傷と痕 2/5 「どこまでの傷なら、元に戻れるんでしょう?」
同じ班に、長身の男がいた。玻璃が「葬儀屋」となったときには既に居たような気がするのだが、そのあたりははっきりしない。同じ部屋にデスクがあるという以外に関わりなど無かったし、しいて関わるつもりもなかった。たぶん第三班全員が同じ意見だろう。なにせ、快楽殺人者の呼び名をほしいままにしている死人である。生者も死者も、人殺しを忌避する感覚は同じなのだ。自分たちだって影は撃つけれど、好きで撃っている者など居ないと思う。それを愉しんで自ら求めていくとなれば、異常者の烙印を捺してやるには充分だ。
その殺人鬼の姿を、最近見なくなっていた。別に眼で追っていたわけではない。ただそういえば、班室のいちばん奥に違和感があった。彼の定位置であったそこに、そうだ、なぜか、当たり前のような顔で上司の一人が座っていた。すらりとした長身の美人が。彼女が童顔の少女と組んでいるさまは、それと気づいてしまえばいやに目を惹いた。容姿は似ていないのに、姉妹のように見えたせいかもしれない。
淡雪にふとその話をしてみたら、一拍挟んで眉を顰められた。
――玻璃、まさか知らないの?
――現世で惨殺事件起こして謹慎中なんだって。
惨殺。
惨く、傷を、――つけたのか。
――執務室に篭らされてるって話だよ。
玻璃は口を噤んだ。その心中を察したかのように、淡雪が視線を逸らす。しかし逸らしたその眼は、ふと班室の入口に吸い寄せられていった。玻璃もつられてそちらを見やる。見てしまってから、吸い寄せられた理由を悟った。
入口から班室内へ、小波のように広がる違和感。
その違和感の始点に、長身痩躯が佇んでいた。
――ああ。
――あいつ。
――戻ってきた。
切れ長の眼が、入口からぼんやりと班室を見まわしていた。その眼が玻璃を掠め、そのまま離れた。やがて一点を捉えて止まる。そこに誰が居るのか、考えるまでもなかった。
やがて、長い脚が一歩を踏み出した。玻璃の隣を素通りした。身体がこわばったような気がしたが、たぶん気のせいだろう。――傷。傷をつけた男だ。
細長い後姿がまっすぐ歩いて、右に曲がる。窓際のデスクの手前で止まったところで、玻璃はようやく眼を逸らした。それ以上見てはいけない気がした。声を聞いてはいけない気がした。けれど、視界から追い出したら余計に、その横顔が離れなくなった。
憑き物の落ちたような顔だった。
さっぱりした、とは言い難い。生まれ変わったような、とも違う。背負ったものを失って、その軽さに当惑しているような――そうだ、死者たちが輪廻に還る直前のような、顔。
なぜ。
死者は変われないのに。まして傷をつけた側なのに。そこまで歪んでいるのに。抱えた傷は治癒などせず、死んだ時点まで巻き戻るだけなのに。その傷をまるで――治したとでもいうのか。まるで生者みたいに、先に進んだというのか。
――傷を持っているのに?
治るわけがない。巻き戻るだけだ。傷は表面上、無かったことになる。けれど傷を得た事実は、確かに刻み込まれているのだ。死者といえども人間で、人間は記憶する。それは――それでは、いずれ暴発するのではないか。騙されているだけではないのか。誰が? 誰に?
上司の姿を思い浮かべた。いつも柔和な笑みを浮かべた、それでいて人形じみた存在感の男。
玻璃は首を回して、執務室を盗み見た。
あの執務室で。
傷が治癒されたとでもいうのか。
死人のくせに。有り得ない。
あの殺人鬼が上司によってあそこに篭らされていたのだとして――そこで、なにがあったのだろう。
「――り、玻璃、玻璃ってば」
名を呼ばれた。そうだ、それが自分の名だった。
我に返った。声のほうを見た。淡雪と眼が合った。その眼が揺れていて、珍しいな、と思う。そういえば声も揺れていた。
「どうしたの」
問い返しながら、考える。もう随分前のことなのに。なぜ思い出していたのだろう。随分、とは、どのくらい前だっただろうか。今はいつだっただろうか。
「どうしたのじゃないよ、最近おかしいよ」
おかしい、だなんて。自分はいつも通りだ。死者が傷を抱えていることだって変わらない。巻き戻って、傷だらけで、そんなことは死者が死者になったときからずっと同じなのだ。
「……別に、僕はずっとこうだよ」
「そんなこと」
言いかけて、――淡雪が口を噤む。そして眼がずれる。どうしたのだろう、と彼女の視線を追って――その先で、人形と眼が合った。精巧な人形のような、整いすぎた顔。上司だった。
「常磐さん」
呟いたのは、玻璃だった。覇気の無い声だな、と自分で思った。
常磐の表情は変わらなかった。ただの、つくりもののような無表情。紅い瞳が玻璃を見ている。見ているのか。観察しているのか。とうに見透かしているのか。
常磐は、眼を、逸らした。そして淡雪に微笑みかけた。――玻璃は肩のこわばりを解いた。
「少し席を外します」
「え? あ、はい」
「書類のまとまる頃でしょうからね。留守では急ぎ損でしょう」
ゆっくりで構いませんよ、と付け足して、常磐は音もなく去っていった。班室から出ていった。
留守か――と、思った。
執務室に、誰もいない。
――あそこでなにがあったというのだろう。
「淡雪」
玻璃は緩慢に、立ち上がった。
相棒を見る。紅い眼がすいと玻璃を追って、こちらを見上げる。長い黒髪は微動だにしない。
「玻璃?」
「すぐ戻るよ」
「え? ちょっと、玻璃」
淡雪の声を背中で聞きながら、玻璃はふらりと班室の外に出た。熱に浮かされたような気分だった。廊下の空気が冷えていて心地良い。まっすぐ数歩を歩いたその先。執務室が持つ二枚の扉、その廊下に面した一枚。
玻璃はなんの躊躇いもなく、執務室の扉を、開けた。
扉は音も無く開いた。窓の手前に大きなデスク。硝子テーブルと、ソファセット。そして壁を埋めた書架と、書架を埋めた黒いファイル。
確かに誰も――居なかった。常磐も。狭霧も。居ない。
玻璃は室内に足を踏み入れた。そして後ろ手に扉を閉めた。鍵を掛けたのが意識的なことだったかどうかは判らなかった。
随分と凪いだ気分だった。
ソファを見下ろす。ここに入るときには、大抵このソファセットだけで用事が完結する。それ以外の場所に手を触れたことはない。考えたことも無い。ならばきっと、手を触れたことのない場所にこそなにかがあるだろう――と、思った。顔を上げると、視界が黒いファイルで埋まった――否、壁一面にファイルが並んでいるのだ。
誘われるように、ファイルの一冊に指を掛けた。ぱらり、とめくってみると、履歴書然とした書類が綴じられている。考えるまでもない。日々飽きるほど眺めている、死者の一代記。未練をもって現世に留まったがゆえに、そのすべてを情報局に明かされて、管理局に届けられる死者の情報。ある者は真顔で、ある者は微笑で、またある者は虚ろな眼でこちらを眺めている、死者の写真。それが詰まった黒いファイル。
玻璃はファイルを閉じた。そして元の場所に仕舞った。別のファイルに指を掛けて引っ張り出し――同じようにめくって、そして固まった。
始末許可、の、押印。
逃げるようにページを繰る。始末許可。始末許可。始末許可――。
玻璃はばたりとファイルを閉じた。そして元の場所に仕舞った。なんだか手が震えて、それだけの作業に苦戦した。呼吸が荒い。自分はなぜ呼吸などしているのだろう。
――始末。
傷つけるだけでは飽き足らず、存在を破壊してしまうのだ。死者自身が、自分の存在を確信できないほど完膚なきまでに。暴走した感情の塊などに、もはや居場所は無い。自我まで壊して、輪廻へ押し込むだけ。どうせ、転生したら自我など消え失せるのだから同じこと。
ファイルが、書架が、無数の死者が、自分を監視しているような錯覚。
玻璃は後ずさった。ソファの肘掛けにぶつかって体勢を崩しそうになった。辺りを見回す。窓越しの外光が眩しい。その前に、デスクが二台。片方は狭霧の。片方は、常磐の。常磐のデスクはどちら側だっただろうか。
――僕はなにをしにきたんだっけ。
そう思ったのと、デスクの抽斗に手を掛けたのが同時だった。だがその理性は呆気無く霧散した。抽斗の中の写真と眼が合った。知っている顔だった。
「椎名……」
そうだ。あの快楽殺人者は、そんな名前だった。そしてこんな顔だった。けれど記憶と少しだけ違う。両眼が黒いし喪服を着ていない。そしてなぜか、苗字がついている。相原椎名。
――生前。だ。
思い至った瞬間頭に血が上った。書類の束を掴んで取り出した。束。そうだ。束になるほどの情報量。
魅入られるように紙の束をめくった。――相原椎名。彼の名前。双子の兄弟。弟は逆恨みに遭い刺殺され、彼自身もその弟と見間違えられたため同時に刺殺され、のちに管理局員となる。一方双子の弟は情報局員となる。
――情報局員?
嗚呼。聞いたことがある。情報局員に、彼によく似た男が居るという噂――。
玻璃は。
書類を掴んだまま、立ち尽くしていた。
傷だらけじゃないか。そんな。刺されて。身体じゅう傷だらけで死んでおいて。その傷を殺意と一緒に刻み付けられて。そんなものを抱えておいて。いくら忘れても傷は無意識に残るのだ。そんな死人がまともであるはずがない。現にまともではないではないか。暴発させて、惨殺事件を起こしたという、それがなによりの証拠ではないか。それなら椎名だけではない。同じく刺殺された情報局員とて、同じではないか。
――あいつは。あいつらは。
――やばい。絶対に。
傷は戻らないのだ。巻き戻って、なかったことにされても、治癒することなどない。巻き戻される分だけ厄介だ。傷を負ったことを忘れてしまう。玻璃だって、今までに何度指を切ったか覚えていないのだ。
――あれは駄目だ。
書類を、抽斗に戻す――指に痛みが走った。慣れた傷み。束ねた書類のいちばん上、虚ろな眼をした椎名の履歴書。嗚呼、切った。斬られたのだ。傷を。
玻璃は乱暴に抽斗を閉めた。そして逃げるように執務室を後にした。
どうやって自席に戻ったのかは覚えていなかった。気がついたら目の前に淡雪が居て、玻璃は彼女を見下ろしていて、何事もなかったかのように声を掛けていた。
「お待たせ、行こう」
淡雪が玻璃を見上げている。いつもなら待ち構えていたように立ち上がるのに、今日に限って座ったまま動こうともしない。引き結んだ唇、観察するような眼差し。やがて彼女は、眉を顰めたままで口を開いた。
「玻璃。……ちょっと、休んでからにしよう」
「どうして」
「顔が真っ青だよ」
言われて今度は玻璃が眉を顰めた。顔色、だなんて。死者なんだから、顔色が良いほうがおかしいではないか。そんなことより、早く仕事をしなければ。現世に留まる魂を、引き剝がさなければ。早く。
淡雪の机上に揃えられた書類を見た。中年男の写真。書類は読んだはずだが、内容はよく覚えていなかった。ただ、なぜだか署名欄に吸い寄せられる。この書類を書き起こした死者の名前――月影。ああ、もう、それは、きっと駄目だ。でも、名前は覚えておかないと不便だ。猪狩則夫、そうだ、そんな名前だった。それは、覚えておこう。
「行こう淡雪、早くしないと」
有無を言わせず現世へ向かう。意識がぐいと向こう側へ遠ざかる。待って、と、淡雪の声が掻き消すように聞こえなくなる。きっとすぐに追ってくるだろう――。
どくどくどくどくどくどくどく、なぜか心臓の音が、やたらと煩い。
葬式をしていた。
読経の声が聞こえる。参列者が座っている。こんなに喪服だらけだったら自分たちも浮かなくて良いな、と、焼香の列を眺めながら思った。仕事柄葬式を眺める機会は多いが、何度聞いても読経は聞き取れない。
そしてその葬式の場でいちばん浮いているのは、大抵当の本人だ。
席のいちばん後ろに佇んでいる紺色のシャツの男――の真横に佇んで、玻璃は声を掛けた。
「猪狩則夫さんですか」
男が驚いたようにこちらを見て眼を丸くする。突然隣に人が現れて、自分に声を掛けてきたとなれば、死人でなくても驚くだろう。
「……は」
「貴方はどうして死んだんですか」
「玻璃!」
淡雪の咎めるような声。彼女は少し離れたところからこちらを見ていた。そんなところに座標を取らなくても。もっと近くに来たら良いのに。なのにこちらに歩いてくることもない。
玻璃は淡雪を無視した。猪狩に向き直り、にこり、と笑ってみせる。そして有無を言わせず問う。
「猪狩則夫さん、貴方はどうして死んだんですか」
猪狩は戸惑ったように玻璃を見ている。そして掠れた声で、問われるままに一言だけ答えた。
「……心筋梗塞」
「ああ、なるほど」
玻璃はそれを聞いて、得心した。心筋梗塞――心筋細胞の壊死。それは。身体が内側から蝕まれるということだ。傷だ。傷に喰われたのだ。
低い読経が聞こえる。そんなもの、なににもなりはしないのに。しょーけんごーおんかいくーどーいっさいくーやく。
淡雪は、離れた壁際でこちらを凝視している。止めたいならこちらに来れば良いのに。唇を引き結んで、こちらを凝視するばかりだ。無視して玻璃は猪狩を見た。紺色のシャツと灰色のスラックス。小綺麗に整えたその身も、内側から傷を抱えて壊れていった。
「僕、知りたいことがあるんです」
そうだ。傷を抱えたら壊れるのだ。それなら傷を抱えた者はすべて壊れるのではないか。それは。危険ではないか。魂に傷を抱え込むなどと。
あれは。あの二人は。傷そのものだ。放っておいたら暴発するのだ。壊れるのだ。
「死者っていうのは傷だらけなんです」
眼の前の男がこちらを凝視している。どうしてそんな、硬い顔をしているのだろう。相槌くらい打ってくれても良いじゃないか。
「どこまでの傷なら、元に戻れるんでしょう?」
玻璃は右手を目の前に掲げた。先刻書類で切った傷は、もう綺麗に消えていた。いつもより治るのが早いな。違う、治るんじゃないな。これは。巻き戻るだけ。僕は傷の存在を覚えているし、痛みも記憶している。けれど小さな傷だから、簡単に戻ってしまうのだ。戻れる傷なのだ、この程度なら。もう少し深く切ったときだって大丈夫だった。でもきっと、例えば銃で撃った傷は致命傷になる。死者を強制的に輪廻に押し込むのに使うくらいだから。死人に致命傷というのもおかしな話だけれど。でも例えば、撃ったのが手だけなら? 爪先だけなら?
「戻れなくなる境目は、どこにあるんでしょうね?」
笑ってみた。けれど、随分と粘着質な笑みになったような気がした。にたァり。
猪狩がひゅっと息を呑んだ。呼吸なんて無駄なのに。その心臓は、もう、傷に喰われて壊れている。だからこうして、玻璃と話をしているのではないか。
傷に喰われて最後は壊れるのだ――。その瞬間。
掲げた右手の指先の、切り傷がついたまさにその場所が、じわり、と、黒く滲んだ。――黒?
嗚呼、これは。
影だ。
感情に凝り固まって自我を失った死者のなれの果て。
じわりじわり、切り傷から侵食されていく。
「……っは」
それは決壊だった。
「あはははははははははははははははははは」
読経を割るような笑い声が響き渡った。
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