五‐一 「あの世に逝けない死人の世話番だ」

「どんな気分なのかな」

 会話の途切れた半端な沈黙を、胡蝶がふと破った。

「死んでもあっちに居続けるって」

 彼女の視線は依然、書類に注がれている。親子で「葬儀屋」の世話になる人間は居ないわけではなかったが、若い母親と赤ん坊というレベルになると流石に稀だった。だがそこで、まだ小さいのに、若いのに、気の毒だ――などという感傷が湧かないのは、死人を見慣れてしまった「葬儀屋」の職業病なのかもしれない。

 胡蝶の机の左端。椎名からもよく見える位置で、若い母親が虚空を見つめていた。その下に隠れるように、赤ん坊の写真がある。一歳にも満たない赤ん坊の証明写真というのは、見ようによってはかなり不気味だった。

 母の名は矢島和歌子、赤ん坊の名は矢島輝彦。

 黙っていると、胡蝶が顔を上げた。神妙な表情だった。

「あたしたちだって、死んでるのか死んでないのか判んないし充分中途半端じゃない。でも、死んで魂のまま現世に残るのってもっと中途半端でしょう」

「……いきなりどうしたんだ」

 突拍子もないことを突然言い出すのはいつものことだったが、未だ慣れずにいる。

「これ見てたら、いろいろ考えちゃって。……よくわかんないんだよね」

 胡蝶は言葉を濁したまま、細い指で矢島和歌子の書類を示した。現世残留理由欄――未練を示すはずの欄内に、「不明」と二文字だけが浮かんでいる。びっしりと埋められた欄を見慣れている眼にとっては、かなり異様な眺めだった。先刻までの議題はもっぱらそれだった。曰く、情報局の怠慢か、嫌がらせか、それとも魂がただの馬鹿なのか、云々。まともな考えが浮かばないわけでもなかったが、未練がないというのが異様な状況であることには変わりない。よく解らないというのなら正にその通りだが、彼女が言うのはそういうことではないらしかった。

「死ぬって、すっきりすることなんじゃないかなって思ってたのに、死んだ人はみんなぼーっとしてもやもやしてるように見えるんだ」

 それは、「葬儀屋」ではなく胡蝶個人の、とりとめもない感慨の一片だった。まるで自分が死人ではないかのような口振り。

 柄にもなく相槌を打ったのは、続きが気になってしまったせいなのだろう。

「中途半端だからもやもやしてるんだろ」

「そんなにすっきり割り切れるものじゃないから、今更どうにもできないことだから、未練って言うんじゃないのかな」

 指先が、「現世残留理由」の上を滑る。真面目な眼つきで、彼女は書類の文字を追っていた。

「この人だって、子供さんと一緒に亡くなったんでしょ。それで輝彦君と一緒に現世に居る。子供とずっと一緒に居られるのはそれはそれで幸せなのかもしれないけど、お母さんにとってはやっぱりもやもやしてて、苦しいのかな」

 椎名に語りかけているつもりなのか、それとも独り言なのか。

「でもそれは母親が望んだものかもしれないんだぜ」

 椎名はわざと、揺さぶった。有り得ないと理解しながら。

 子供に執着するのなら、未練として記載されるはず。その点、怠慢でもない限り情報局員に手抜かりはないはずだった。少なくとも矢島和歌子の主観としては――深層意識まで含めても――現世に留まる理由はない、ということになる。では輝彦はどうかといえば、ただ一言、恐怖、という文字が書いてあるだけだった。恐怖の対象も程度も判らない。幼すぎて分析不可能というのが本音だろう、とは想像がついた。まさか情報局員も、自我も定まらぬような赤ん坊が自分の意志で現世に留まりつづけるなどという状況は想定していなかったに違いない。

「だから考えてたんだ」

 胡蝶はなんともいえない表情で首を傾げ、また椎名を見上げる。

「例え中途半端でも子供と一緒に居られたら幸せだから、だから和歌子さんには未練なんてないのかなって」

「どうだかな」

 脚を組みなおし、椎名は二人分の書類に手を伸ばす。未練の記載が少ないぶん、いつもより枚数が少なかった。――胡蝶の解釈は、矢島和歌子の現世滞在ならば説明できるのかもしれないが、矢島輝彦については依然謎のままだ。

 ふう、と胡蝶が疲れたように息をつく。それから大袈裟な身振りでうんと伸びをした。いつの間にか、いつもの表情に戻っていた。

「あーあ、慣れないこと考えるもんじゃないな」

「……どういう風の吹きまわしだ」

「狭霧さんがね」

 書類を斜め読みしながら応えると、上司の名前が返ってきた。

「書類貰いにいったとき、矢島和歌子さんと輝彦君のセットがいちばん上にあったんだけど……それちらっと見て微妙な顔してたから。だから気になっちゃって」

「狭霧が?」

「常磐さんは奥のほうで別の仕事してたよ。だから狭霧さんとしか話してない」

 大方、狭霧の思考をなぞろうとしたところで脱線してしまった、というところだろう。

 胡蝶が書類に手を伸ばす。矢島和歌子のものではなく、また別の魂のものだ。受け取ってきたばかりの書類はまだ山と積まれている。

 狭霧か、と思いながら、椎名は和歌子の写真に目を落とした。長い髪をひとつにまとめて縁無しの眼鏡をかけた、どこにでも居そうな若い母親だった。二十九歳。狭霧もそのくらいの年齢かもしれないが、確証はなかった。本人も正確に把握してはいないだろうし、わざわざ話題に上らせるようなことでもない。

 同年代に見えたから、彼女は和歌子に反応したのだろうか。だが常磐の相棒ともあろう女が、それしきのことで感情を動かされるようなことがあるだろうか。

 考えても無意味だ。

「この親子、どうしちゃったんだろうね」

「さあな」

 胡蝶を見もせずに、椎名は口先だけで応じた。和歌子の書類をずらすと、赤ん坊の写真が見える。ぱっちりと驚いたように見開かれた眼が、こちらを見ていた。どこかで見たことがあるような――気のせいか。

「だが、矢島和歌子に特筆するような未練がないっていうのは……確かに不自然ではある」

 振り払うように呟いて、椎名は胡蝶に、出かけるか、と呼びかけた。


 薄い花の香を視線で追うと、二つ三つ重ねられた花束が目についた。四つ辻と花束と、かすかに残る血痕。取ってつけたように設置された立て看板が、事故の目撃者を探していた。ありふれた交通事故の現場だ。携帯電話を片手に右折しようとした車が、子供を抱いた若い母親と衝突したのはつい先日のことである。書類曰く、運転手は若葉マークの大学生だそうだ。これで子守唄までが聞こえてくるといったら、まるで演出過多の怪談だが――それが事実なのだから仕方ない。別に、都市伝説処理班になった覚えはないのだが。

 呟くような子守唄が聞こえる。

 ただし、それは死者にしか聞こえない。死者の声は生者に届かない。

 重ねられた花束の傍。椎名と胡蝶から見てちょうど対角線上の位置で、矢島和歌子が座りこみ、子守唄を歌っていた。ふくよかな腕に輝彦を抱いている。眼鏡越しに赤ん坊を見つめる眼差しは遠目にも優しかったが、その代わり遠目にも疲弊しているように見えた。輝彦の顔は、ここからでは見えない。単調な子守唄が続いている以外は静かなものだから、眠っているのだろう。

 隣に胡蝶が居ることを確かめる。定位置となりつつある椎名の斜め後ろから、彼女はこちらを見上げてゆっくりと頷いてみせた。

 そして椎名は、四つ辻を渡る。

 子守唄が止まる。和歌子がこちらを見て、そして目を見開いたのが見えた。子供を抱く手に力がこもる。警戒よりは恐れの眼差しだった。サングラスと黒スーツ、彼女を怯えさせているのはどちらだろうか。それとも椎名という人間性の問題だろうか。あるいは胡蝶の紅い眼のせいか。

「どなた……ですか」

 震える声。

「はじめまして、『葬儀屋』です」

 椎名が口を開くより早く、胡蝶がにっこりと笑った。

 和歌子の視線が胡蝶に動き、そして戸惑ったように、椎名と彼女とを見比べた。なるほど、確かに不似合いなコンビではあるだろう。片や長身痩躯にサングラスの青年、片や小柄で丸顔の少女。どういう組み合わせだ、と未だに思う。

「そうぎ……や?」

 瞬きを繰り返す。眉間にわずかに皺が寄っていた。庇うように抱きしめた輝彦の、青い服だけが見える。それでも、立ち上がって逃げ出そうという気配はなかった。したくても、できないのかもしれない。目の下の薄い隈が、疲弊を暗に主張している。

「私のお葬式は終わっているはずです」

「知っています」

 微妙に的を外した発言に、胡蝶は笑顔のまま応える。和歌子はしばし考えて、遠慮がちに問いかけた。

「あなたたちも……亡くなっているんですか」

「はい」

「あの世に逝けない死人の世話番だ」

 椎名が胡蝶の後を継ぐと、和歌子がはっとしたように椎名を見た。しかしすぐに俯いてしまう。あの世、と小声で繰り返す声だけが聞こえた。困惑を隠そうともしない母親を見下ろし、椎名は無表情に宣告する。

「あんたの葬式挙げにきたぜ、矢島和歌子」

 和歌子は俯いている。椎名は彼女を見おろしたまま、なにも言わない。なにかを考えているのならば、それを待つのも務めというものだ。第一、彼女がなにを思っているのか解らなければ掛ける言葉も思いつかない。

「……それなら、教えていただけませんか」

 力なく座りこんだまま、和歌子はやがて呟いた。長い前髪が顔にかかるのを掻きあげ、物憂げな眼で椎名を見上げる。

「私はどうしたら良いんでしょう」

「どうしたら?」

 胡蝶が首を傾げる。和歌子は胡蝶に、困ったような微笑を向ける。それから腕の中の息子に視線をやった。

「この子が私を逝かせてくれないんです」

 ざあっ――と、四つ辻を車が駆け抜けた。花束が煽られリボンが揺れる。胡蝶が振り返ったのと、和歌子が背を丸めたのとが同時だった。彼女が、輝彦を庇うように縮こまって身を固くしているのがはっきりと見てとれた。黒髪が肩に流れている。死因が交通事故なら、怯えているのも無理なからぬことか。

 だがそれなら、と椎名は思う。なぜまだ、彼女は事故現場などに居るのだろう。死の記憶を露骨に刺激されるような場所に。わざわざ死亡場所に留まる理由はないのだから。なぜ未だ現世に留まっているのか、本人にも理由が解らないというが――移動の自由くらいはあるのではないか。

 ――ないのか?

 椎名は無言で和歌子を見おろした。

 いつの間にか、胡蝶が駆け寄ってきて和歌子の傍にしゃがみこんでいる。小さな手が、和歌子の背中に添えられていた。

「大丈夫ですか」

「ごめんなさい、大丈夫……」

 胡蝶に向けた和歌子の顔は蒼い。けれど視線を輝彦に配るのは忘れなかった。まだ眠っているらしい。母親の恐怖を知ることもなく、大人しいものだった。輝彦は先程から、泣き声の一つも上げなければ動くことすらしない。まるで人形のように。死んでいるのではないかと妙な心配をしたが、覗きにいこうという気は起きなかった。

 椎名は黙って、待つ。影のように。自分には自分の役割があるだろう。――そこまで考えて、役割などという言葉を遣うようになった自分に驚いた。他人の存在を前提とした言葉を。

「葬儀屋さん」

 俯いたまま、どちらにともなく和歌子は呼びかけた。

「私は早く、逝くべきところに逝って居るべきところに収まりたいんです」

「矢島輝彦があんたを逝かせない、って、そう言ったな」

 応えたのは椎名だった。和歌子がゆっくりと、躊躇ためらいがちに蒼い顔を上げる。なにをするにも、いちいち怯えて迷っているように見えた。年代が同じというだけでは雰囲気は似ないらしい、と、狭霧を思い浮かべながら思う。なぜだかいつでも自信に満ち溢れて見える彼女は、眼の前の若い母親とは対照的だ。年下の青二才にしか見えないはずの椎名に対し、和歌子は怯えを隠せないでいる。迷いがないのは、輝彦を抱いた両腕だけだ。

「子供がそんなことをする理由に心当たりは?」

 椎名が事務的な口調で問うと、和歌子はまた輝彦に視線を落とした。

「……わかりません。ずっと考えていたんですけど。ただ」

 輝彦を抱えなおすと、和歌子はまた椎名を見た。相変わらずの不安げな眼で。

「理由というより……おもりのような感じなんです」

「錘?」

 訊き返したのは胡蝶だった。疲れたような微笑を浮かべて、和歌子は彼女に頷きかけてみせる。それから訥々と喋った。

「輝彦が重くてここから動けない、とでも言えば良いんでしょうか。かせのような。……でも、私にこの子を手放せるわけがないんです。もちろん、気味が悪くないと言ったら嘘になります……怖いですよ。私はこの子を抱いているせいで、逝くべきところにも逝けなくて。……あなたたちのような方の手を煩わせることになって。私は母親であることから逃れられない、のかもしれません。もしこの子が逝くことを拒むなら、私もそうしなければいけない……そんな理由でここに居るような、気がします」

 溜めこんでいたものが、ずるずると流れでたかのような言葉。

 ――もしこの子が逝くことを拒むなら。

 赤ん坊に死を拒む理由があるのか。そう訝った瞬間、脳裏に閃く顔があった。

 ――もしかして。

 思わず和歌子の腕に視線をやった。抱かれているのは矢島輝彦。眠っているのだろうが、母親の胸に顔を押し付ける格好になっているので顔は見えなかった。見えるのは、焦茶色の柔らかそうな髪だけ。和歌子が大事そうに包みこんだ腕の中で、大人しすぎるほど静かに眠っている。椎名は見えない場所を凝視して、書類の内容を思い出した。書類の片隅にあった矢島輝彦の誕生日は、今日から数えて十か月前。確信はなかったがそれくらいのはずだ。計算は、合う。

 ――狭霧さんがね。

 ――それちらっと見て微妙な顔してたから。

 狭霧が妙な顔をしたというのなら、尚のこと。

 だが、単に計算が合うだけであり、狭霧の表情と符合するだけの話だ。態度を決めかねている椎名の代わりに、胡蝶がやや緊張した声を出した。

「輝彦君を、見せていただいても良いですか」

 和歌子が、きょとんとして真横を見る。和歌子の傍にしゃがみこんだ胡蝶は、声と同じ、緊張した硬い表情をしていた。しばらく彼女を眺めた後で、和歌子は表情を和らげた。ふっくらとした頬に包容力のある微笑。母の顔だった。

「どうぞ。そんなに怖い顔をしないで、笑いかけてあげて」

 そうして、守るように抱いていた輝彦を抱きなおしてみせる。一拍遅れて、胡蝶が椎名を見上げてくる。見せてくれと自分から言いだしたくせに、どことなく不安げだった。後のことはあまり考えていなかったのかもしれない。見るなら見ろ、と、椎名は軽く顎を突き出して促した。それが通じたのか、胡蝶はそろりと和歌子の腕の中を覗きこむ。離れた位置で立っている椎名からは、輝彦の姿はよく見えなかった。青い服と、そこから覗いた小さな手が見えるだけだ。――胡蝶のように近づいてみようという気には、どうしてもなれなかった。だから黙って、胡蝶と和歌子とを見ている。

 怖々と赤ん坊を覗きこんだ胡蝶が、一瞬で顔を綻ばせた。

「可愛いですね」

「ありがとう」

「触っても良いですか」

「どうぞ」

 胡蝶がそろりと手を伸ばしたのが見えた。つついているのか触れているのかは、椎名の位置からは見えない。仕事中だということを解っているのだろうか、と思ったが、特になにも言わなかった。

 それにしても、と思う。胡蝶が輝彦を見ようとしても、あまつさえつついたとしても、和歌子は拒まなかった。それならやはり、彼女は子供に執着しているわけではないのだろう。第一、そもそも輝彦は和歌子と同時に死んでいるのだ。和歌子が死んで輝彦が生きているならともかく、輝彦に執着するという理由で和歌子が現世に留まるのはおかしい。それに、和歌子の未練は情報局の力をもってしても「不明」だったという不気味な事実もある。それなら、親子が現世に留まっている理由はむしろ輝彦のほうにあることになる。

 四つ辻の角には花束が供えられ、その傍で、座りこんだ和歌子と胡蝶とが和やかに言葉を交わしている。その平和な光景も、椎名には不気味に映った。

「寝てばっかりで全然起きてくれないの」

 和歌子の声に穏やかな笑いが混じっている。いつの間にか、彼女はだいぶ落ちついているようだった。相手を落ち着かせるという役目には、胡蝶が確かに適任だ。「始末」専門の自分と穏やかな胡蝶の組み合わせは、ある意味バランスがとれているのかもしれない。そんな、複雑な感慨に囚われた。

 無意識に、椎名は二人に歩み寄った。和歌子の前に片膝をついてしゃがみこむ。隣で胡蝶が、なぜか嬉しそうな顔をした。なにがおかしいのか、和歌子が胡蝶と顔を見合わせて笑いあう。それから和歌子が、椎名にもよく見えるようにと輝彦の位置を調整した。別に赤ん坊が見たいわけではなかったが、拒む理由もない。

 青い服に包まれて、赤ん坊が穏やかな寝顔を見せていた。赤ん坊の顔などどれも同じに見えるから、書類と同一人物かどうかはよく判らない。あのぱっちりとした眼が閉じられているのだから無理なからぬことか。――小さいな、とだけ思った。

 小さな赤ん坊を眺めていたそのとき、不意に、輝彦が眼を開けた。正確に言うなら見開いた。

 こぼれおちそうな眼が椎名を凝視する。

 眼が合った、と思った次の瞬間、顔を歪めた。

 そして火がついたように――輝彦は泣きだした。

 ――椎名は息を呑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る