三‐一 「『葬儀屋』が捕まえ損ねた魂のなれの果て、だ」

  黒い液面に、自分の顔が映っている。切れ長の眼。尖った顎。薄い唇。相変わらず不機嫌そうな無表情。自分で不機嫌だと判断できるのであれば余程だろう、と思う。別に機嫌が悪いわけではないのだ。ただ夜勤である以上、眠くて機嫌が悪いのだろうとでも勝手に納得されかねない状況ではある。とはいえ機嫌が良いのかと問われれたところで決してそんなこともないし、そもそも、機嫌が良さそうにしていたら、それもそれで不気味がられることは目に見えている。難儀だ。だからどうというわけでもないのだが。

 ぐるぐると、無意味に思考が回る。

 マグカップを掴んだ。液面が揺れて虚像が見えなくなる。

 班室に一つしかないコーヒーメーカーに背を向ける。同僚のデスクの間を通り抜ける。意識的に無視されている、のを感じるのは自意識過剰ではあるまい。殺風景な広い部屋の中に、ずらりと並んだデスク――。仕事は部屋の外で行うのが基本だから、いま室内に居るのは数組だけだ。例えるならば授業中の職員室だろうか。教師が授業に出かけるのと同じように、「葬儀屋」は現世に出かけていく。それでいくと、常磐の部屋は校長室である。思いつきだが妙にしっくりときた。確かに、常磐が現世に出向くことは少ない。

 そこまで考えて、やめた。

 ――馬鹿か、俺は。

 疲れているのだろうか。夜勤のせいか、机に残してきた仕事のせいか。それとも、隣の席で書類の確認をしている胡蝶のせいなのだろうか。

 あれからどれくらい経つのだろうか。数えるのはやめたが、胡蝶の態度は相変わらずだった。椎名の隣に居ても、正面に対峙していても、いつも緊張した面持ちをしている。先刻も、コーヒーを求めて席を立った椎名の背後で、胡蝶は小さく息をついた。緊張が切れたかのような吐息。つまりは、そういうことだ。

 ――やりにくい。

 常磐が回してくる仕事も、いやに平和なものが増えたような気がする。この前は参った。回されたのは、ほとんど大往生といって良いような老人。新人の初仕事に回すような魂だった。平和な仕事が多いのは結構なことだが、常磐の遣り口は気に食わない。まさか「始末」対象の仕事が激減したというわけでもないだろう。それとも、あんな小娘に遠慮しているのだろうか。

 ――それもそれで面白いかもしれない。

 いちばん端の列まで辿りつく。六つ並んだ机のうち、五つが空席だった。四つは出勤組、一つは椎名の席である。唯一埋まっているのは胡蝶の席だ。

 その傍に人影を見て、椎名は思わず足を止めた。

 気配に気づいてか、胡蝶がこちらを向く。困惑した表情を目の当たりにしてどきりとした。いつもはもっと、緊張した顔をしているのに。

「椎名君……」

 頼りなげに呟いた彼女の前に、常磐が影のように立っていた。

 胡蝶の動作につられるようにして、常磐もこちらを向く。人形めいた白い顔が、まともに椎名を見た。椎名は一瞬だけ眉をひそめ――そして直感する。

「なにかあったのか」

「緊急です」

 端的な応答。回転椅子に座ったまま混乱している胡蝶を無視して、椎名は常磐に歩み寄った。反応しかけている無意識を、意識的に鎮めながら。

 デスクの上に、マグカップを置く。予想以上に音が響いたのは、人が少ないせいか、夜のせいか、それとも。

 常磐は明らかな無表情をしていた。柔和な笑顔も底の見えない微笑もない。在るのは、紅い硝子のような眼。それだけだ。彼と組んでいた頃は、仕事をするたびにこんな眼をしていたことを思いだす。

 反射的に、窓際の刀に視線を走らせた。

「『始末』か」

「『逝かせ遅れ』ですから、それは間違いなく。……でなければ、わざわざ直接貴方に持ってきませんよ」

 くすり、と取ってつけたように笑うと、常磐は書類を椎名につきだした。笑っているのは唇だけだ。

「栗田美玖みく、十三歳、病死。生まれつき心臓が弱かったようです。入退院を繰り返した後で亡くなりました。自分は死んだのに、みんなは生きて学校に行っている――という気持ちが妙な方向に行ったようです。彼女自身はまだ原形を保っていますが、影を呼んでいますからね、そろそろ限界です」

 訊きもしないのに、歯切れよく書類の内容を語る。念のため書類に目を走らせたが、ただの二度手間だった。

 常磐は淡々と宣告した。

「喰われるのも時間の問題でしょう」

「解った。すぐに行く」

「あたしも!」

 がたん、と音がした。

 反射的に見ると、胡蝶が椅子を蹴って立ちあがっている。椎名の肩までしかない小柄な背で、それでも彼女は椎名を睨みつけてきた。噛みつくような眼差し。――斬らせないわ。そう言ったあのときの表情に、よく似ていた。

「やめとけ」

「だって」

「邪魔だ」

 胡蝶は、唇を真一文字に結んだ。彼女を押しのけるようにして後ろを通り、自分の席を通り過ぎ、窓際の刀を手に取った。仕事のときには肌身離さず身につけているが、明確な目的をもって手にしたのは随分久しぶりだ。自然と唇が歪むのは、自嘲ではなく愉悦のせい、なのだろう。

 殺したい、という「衝動」があり、斬らなければならない、という緊急事態がある。それならそれで、利害一致というものだろう。その緊急事態において、不要な正義感を振りかざす彼女の存在は邪魔でしかない。仕事をする上でも、「衝動」を正当化する上でも。

 振り返ると常磐と眼が合った。椎名が頷きかけた瞬間、常磐がつと視線を逸らす。――視線の先には胡蝶が居た。

 目を丸くした彼女に、静かに問いかけた。

「銃は持っていますか」

「え?」

「おい」

 胡蝶が驚いて常磐を見上げる。相変わらずの人形面だった。微笑の欠片もない。

 驚いたのは椎名も同じだった。だが常磐は微動だにせず、胡蝶の眼だけを見つめている。彼女の顔に怯えが閃いたのを、椎名は確かに見た。彼女は常磐のこんな顔を見たことがないのではないか、と、柄にもなく懸念する。

 胡蝶がおずおずと、デスクに視線をやった。いちばん下の抽斗。自分のデスクの中で、彼女が唯一、触れようとしない場所。

「あります……けど……」

「出して、安全装置を外しておきなさい」

 有無を言わせぬ口調に、胡蝶が息を呑む。

 常磐の聞き手は胡蝶だったのだと、ふと思い至る。この優男、最初からそのつもりだったのだ。胡蝶をこの仕事に参加させるために、わざわざ書類を読み上げた――。

 なんのために?

 疑問は無理やり押しこめた。この男を相手に、疑問を抱くことは無意味だ。少なくとも、時間のない非常時においては。

 胡蝶が常磐を見ている。眼を離せないのだろう。常磐はしばらく彼女を見返し、やがて、口元に柔らかな微笑を浮かべた。

「誰でも一度は経験します。それに貴女だって、知らなければならないものはまだたくさん在るんですよ」

 穏やかな口調。優しい言葉。柔和な微笑。けれど、眼は依然零度だった。自然な表情を浮かべるくせに、すべては作りもの。その違和感を隠そうともしない。

 胡蝶が常磐を見ている。唇を引き結んでいる。

 やがてこくりと頷くと、彼女は決心したように、いちばん下の抽斗に手をかけた。慎重な手つきで銀の銃を取り出し、弾の数を確認する。言われたとおりに安全装置を外し、それをホルスターに収めた。――それを、椎名は見ている。胡蝶の手が震えているのを見ている。

「……本気か?」

 誰にともなく、椎名は呟いた。それに反応してか、常磐がこちらを向いてまたくすりと笑う。胡蝶に向けた笑みとはまた意味の違う、謎めいた笑みだった。逆に言えば、椎名の慣れ親しんだ笑み。

「巧くやってもらわなければ困りますよ」

 意味は解らなかったが、舌打ちする代わりに頷いた。そして左手の刀を、握り締める。


 空気はねっとりと淀んでいた。

 左側には教室が並び、右側には窓が並んでいる。教室の窓硝子越しに、掛け時計が午前三時を指しているのが見える。賑やかな中学生は、誰一人として居ない時間。教室にあるのは、机と椅子と、沈黙と闇――否、机のひとつに、花が飾られている。あとはただ、埃っぽいだけ。

 それだけだ。

 それだけのはずだった。

 空気の淀みが、それ以外の存在を暗に主張している。

 耳を澄ますと、小さな足音が聞こえる。乱れた足音に哄笑が混じる。焦燥しているのが音だけで解った。かなり長い間逃げ続けているのだろう。――音が大きくなる。廊下の突き当たりの曲がり角に、眼を凝らした。空気が粘り気を増す。足音と厭な空気とが、一緒になって近づいてくる。粘りの気配のほうがまだ少し遠いのが、幸いといえば幸いかもしれない。足音の主は邪魔なだけだ。刀を遣うには。この「衝動」を満たすには。

 廊下の一点を凝視したまま、椎名は傍らの胡蝶に問いかけた。

「『影』のことは知ってるのか」

「感情のカタマリ」

 緊張した声で、短く答える。誰に聞いたのかは知らないが、一応知識はあるらしかった。視線だけで見下ろすと、胡蝶は唇を噛んでいた。手が微かに震えているのが見てとれる。たぶんそうして、彼女は耐えているのだろう――この気配に。今まで出会ったこともないような、重い空気と感情の渦に。

 足手まといにすぎないと思っていたが、案外根性があるらしい、と思い直した。だが根性というならば、そもそも椎名と行動を共にしている時点で、客観的にはかなり肝が据わっているはずである。

 ――上等だ。

「『葬儀屋』が捕まえ損ねた魂のなれの果て、だ」

 押し殺した呟きに、突きあげてくる「衝動」が交じる。もうそれを止めようとも思わなかったし、止める術もなかった。胡蝶に知られたとて、だからどうだというのだ。もうとっくに知られていることだ。それを承知で彼女はここに居る。ならお望みどおりに狂ってやるのが筋というもの。

 ――なぜ言い訳をしているのだろう?

「感情のカタマリだって解ってるなら、栗田美玖に影を触れさせないことがあんたの仕事だぜ」

 冷静な指示と、本能的な狂喜が入り交じる。呑まれようとしているのを止めもしない。

 ただでさえ、魂とは不安定な存在だ。それが影などに触れようものなら、魂は感情の負荷に耐えられず、すぐに崩壊してしまう。無論、「葬儀屋」自身も。

 対処手段は、「始末」だけだった。

 死んで身体を失い、凝り固まって人格を失う。

 だから、刀を遣う。自己防衛のために。ちょうど、仕事のときだけサングラスをかけるのと同じ。

 ――そうでなくても遣うくせに。

 自己弁護でしかないことは、理解していたのだけれど。

「来るぞ」

 誰へともなく呼びかけた。

 廊下の向こうに、小さな人影。走っている。走ってくる。必死の形相で。恐怖に引き攣った顔で。上履きの足音が大きくなる。顔が見えたと同時、少女ははっと息をのんで立ち止まる。反射的に踵を返そうとする彼女に呼びかけた。

「行くな」

 低い声に、少女が動きを止める。そしてじっとこちらを見た。躊躇っているのかもしれない。椎名が信用に値するかどうか、彼女には解らない。そうして眼を凝らしている間にも、影は近づいてくるのに。じわじわと闇が濃度を増しているのに。

『どこだ?』

 かすかに聞こえる、愉悦交じりの声。

 少女が身を固くする。振り返るがそこにはなにもない。――まだ。

『どこだ』

『どこに行きやがった』

 歪んだ笑みは、言葉とは裏腹に一直線に近づいてくる。音もなく。

 時間がない。

「来い!」

 叫ぶと、少女は一度びくりと震え、それから弾かれたように駆けだした。心得たとばかりに胡蝶が飛び出して、飛びこんできた少女を抱きとめる。セーラー服の白い色が視界の隅にちらついた。胡蝶と入れ替わるように、廊下の真ん中に躍り出る。影の気配が、刻一刻と密度を増していく。唇を歪めると、鞘を捨てた。

「栗田美玖ちゃんね? ――大丈夫、大丈夫よ」

 胡蝶の声を聞くと同時、曲がり角から影が現れた。反射的に構える。ざわりと、身体中が脈打った。久しぶりの感覚。「衝動」が、柄を握った掌から急速に這い上がってくる。理性が奥底に沈んでいく。

『見つけたァ!』

 哄笑が――一つ、二つ、三つ四つ五つ六つ。

「来やがれ」

 凄絶な笑みを浮かべて、椎名は影を斬り裂いた。

 手に殺傷の感触。全身が粟立った。哄笑が怒号に変わったのを、どこか遠くで聞いていた。腹の底から絞り出すような、金属を引っ掻いたような、低く甲高い不快な音を。――ひとつ。

 馬鹿にするかのように、ひらりひらりと墨色が飛び交う。粘ついた重い気配とは裏腹な、布切れのような軽やかさ。

 影。

「葬儀屋」が捕まえ損ねた魂のなれの果て。

 現世に留まりつづけた魂は、人格も姿も忘れ、やがて黒い影と口だけが残る。それは、ただ感情を喰らい肥大しつづけるだけの感情のカタマリ。さしずめケモノ。もしくは、「逝かせ遅れ」。自嘲をこめて、「葬儀屋」は彼らをそう呼んだ。

『邪魔するな』

 美玖に突っ込んでいくそれの真正面に刃を突きだす。止まりきれずにそのまま両断され、不愉快な叫び声をあげて消えた。――ふたつ。コールタール状の残骸がべっとりとへばりつく。それが消えるのも待たず、手首を返して横に薙いだ。脚を軸にして向きを変え、更に振り下ろす。開けっぱなしの口が両断される。口の奥の赤さばかりが焼きついた。――みっつよっつ。迸る絶叫。床を後ろに蹴り、滑りこんできた影を斬り裂いた。感触が。手に積み重なる。断末魔が耳に残る。それが更に掻き立てる。――いつつ。

 振りむいて、最後の影と対峙した。墨色がたじろいだのが気配で判る。椎名は刀を両手で構え、口を三日月形に歪めた。

「死ね」

 一言。

 言ったのと、べちゃり、と音がするのとが同時だった。

 あとは無音。

 真夜中の学校に相応しい、静寂。

 手に残った感触に満足してか、「衝動」が沈んでいく。闇の底から理性を引きあげながら、椎名はゆっくりと、立ち上がった。

 振り返ると、胡蝶とまともに眼が合った。あのときと同じ眼。あのときと同じように、胡蝶が椎名を凝視している。違うのは、彼女がしゃがみこんで少女を抱きしめていること。見ようによっては椎名から護っているようにも見える、と思い、自分の想像に少しだけ笑った。

 リノリウムの床に転がった鞘を拾う。へばりついた影の残骸が消えたことを確かめてから、刀を収めた。

「大丈夫か」

「あ……うん」

「そっちは」

 視線で栗田美玖を示すと、胡蝶はようやく彼女から身体を離した。薄い肩を支えながら、そろりと美玖の顔を覗きこむ。胡蝶がなにかを言うより早く、美玖は椎名を振りむいた。

 疲れきった眼。

 中学一年生にはおよそ相応しくない眼だった。

「さっきの……あれ、は」

「とりあえず『始末』した」

 か細い声に、短く答える。胡蝶はともかく、美玖は椎名の狂態を見ていなかったはずだ。ならば必要以上を語ることはない。

 椎名はそこで、初めて正面から美玖を見た。半袖のセーラー服から伸びた手足は病的に細い。色黒なのは生まれつきだろうが、それでも真っ青になっているのが見てとれた。病のせいだろうか。それとも、影に追われた恐怖のせいか。ショートカットの黒髪だけが、暗闇の中でも艶やかだった。

 聡明そうな大きな眼が、椎名をじっと見つめている。正確には、椎名の持つ刀を。たぶんこの少女は、椎名がなにをしたのかをとうに悟っているのだろう。そしてたぶん、その原因が自分にあることも。だから彼から眼を離さないのだろう。そこまで解ってしまうことはむしろ自虐的だった。

「ごめんなさい」

 美玖は唐突にそう言った。細い脚を床に投げ出した無防備な姿勢で、表情だけが異様に強張っている。怒るでも泣くでも怯えるでもない。

「どうして謝るの」

 胡蝶が彼女の肩に手を置いたまま、優しく問いかける。だが彼女は椎名から眼を離さなかった。黒い目を見開いたまま。――急速に重くなる気配に、厭な予感がした。

「みんな死んじゃえって思ったんです」

 ぽつりと、懺悔する。黒い染みのように。

「なんでみんな普通に学校に行ってるのにわたしだけ行けなかったのって、わたしも行きたかったって、そう思って、なんでわたしだけあんなところで死ななくちゃいけなかったのって。わたしも制服着て、みんなと一緒に授業受けて、部活もしたかった。だからみんな死んじゃえばいいって思ったんです、ほんのちょっとだけだったんです、ほんのちょっとそう思っただけ……」

「美玖ちゃん」

 胡蝶が強い口調で遮った。力なく座りこんだ美玖の肩を掴み、強引に自分のほうを向かせようとする。だが美玖の眼は椎名だけを見ていた。視線が突き刺さったまま外れない。外しかたが、彼女には解らないのかもしれなかった。

「そしたらあれが湧いてきたんです」

 そこかしこに見えない澱が現れるのを、椎名は感じている。――美玖を見返したまま、またゆっくりと、刀を抜いた。数歩先で、胡蝶が美玖の肩を支える手に力をこめる。美玖の身体は微動だにしないが、胡蝶は遠目にも判るほど震えていた。彼女も多分、この不穏な空気を感じ取っているのだろう。あるいは椎名の気配の変容を。

「わたしがいけないんです」

 震える声は、影を斬り殺した椎名への懺悔か。

「でも、わたしはほんとうに居なくなってしまったんです」

 黒い双眸が見つめてくる。

 重みを増した空気が、次第に凝縮していく。執拗な美玖の眼から視線を外し、背後を探る。そろりと刀の構えを変える。しているはずのない呼吸を、ゆっくりと整えた。

「わたしを無視して居ないことにしつづけたあの子たちは生きてるのに……」

「黙ってろ」

 ひらり――と、ソレは現れた。

 同時に振り向いて刃を振り下ろす。息をつく間もなく、あちこちで虚空が影を生む。

 ――間に合うか。

 冷静に計算する自分が居る。一方で、興奮を抑えきれない自分が居る。だがどちらの椎名も、刀を構えたことは同じだった。

『殺っちまえよ』

 下卑た笑い声が聴覚を満たしている。どれもこれもが美玖を志向している。

 影を二つまとめて薙ぎ払いながら、椎名は横目で美玖を見た。胡蝶に抱きしめられて、震えている。細い指が、襟もとの赤いスカーフを握りしめていた。

『憎いんだろ』

『お前だけだったんだ』

 ――このままだと自滅するな。

 辛うじて残った理性が、呟く。

 影を呼んでいるのは、他でもない栗田美玖自身。影はただ、美玖の本心を代弁しているだけだ。たぶん本人も、そんなことは重々承知なのだろう。逃げても逃げても追いかけてくる。ただ、懐かしい学校でみんなと同じ生活がしたかっただけなのに。ほんの少し、感情の矛先を誤っただけなのに。

 だが、だからこそ影は呼ばれた。そして美玖を引きずりこもうとしていた。

 ひらり、ひらり、ひらり。

 不快な笑い声。元の姿がなんだったのかも、もはや判らなくなった感情のカタマリ。家族愛も、金への執着も、どんな未練も等しく淀んで暗く均されていく。

 辺りの闇はより濃くなっていた。

 舌打ちをして、苛立たしげに刀を突き立てる。――きりがない。刀を振るうことは続けられても、肝心の美玖がどこまで持つかが判らなかった。所詮、影退治は対症療法にすぎない。幅が狭い廊下では動きにくいのも難儀だ。長い刀身が邪魔になる。「衝動」は満ちても美玖が冒されれば意味がない。――そうなれば、影が全て美玖を喰らう。椎名の斬るべき影は居なくなる。――そウなレバ、ツマラナイ。

 右腕の下を、暗闇がするりと通り抜けた。

 ――しまった。

 同時に、銃声。

 音の意味を考える間もなく手首を返し、振り向きざまに串刺しにする。乱暴に刀を振ると、影はそのまま両断されて消えた。

 消えた影の向こうで――胡蝶が真っ青な顔をして、銃を構えていた。

 ――撃ったのか。

 ほんの一瞬、椎名は胡蝶を見た。胡蝶も椎名を見ていた。左腕で美玖を抱えている。美玖は胡蝶にしがみついて、それでも辺りを見回している。廊下の端に蹲った二人。胡蝶の右手に銃。銀色の銃口から薄く煙が上っていた。弾はどこに行ったのか。残念だが影には当たらなかったらしい。当たり前だ。あんなに震えた手では。あんなに怯えた顔では。

 だが、ひたと見据える眼だけは強かった。美玖を抱くのと同じ力で、彼女は引き金を引いたのだ。

 ほんの、一瞬の出来事だった。

 椎名は柄を握りしめた。意識は奇妙なほどに凪いでいる。興奮も歓喜もどこかに消えていた。胡蝶が椎名を見ている。紅い眼で見ている。銃口はこちらを向いたままだ。

 影が目の前を横切った。耳障りな笑い声でようやく我に返る。反射的に叫んだ。

「余計なことしてんじゃねえ」

「でも」

「似合わないモノはさっさと仕舞っとけ――あんたの仕事はそっちじゃない」

「椎名君」

「栗田美玖」

 胡蝶を無視して少女の名を呼んだ。顔を上げた美玖の眼は、影と同じように暗かった。痩せ細った肩が震えている。心は、もうとっくに負けてしまっているのかもしれなかった。今の美玖は、影とは正反対だ。感情がない、ただの空っぽの器。

 時間がない。

 ブリッジに指を引っ掛け、椎名は強引にサングラスを外した。片手で畳んだそれを上着のポケットに放りこみ、虚ろな美玖の眼を見据える。レンズがあってもなくても、視界は相変わらずの暗闇だった。だが、相手からこの紅い眼が見えるか否かでは大違いだろう。

 美玖が瞬きをした。わずかに表情を取り戻した眼が、戸惑ったように椎名を見返す。

「あんただけが病で死んだ。あんたをおいてまだ生きている奴らが憎いか」

 ひらり。

 嘲るように影が舞う。後ろに一歩跳び、嗤い続ける感情のカタマリを叩き斬った。両断された闇の向こうに美玖が見える。胡蝶の両腕に護られた、痩せた身体が見える。真新しいセーラー服が見える。

「わたし、は……」

「あんただけが病気持ちで生まれてきたことが、あんただけがまともに学校に通えなかったことが悔しいか。あんただけが死んだ。あんた以外の人間が――」

 やめて、と、か細い声。だが椎名は黙らなかった。

「憎いか」

「ちがう」

 美玖が声を絞り出す。

「そんな、こと、思ってない……」

「思ったからこいつらが湧いて出たんだろう」

「でも、みんな、心配してくれて、お見舞い、来てくれて……千羽鶴も、お花も、くれて、病院のひともやさしかったし」

「でも理不尽だとは思っただろう」

「おとうさんもおかあさんも、ともだちも」

「代わってはくれなかったんだ」

「わたしは……ちがう」

 ぐっ、と、喉の詰まるような音がした。大きな眼から涙がひとすじ流れた。青い両手が口を覆う。

 指が黒く染まった。

 どろりと、隙間から影が流れ出る。

 胡蝶が小さく声を上げた。

 美玖は目を見開いている。口から流れ出る暗闇を見ている。重力など無視して飛び交っているくせに、ずしりと重い暗闇を。

 指の隙間から、影が湧き出てくる。あとから、あとから。

 美玖は恐怖した眼差しで。胡蝶は必死の表情で。見ている。椎名はただ、再び這い上がろうとする「衝動」を抑えこみながら。見ている。

 漏れ出た影がかたちを作る。それと呼応するように、影と化した美玖の感情が露わになっていく。粘性の影に姿を変えた、栗田美玖の感情。

 剥きだしになったそれは、殺意のカタマリだった。

 読み違えるはずがない。あまりに慣れ親しんだ感情だった。もうとうに、ソレに身を委ねてしまった椎名にとっては。

 表情などないはずの暗闇に、見慣れた表情を見た。切れ長の紅い眼と、三日月形に歪んだ薄い唇――凄絶な笑み。己に巣くう殺人衝動。

 辺りの影が歓声を上げた。

 ぞっとするほど静かだった。

 刀を握る手に力をこめた。

 流れ出た暗闇は、やがてするりと美玖の指から抜け出した。それを見るか見ないかのうちに、美玖が力なく胡蝶のほうに倒れこむ。気を失ったのかもしれない。胡蝶が慌てて抱きなおしたのが視界の隅に見えた。何度も名を呼ぶ声が聞こえる。否、もう聞こえてはいなかった。

 椎名は闇と対峙している。大きいわけではない。サッカーボールほどの大きさの、薄っぺらい小さな闇。だが、その黒は吸い込まれそうに暗い。もうとっくに吸い込まれているのだったか。あの中に居るのは。

 ――これは誰だ?

 殺意のカタマリに、ぱかりと紅い口が開く。

『死ンジャエバ良インダ』

 ――消えるのはあんただ。

 呟いたのは、「椎名」だったか「衝動」だったか。

 ――共喰い。

 自嘲的な一言が脳裏に閃いて消える。

 刀を振り上げたときには、既に「椎名」の意識は途切れていた。

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