五‐二 「解ったならさっさと逝け」

「あら、あら、どうしたの」

 和歌子が驚いたように呼び掛ける。慣れた手つきで輝彦を抱きなおす。けれど困ったように、眉を寄せている。胡蝶は慌てて椎名を見上げ、怒ったように睨みつけてきた。

「椎名君が怖い顔するからだよ」

 ――違う。

 はっきりと、否定した。

 この泣きかたは異常だ。そのくらい、椎名にでも解る。

 普通の赤ん坊は、見開いた眼で誰かを凝視して、視線を誰かに突き刺したまま泣き叫ぶなどという芸当はしない。

 抱かれた腕の中から、輝彦の視線が椎名を捉えて離さない。

 有り得ない。

「テル、どうしたの、どうしたの」

 和歌子のあやす声。しかしそれも、耳をつんざくような泣き声に掻き消された。泣き声。それとも悲鳴か。胡蝶が狼狽うろたえている。けれど彼女にはどうしようもない。ただ、椎名を睨みつけたり輝彦を見たりと視線を走らせているだけだ。和歌子の表情が次第に硬くなる。

 椎名はただ、絶叫の中硬直している。

 硬直したままで、輝彦の――輝彦の?――視線を受けている。

 否。少なくともこれは、赤ん坊の眼ではない。赤ん坊は、そもそもこんな表情を貼りつけないものだ――こんなはっきりとした、恐怖の表情は。

 和歌子の視線を感じる。救いを求めるようなそれに視線を返そうとしたそのとき、別の声が聞こえた。

『来るなアッ――!』

 なぜか、聞き覚えのある声だった。

 胡蝶が肩をびくりと震わせ、和歌子が驚いて子供を見る。声の主は相変わらず、大きな眼で椎名を凝視しながら泣き叫んでいる。小さな身体のどこに、そんな力があるというのか――違う。

 輝彦ではないのだ。輝彦の声ではない。頭の中にがんがんと響いてくるのは、変声期をとうに過ぎた男の声だ。

『化け物め』

 ――その台詞を聞いたとき、椎名は声の主を確信した。

 和歌子と胡蝶とが怯えを閃かせる。顔を見合わせ、それからそろりと椎名に視線を向けてくる。だが見返しもしなかった。

 唇が、ふと歪んだ。間違っても赤ん坊に向ける冷笑ではあるまいが気にしなかった。目の前に居るのは、赤ん坊ではないのだ。少なくとも、今、この瞬間は。

 浮かんだのは、保育士のような優しい顔立ち。プライドばかり高い臆病者の、怯えた声。

「安心しろ」

 押し殺した声を、一言吐いた。

 その一言で、赤ん坊はぴたりと泣きやんだ。

 恐怖の眼差しだけが残っている。こぼれおちそうなほど見開かれた眼。凍りついた表情。――「彼」にとって、自分はそれほどまでに恐ろしい存在らしい。愉快な話ではないか。赤ん坊の顔に貼りついたその表情も滑稽だった。

 和歌子も胡蝶も見えない。椎名はただ、恐怖に凍りついた幼い顔だけを見ていた。

「そこまで小さきゃ、あんたはこっちに来ようがないんだ。ちょっと考えれば解るだろう」

 赤ん坊はなにも言わない。

 ただ見ている。

「転生していきなり死ぬのは確かに気の毒だし、ヒトを化け物呼ばわりするのも勝手だが、あんたの都合で他人巻き込むのはやりすぎだな。仮にも半年以上育ててくれた母親だぜ」

 平坦な声で言葉を押し出す。

 赤ん坊の眼がこちらを見ている。ぷっくりとした頬と丸い眼。青い服の中の小さな身体。見た目は確かに赤ん坊のそれなのに、凍りついた眼だけが異様に輝いている。

 椎名も眼を離さなかった。

「おい、あんた」

「あ、……うん」

 弾かれたように返事をする相棒を見もせずに継ぐ。

「あんたも言ってやってくれ」

「な、なにを」

「矢島輝彦が、現世から離れたあと、『葬儀屋』にさせられる可能性は何パーセントだ」

 赤ん坊の視線がかすかに動いた。たぶん、胡蝶を見たのだろう。彼女も一瞬赤ん坊を見た。視線は、交錯したのかもしれない。しかし胡蝶は、そのまますいと椎名に視線を戻した。どうやら彼女の怯えの対象は、ぎらついた赤ん坊の眼よりも、唐突に自分の名を呼んだ椎名のほうらしい。愉快な話だ。全くもって、非常に愉快な話だ。

「ゼロ、じゃないのかな……こんな赤ちゃんじゃ働けないもの」

「――解ったか」

 胡蝶の言葉をそのまま受けて、椎名は呼びかける。赤ん坊はまた、ぎこちなく視線を動かして椎名を見た。戸惑ったような、信じかねているような、そんな眼で。眼は恐ろしく雄弁だったが、口ではなにも言わない。先程の絶叫が嘘のように、黙りこくっている。表情も絶叫も不気味なら、沈黙もまた薄気味悪かった。

 椎名は再度、呼びかけた。

「解ったならさっさと逝け、――鳩羽はとば

 かつての「葬儀屋」の名で。

 赤ん坊は、ひときわ大きく目を見開いた。そのまま、瞬きもせずに椎名を見つめた。椎名も黙って見返す。「彼」をこんなに真面目に見つめたことなどなかったのに。

 数秒だったか、それとも数分だったのか。

 ――やがて「彼」は、脱力したようにゆっくりと目を閉じた。

 残ったのは、なんの変哲もない、ただのあどけない寝顔。若い母親は、呆然として腕の中を見つめている。この小さなヒトは本当に自分の息子であるのかと、自問しているに違いない。

 ――答えるのは難しい。

 他人事のようにそう思ったとき、唐突に、和歌子が声を上げた。

「あ」

 身体が透けはじめている。

 和歌子は驚いて椎名を見る。狼狽した眼は明らかに説明を求めていたが、椎名はなにを言う気も無かった。――矢島輝彦は――正確には元「葬儀屋」の鳩羽は――今この瞬間に、現世に留まる理由を失くした。彼に引きずられて現世に留まらざるを得なかった和歌子も、同様にかせを失くした。だから、逝くべき場所に引かれつつある。そんな専門的な説明をするのは面倒だったし、第一もう時間がない。

 椎名を見据えた眼は、空虚だった。事態は全て彼女を素通りしていく。

「なにが……あったんです」

 和歌子の声は既に遠い。透けた彼女の身体越しに、四つ辻の向こう側が見えた。赤い車が走り、ランドセルを背負った子供が走る。そんな日常風景が見える。

 椎名は、疲れたように肩を竦めた。

「死人には死人の事情があるんだよ」

 戸惑いを消化できないまま、和歌子は透けていく。輝彦もまた、安らかな寝顔で透けていく。なにもなかったかのように。

 事情も解らぬまま、二人は現世に留まる理由を失くして消えた。

 そして後には、四つ辻と花束と、二人の「葬儀屋」だけが残った。

 車が走る。花束が煽られる。

「――椎名君」

 胡蝶が、椎名の名を呼んだ。

 まだ呆けたまま、立ち上がる気力もないらしい。事態についていけないのか、戸惑った眼でこちらを見上げてくる。見返すと、胡蝶はしばらく逡巡してから一言だけ問うた。

「鳩羽って、誰?」

「昔の相棒だ」

 短く答える。そしてそのまま眼を閉じた。班室を心に念じる。――一刻も早くこの場から離れたい一心で。

 確かめたいこともある。

「ちょっと、椎名君ってば! ――」

 ぐいと遠ざかった意識を、胡蝶の非難する声が追ってくる。だがもう応えてやる気力もなかった。


 自分の席に戻るなり、受話器を手に取った。そして機械的に内線番号を押す。暗唱できる番号は一つしかないが、こちらから連絡を取るのは久しぶりだった。いつもなら、内線など使わないうちから向こうが姿を現したりもするのだが、今日はそうもいかないらしい。会いたくないときには来るくせに、報告の一つもしてやりたいときに限って居ないのだ。勝手に湧いてくる苛立ちを、かちゃりという音が遮った。

「はい、管理局管理部第三班常磐」

「鳩羽だったぜ」

 常磐の言葉を皆まで聞かず、椎名は一方的に告げた。

 回線に沈黙が下りる。椎名が頬杖をつくのを待っていたかのようなタイミングで、常磐が口を開いた。

「椎名ですか」

「あんたが矢島輝彦を回した相手だよ」

 棒読みに答えると、一拍置いた後でくすりと笑う声が聞こえた。

「お疲れさまです」

「まったくだ」

 椎名も鼻で笑う。だが、いけ好かない顔を見なくても良いというのは結構なことだ。

 笑みを消し、受話器を持ちなおす。顔は見えなくても、常磐が同じように人形じみた真顔になったのが判った。

「矢島輝彦は鳩羽だった」

「やはり」

「わざと俺に回したんだろう」

「まあ、そんなところですね」

 肩を竦めている。たぶん、そうなのだろう。見なくても判るというのも考えものだ。せっかくあの白い顔を見ないで済んでいるのに、話しぶりが逐一浮かんできてしまう。

 手持ち無沙汰の右手で、転がっていたボールペンを手に取った。仕事を済ませてきたのだから、書類を書かなければいけない。この事務作業さえなければもっと仕事が捗るのに、といつも思う。

「いやに勿体ぶるんだな」

「確証がありませんでしたからね」

 人形は平然と喋る。

「矢島輝彦の誕生日が、鳩羽の死亡日の翌日だったというだけです。……彼なら、例え赤ん坊であっても現世に留まろうとする理由がありますし」

「俺か」

 つまるところ、彼も椎名と同じことを考えていたらしい。自分の声が露骨に嫌そうな響きを帯びて、それを耳聡く聞きつけた常磐がまたくすりと笑った。そして、馬鹿丁寧に呼びかけてくる。

「貴方ですよ、零度の鎮魂歌ゼロ・レクイエム

「解ってるよ」

 舌打ちをしかけたが、堪えた。代わりに呟く。

「鳩羽は、死よりもここへ来ることそれ自体を恐れた」

「だから、現世に留まりつづけた」

 独り言を常磐が受けた。相手にこちらが見えていないのを承知で、黙って頷いた。そして、ボールペンの先ばかりを見つめながらぼんやりと考える。

 前世の記憶は無意識下に根付くというが、生まれたばかりの赤ん坊には、そもそも自分自身の記憶がほとんどない。つまり無意識、即ち前世の記憶の影響を強く受ける。ただし、矢島輝彦にとっての前世とは、「葬儀屋」たる鳩羽の意識だ。そして――鳩羽の記憶は、椎名に対する恐怖をはっきりと残していた。

 だから。

 転生の後に再び死んだ「彼」は、なによりもまず「葬儀屋」として生まれ変わることを拒否した。

 少なくとも現世に留まっている限り、「葬儀屋」として生まれ変わることは有り得ない。「葬儀屋」の記憶は、そのことをよく承知している。それを望んだ鳩羽の無意識が、転生先である矢島輝彦に働きかけてしまった――そういうことなのだろう。

 解りきった答え合わせをするように、しばし黙っていた。

 沈黙を破ったのは常磐だった。

「それが理解できる可能性があるのは、貴方だけですからね。狭霧は不安そうにしていましたが」

「大層な信頼だな」

「貴方が当事者ではありませんか」

 からかうような声音。椎名とて、好きで当事者になったわけではないのだが。

 黙っていると、常磐はまた笑みを消した。

「記憶とは恐ろしいものですよ」

 独白のような、意味深ないつもの調子。また肩でも竦めているのかもしれない。それとも、遠い眼差しをどこかに向けているのかもしれない。応える代わりにくるりとボールペンを回すと、常磐はそれを見ていたかのように言葉を継いできた。

「そこまでのことをさせてしまう」

 ――「葬儀屋」出身のくせに、平気で生死の理を曲げてしまうような。

「生前の記憶が消されるのも宜なるかな、です」

「ああ」

 椎名は短く応えた。

「葬儀屋」は――現世に留まる不安定な魂を導く立場にある。そんな役目を担う者が、記憶などに踊らされていては話にならないのだ。肉体を持たない死者は、そして「葬儀屋」は、感情や記憶の作用を受けやすい。余計なものは消しておくに限る。他の魂も、死んだ直後に全部リセットされてくれたら楽なのに――と思うが、世の中そう巧くはいかないらしい。手間暇かけるのは一部の魂だけで良い、ということなのだろうか。

「話はそれだけですか」

 我に返る。幻影ファントムの呼び名をとっていたかつての相棒はいつの間にか消え、受話器から聞こえる声は、ただの柔和な上司のそれになっていた。

「ああ」

 打ちやめの空気を察する。

「そうですか。お疲れさまです。報告ありがとうございました」

 事務的な言葉の向こうに、穏やかな常磐の表情が浮かぶ。普段なら胡蝶にこそ向けられるべき笑みを思うと、落ち着かない気分になった。

 ああとかうんとか、曖昧に応えて電話を切った。

 長く溜息をつき、脚を組んで椅子に凭れる。回転椅子が音を立てて軋んだ。脳裏に、久しぶりに鳩羽の顔が浮かぶ。彼のことを考えようとしても、恐怖と軽蔑以外の表情を思い出すことができないのが可笑しかった。初めて出会ったときは例外だろうが、それとて緊張した表情でしかない。

 鳩羽が椎名の「始末」を目の当たりにしたのは、彼が打ち解けようとしてくる前だった。「始末」も仕事のうちだと呑みこむより先に、鳩羽は異常な「始末」回数を体験した。その末にようやく「葬儀屋」の寿命を全うしたと思ったら、早々と事故に遭ってまた死んでしまう。因果な運命もあったものだ。せっかく現世に留まったのに、そこにやってきたのがこともあろうに椎名だときている。それは、常磐の意志も絡んでいたのだけれど。

 ――ツイてない奴だ。

 口には出さず呟いた。流石に気の毒だとは思ったが、だからといってどうしようもない。それよりむしろ、自分が鳩羽にとってそれほどまでに恐ろしい存在だったということのほうが意外だった。魂ひとつの運命を捻じ曲げてしまうまでに。それなら胡蝶などはどうなのだろう。今は平気な顔で、へらへらしているように見えるけれど。

 ぼんやりとしていると、当の本人の声がした。

「なんかやったの、椎名君」

 見ると、いつの間にか胡蝶が隣に座ってこちらを見ている。

「なんかって?」

「椎名君がなんかやったから、鳩羽さんって人はここに来るのを恐れたんじゃないの」

 電話の内容を聞いていたらしい。面倒臭い奴だ、と溜息をついて、椎名は頭を掻いた。

「別に。あんたが見たのと同じことさ」

 それだけ言うと、胡蝶はなにも言わずにふと唇を結んだ。それを見ないふりをして、自分のデスクに向きなおる。仕事はまだ山積みに残っているのだ。胡蝶の感情にも、鳩羽の記憶にも、構っている暇はない。

「……記憶ってのは恐ろしいな」

 他人事のように独り言ちて、書類の報告欄を埋めにかかる。――記憶に踊らされているのは自分のほうなのかもしれない、とも思う。無意識下の記憶が「葬儀屋」に影響を及ぼすのなら、この殺人衝動も記憶とやらのせいなのかもしれないのだから。

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