」

 軽い返事は背中で聞いた。


 執務室にもやが浮いている。

 二人掛けのソファの真ん中に身を沈め、椎名はぼうとそれを眺めていた。硝子テーブルを挟んだ向こう側に、淡い色の靄が浮かんでいる。それが少しずつ形を成しつつある。初めはただ、その部分に陽が射してでもいるのだろうかと思ったが、そういうわけでもないらしい。自分が初めてこの世界に現れたときにも、こんなまどろこしい過程を経ていたのだろうか。そのとき常磐は、どんな眼で椎名の靄を見ていたのだろう。なにを思って、新たな死者を迎え入れたのだろう。

 靄は次第に色を濃くする。

 不定形のそれは煮つめたように濃く凝こごり、いつの間にか人の形を成す。長い髪とタイトスカートが、その正体が女性であることを告げている。そして椎名の予備知識は、彼女が少女だということを知っていた。それにしても随分と小柄な少女だ。並んで立てばかなりの身長差になるだろう。――並ぶ? そんな局面が果たして訪れ得るのだろうか。

 靄が色づく。肌色に、白に、黒に、そして恐らく、紅色にも。

 指を自分の瞼に触れていることに気がついた。瞼の裏に球体の感触。――そうだ。この眼は、紅いのだ。

 靄はやがて靄という名を失いつつあった。それはれっきとした固体だ。あるいは、死者としての個体だ。「葬儀屋」が現世からこちら側に戻ってくるときと同じ経過。ためらい戸惑うようなスローペースであるということだけが、いつもとは違う。自分はこんな調子でこちら側に戻ってくるのかと、今更ながらに感心した。戻ってくる同僚の姿をまじまじと見つめたことなどない。

 靄と呼ぶべき対象は既に消えていた。

 代わりに一人、小柄な少女が佇んでいる。

 大きな窓を背負い、逆光に喪服が浮かび上がる。壁を埋めた書架は、黒いファイルが更に埋め尽くす。黒々とした圧迫感の中で、その少女はいやに自然体だった。

 当たり前のように、存在している。

 もうとうに、死んでいるくせに。

 ――ゆるりと眠たげに、彼女は瞼を開いた。

 椎名は立ち上がることもせず、彼女を見上げている。高校生、くらいだろうか。見ようによってはもっと幼くも見える。ブラックスーツも同色のネクタイも、率直に言って似合っていなかった。着るなら制服のブレザーのほうがお似合いだ。顔立ちが幼く見えるのは、丸い瞳のせいだろうか。その眼は、「葬儀屋」の証明たる紅色だ。

 少女の紅い眼が不思議そうに自分を眺めていることに、椎名はようやく気がついた。

「ああ、……ようこそ」

 口をついて出たのは、至極常識的な挨拶の言葉だった。あの日の常磐が掛けてきたのと同じ。そんな言葉を使用語彙として蓄えていたのかと、その事実を少しだけ意外に思う。

 少女が、微かに首を傾げた。右を向いてはファイルに埋まった書架を見、左を向いては班室に続く扉を――あの扉の向こうに班室があるということを、彼女が知っているはずはないのだが――見る。そして小さく、呟いた。

「……ここ、は」

「『葬儀屋』」

 短く答えると、彼女はまた椎名を見る。反射的に眼を逸らした。真正面から眼を見られることには、慣れていない。

「あの世に行けない死人の世話番だ。……死んだくせに現世に残ってる魂をなだめすかして、現世から引き剥がすのが仕事」

 臙脂のソファの座面を見ながら棒読みで告げる。あの日の常磐の言葉をなぞっている自分に戸惑う。常磐の説明のほうが、もっと懇切丁寧であったはずだけれど。

「仕事……あたし、の?」

 焦点の合わない呟きが返ってくる。たぶん疑問を差し挟めるほどに、まだ自我ができていないのだろう。身体は形を持っても、意識がはっきりとするのはもうしばらく後のことだ。眠りから覚めたばかりのような、微睡まどろみのような感覚を憶えている。椎名が常磐との邂逅を果たしたのは随分と前のはずだが、その感覚が今、生々しく蘇ってくるようだった。

 彼女を見ずに、椎名は黙って頷いた。

「あんたは一応俺の相棒ってことになってるらしい」

 取ってつけたような言葉だと、自分でも思う。彼女のことを、相棒だとは認識していないのだろう。自己紹介もしなければ、宜しくの一言も口にできなかった。ただ一刻も早く、この場から立ち去ってしまいたい。同一空間に他人と二人きりであるという状況に、これ以上耐えられる気がしない。どうせそう長くは付き合えるはずもない死人だ。こんな子供ならなおのこと、椎名と居ることに耐えられないはずだから。

「……あの」

「胡蝶」

「え?」

 おずおずと声を掛けてきた彼女に、思い出したような一言を投げた。

「あんたの名前だ」

 言って立ち上がる。もう充分だろう。彼女は無事「葬儀屋」として二度目の生を受け、相棒たる椎名との邂逅も果たされた。常磐はどこでなにをしているのだろう。あの男も、居場所を占領されたままではなにかと不便なはずだ。

 班室に続く扉を見遣ったところで、少女が予想外に大きな声を上げた。

「……あの!」

 思わず振り返る。

 ロングヘアの小柄な少女が、真っ直ぐな眼で椎名を見据えていた。小さな両手を落ち着かなげに組んではいるが、こちらを見る眼はひたむきだった。――やめろ。そんな眼で見るんじゃない。

「名前」

「名前?」

「……なんて、呼んだら良いですか」

 先程の大声はどこへやら、後悔するようなか細い声で問うてくる。

 椎名は彼女を見つめた。問いの意味を理解できなかった。彼女の名は胡蝶だと教えてやったはずだ。ここに現れる死者は、誰も自分の名を知らない。生前の名も記憶も全てリセットされ、空白の状態で喪服を着せられる。だからそれぞれに、一般名詞の死後名をつけられる――。彼女は蝶の名を与えられた。椎名はそれを告げた。それだけの話だ。

 彼女が訊いているのは自分の名なのだという、それだけのことに気づくまでに、随分と時間がかかった。

 紅い眼が、椎名を見ている。眼を逸らすという選択肢など持っていないかのように、見続けている。

 零度の鎮魂歌ゼロ・レクイエムと答えてやろうか、と、ほんの一瞬だけ思った。たぶんそちらのほうが、対外的には通りが良いはずだ。

 けれど少女の眼を見てやめた。

「椎名」

 一言。

 椎名は彼女の眼を見て名乗った。

 彼女が安心したように肩を下ろす。

「……椎名、さん?」

「さん付けはやめろ」

 忌避とともに発されてきた名に、敬称をつけられるいわれはない。

 彼女はほんの一瞬小首を傾げ、再び口を開いた。

「椎名、……君?」

「君?」

 問い返す。――初めて聞く響きだった。そんなに軽々しく、この名を口にする者など居ない。

 見上げる少女の眼が、また不安げに揺れた。

「……駄目ですか」

「いや、……好きにしろ」

 戸惑っていたのは椎名のほうだっただろうか。それを隠すように、ついでに敬語もやめろと付け加える。敬体は嫌いだ。常磐のせいかもしれないけれど。

 少女が頷くのを待たず、椎名は班室へ続く扉へ向かった。胡蝶が一拍遅れてついてくる足音を、背中で聞く。耳慣れないパンプスの足音だった。

 この足音はどれくらいで途切れるだろうか。いつも通りの煩わしさと、いつもと違う、座りの悪いような違和感を抱えながら、椎名はドアノブを握る。



≪終≫

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