傷と痕 1/5 「また切ったの」
【時系列:本編終盤~終了後 / 本編+番外編「machigaisagashi」読了後推奨】
痛い、と思ったときには既に遅かった。
反射的に右手の人差し指を見る。切るような痛み。否、事実切ったのだ。指の腹を押さえると、一拍遅れて赤く直線が滲んだ。一日中紙の束を扱っているせいで、よく指を切る。誰でもそうなのだろうと思っていたが、一度
赤い直線。その端に、やがて小さく球が滲む。流れるまでには至らず、傷口に留まりつづけている。瞳と同じ、紅。
傷を眺めた。紙の端で切っただけだ。大して深くはない。深くはないし、大した痛みでもない。が――痛いものは、痛いのだ。それは主張である。ここは切れている、傷になっている、負傷しているのだと。痛みの知覚は生存に欠かせない。
死んでいる、というのに。
死者にとって、傷の存在感というものは薄い。そもそも死者の姿かたちは、死んだときの姿に固定されているのだ。ただ、必ずしも死んだその瞬間の姿というわけではないらしい。例えば列車事故で死んだ魂も、現世を彷徨うときには五体満足であるという。ならば死者本人が自覚している自分の姿、とでもいうのか。もっとも、それをつぶさに検証した者はいないので、正確なところは誰も知らない。誰も知らないのだが――確実に言えることはある。一度魂の姿で目を覚ましたら、その瞬間から姿を変えることはないのだ。髪も爪も伸びない。もっと言えば、髪を切っても元の長さまで伸びてくる。さながら呪いの人形のように。
この傷も、元に戻る。治癒ではない。巻き戻しだ。傷が治るのと同じくらいの時間を掛けて、ゆっくりと時間を逆走していく。傷が治るのと、傷が消えるのと、眼で見るだけなら差は無いのかもしれない。けれど起こっている事象は大違いなのだ。治癒とは、先へ進むことだ。傷の発生した時点から、傷を修復して、傷を塞いで、負傷する前と変わらない姿を再構築することだ。死者の傷は違う。傷の無かった時点へ戻ることだ。先へ進むことはない。できないのだ。死者はいくら姿を変えようとしても、死んだその時点へと引き戻される。
死者の傷は、どこまでつけたら致命傷となり得るのだろう。死者が自我を保てなくなるまで――だろうか。
玻璃は、かぶりを振った。
やめよう。きっとこの先はろくでもない場所にしか行き着かない。結論とも呼べないような、思考の墓場だ。
しいて意識を逸らそうと、玻璃は抽斗を開けた。絆創膏は、常に手に取りやすい場所に入れてある。そういう習慣ができてしまう程度には、頻繁に指を切っていた。
「また切ったの」
音で気づいたのか、隣から淡雪が声を掛けてきた。彼女にとっても見慣れた光景になっているらしい。これは、玻璃にとっては不名誉なことだと解釈すれば良いのだろうか。
「うん、切ったみたいだ」
苦笑のかたちをつくる。淡雪が、玻璃の指先を一瞥する。たぶん呆れているのだろうなと思った。
「気をつけてよ」
「もうちょっと心配してくれても良いんじゃない」
「書類汚さないでね」
そうじゃなくて。
「絆創膏貼ったら出掛けるよ」
「打ち合わせ通り、で、良いんだよね」
「勿論」
記憶を辿ってそう返すと、淡雪は頷いた。長い黒髪がさらりと動く。顔よりもよほど表情豊かだ、と間の抜けたことを考えた。
「上書きしてくれているままで、還す」
髪の向こうの横顔は、努めてそうしているかのように事務的だった。
死者はときに未練を残す。そして現世に留まる。だが、既に生を終えた者に、現世での居場所は無い。
彷徨う魂を、在るべき輪廻へ還すのもまた、死者の役割である。
黒髪紅眼にブラックスーツの「葬儀屋」――それが、玻璃と淡雪が与えられた役割だった。
ヒトへの執着はなんとでもなるが、モノへの執着は案外に扱いづらいものだ。
ヒトに対する執着のほうが、宥めすかして言いくるめる言葉が届きやすい。人の心は当人にしか解らないからだ。だから第三者が捏造して代弁を装うことも可能だし、それは時に、説得の手段として有効に作用する。例えば、彼はあなたを恨んでなどいない――などと。だがモノとなるとそうはいかない。モノはモノ、厳然たる現物でないと認められない、ことが多いのだ。けれど既に生者の世界から弾き出された死者は、生者のモノに触れることができない。見えても触れられない。映像を見ているのと同じことだ。
だから。モノへの執着は、モノ以外で埋めなければならない。慎重に上書きして、塗り替えてしまわなければならない。死者本人が、それに気づく前に。
百貨店の入口で人混みを眺めている女を認め、玻璃はそんなことを考えていた。
ちらりと相棒を見る。淡雪も冷めた眼で玻璃を見返した。しばし紅い眼を見て、――ついと、淡雪のほうが先に逸らした。そしてそのまま、一歩を踏み出す。女のほうへ。
「お困りですか」
いつものことだが、死者相手には驚くほど穏やかな声音を遣う死人だ。
女が驚いたように顔を上げた。先刻書類で見た顔だ。潔いショートカット。色白の肌に真っ赤な口紅。玻璃は束の間、上司のひとりを思い出した。きっとこの死者も、彼女と同じように、きりりとスーツを着こなすのだろう。
その唇が震えて、そして言葉を零した。
「……どちらさまですか」
「あなたと同じです」
人形めいた微笑み、を、女が見ている。
「……そんなこと言われても」
「あなたと同じように、とっくに死んだ者なので」
遮るように継いだ淡雪の身体を、生者が何食わぬ顔で通り抜けた。ああ、これは演出としてなかなか良いタイミングだったな。
「どうしてまだこんなところに居るのか、お伺いしたく」
女の眼はもう揺れていなかった。ただじっと、淡雪を見つめていた。そして思い出したように呟いた。
「私の眼も紅いんですか」
「ああ、それは、違います。わたしたちのこれは、なんというか、目印みたいなものですよ」
淡雪はだんだん上司に似てきたな、と思った。これは別の上司のことだ。――ならば自分も、上司の真似事をすることにしよう。
蚊帳の外から不意打ちで声を掛けた。
「中に、入らないんですか」
玻璃の存在に初めて気がついたのだろう。死者の視線がこちらを向く。当惑したそれを絡めとって、気軽な口調で継いだ。
「宝飾品フロアは五階ですよ」
彼女は眼を見開いて硬直した。玻璃はわざとらしく、首を傾げた。
「仕上がってはいますが、まだ誰も引き取ってはいません。でもきっと、誰かが気づいてくれるでしょう。預かりものですからね」
「……なんで」
「死者のことは死者のほうがよく解るものです」
彼女は玻璃を見ている。追い打ちをかけるように、今度は淡雪が刺した。
「あなたはどうしてここに留まっているんですか、木下紗弥さん」
「私は」
「百貨店の、ジュエリーショップに、用事があったのではないですか」
「私……母の」
うわごとのように、紗弥は応じた。
「母の」
そう。母の。
「母のリングを引き取りたかったんです」
「お母さまの?」
そう。母の。それで良い。
「母の形見のリング、サイズを直したくて……誰か」
くしゃり、と、泣き笑いに顔が歪んだ。
「誰か取りに行って……私の骨壺にでも入れてくれないかなぁ、って」
死者が、一人と二人佇んでいる。生者は誰一人として気づかずに、その傍を通りすぎ、ときどき掠め、あるいは真正面からぶつかるように通り抜けていく。
彼女のリングは、主から離れて五階で眠っている。ここより少し、空に近い場所で。
「お母さんに、ごめんねって言わなくちゃ」
「大丈夫、解ってくれますよ」
ひどく優しく、淡雪は微笑んだ。
「だってモノより気持ち、でしょう?」
悲しそうに、切なそうに、紗弥も微笑する。その隙間に押し込むように、淡雪は囁いた。
「サイズを直してまで、あなたはリングを大切に身につけようとした、ということです。さあ――早く、お母さまに会いに行かなくちゃ」
会って、伝えなくちゃ。
その囁きに掻き消されてしまうかのような危うさで、紗弥はふうと眼を閉じた。そして、輪郭から空気に溶けて、身体を透かして、やがて霞のように――消えた。
居なくなった。
木下紗弥は、現世を去った。
突然、耳に現世の喧騒が飛び込んでくる。足音、店内放送、会話、笑い声、会話、人の声。聴覚がまともに機能していなかったことに、玻璃はようやく気がついた。そして――ジャケットに隠していた銀の銃から、手を離した。
息を、つく。
「お疲れさま」
「無事に済んで良かった」
どちらからともなく、労った。緊張を強いられていたのは、玻璃も淡雪も同じだった。
ご都合主義の物語のようにことが進んだのは――ひとえに、彼女が逃げたからだ。木下紗弥は、彼女の物語から逃げた。無意識に自分を騙そうとしていたからだ。その「騙し」に、他者たる玻璃と淡雪が便乗したからだ。
――逆恨みの末に部下から撲殺された、などという傷は、未練として抱えるにも大きすぎる。
だから上書きした。引き取れなかった形見のリングで。
もしも彼女が「本来」の未練を思い出していたなら、暴走の恐れがあった。そうなればただ、撃つだけだ。撃って爆ぜさせて、強制的にでも輪廻の中へ送り込むだけだ。
だから後援として、得物から手を離さなかった。
それだけのこと。
「……無事に手放せたなら、良かった」
淡雪がもう一度、噛みしめるように呟いた。手放したのか押し殺したのかは判らない、と玻璃は思ったが、口には出さなかった。どちらにしても推測でしかない。
リングのひとつも連れてはいけない。輪廻には、自分の気持ちしか抱えていけないのだ。その自我とて、いつまで保てるかはわからない。誰にも。それならばなるべく、可能な限り穏やかに。仮にそれが子供騙しだったとしても。せめて輪廻に還るその一瞬だけ、穏やかさを取り戻すことができれば。
触れられないならば。あるいは消し去れないならば。意識を逸らすしか――ないだろう。
死者は死んだらそれで終わりで、もうその先に進むことはできないのだ。否、そこから先に進もうとすればするほど――思い知らされる。なにがあっても、死んだ時点まで巻き戻るだけなのだと。傷のひとつもつけられないくらいに。
――傷を得た記憶は残るのにな。
それを悟らせないために、死者を還すのだ。
玻璃はそう思うようになった。
「帰ろう、淡雪」
――なのにどうして、傷を増やすような真似をするのだろう。
同僚のことを、考えてしまった。長身痩躯、言葉を交わしたことも無い、けれど異様な存在感だけを誇示している男。
結びついてしまった。
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