零 「刃物は、殺した感触が手に残ります」

「やっぱりな」

 隣で鳩羽はとばが、声を震わせながら呟いた。

 横目で見ると、彼は化け物でも見るような眼つきで椎名を凝視している。否、椎名をというよりは、椎名が提げた血濡れの刀を。目の前に横たわった「死体」が消えていくのに比例して、浴びた血がじわりと消えつつある刀身を。

 椎名は、視線を刀に戻した。見下ろしてみたところで、血曇りした刃に顔は映らない。けれどそのうち血は消える。そしてしばらくすれば、何事もなかったかのように紅い眼が映りこむのだろう。

「どういうことだ」

 相棒の台詞に興味があったわけでもなかったが、とりあえず訊き返してみる。鳩羽の表情は引き攣っていたが、それでも両眼は刀身を見つめつづけていた。血痕を失くしていく刀と同じように、蒼ざめつつある顔。優しげな顔立ちをしているだけに、余計に情けない表情になっていた。こいつは「葬儀屋」などより保育士のほうが向いているに違いない、とどうでも良いことを思う。こんな、血生臭い現場に遭遇する職などよりも。

 だが本来は――「葬儀屋」とて、こんなに血生臭い職ではないはずなのだ。もっと平穏に、それこそ保育士のように、未練を持った魂を宥めすかすのが本職であるはずなのに。

零度の鎮魂歌ゼロ・レクイエム幻影ファントムだ」

 喉に引っ掛かったような声。その横文字が自分と常磐とを示す記号だと理解するまでに、数秒を要した。そしてその意味するところを悟って思わず嘆息する。――常磐が「幻影ファントム」の異名をとっていることは知っていたが、どうやら、とうとう他人事ではなくなってしまったらしい。班室内で同僚が囁き交わす声を聞かないわけではなかったが、その名を直に聞いたのは初めてだった。異名をとったのが幸か不幸か、そんなことには興味がなかったが、ただ客観的に見て不名誉であることは明らかだ。

 ――零度の鎮魂歌ゼロ・レクイエム

 それはきっと、椎名の仕事ぶりを端的に評価する言葉、なのだろう。

 刃先から黒い血が滴る。雫は地面に届く前に、空気に透けて消えていった。

「殺しすぎて離されたって聞いたぞ」

 挑発的な台詞とは裏腹に、椎名を見ようともしない。椎名は表情を変えなかった。もう少し聞いてやるのも面白いかもしれない。

「誰と誰が?」

 鳩羽の横顔に問う。横目で血が消えたのを確認し、無造作に、刀を鞘に仕舞った。「死体」が消えきるには、まだもう少し時間がかかりそうだ。

「お前と常磐だよ」

「元相棒だ」

「二人揃ってあんまり殺しすぎるから上から離されたんだろ――血も涙もない二人組だ」

 椎名は黙って鳩羽を見た。斜め下にある彼の顔を見る角度が、常磐に対するそれと酷似していて嫌になる。そういえば年齢――享年?――も、見たところ常磐と同年輩である。むしろ鳩羽のほうが上なのかもしれない。不気味なほど落ち着き払った常磐と哀れなほど狼狽しきった鳩羽を比べて、椎名は思わず唇の端をつりあげた。

「なにが可笑しい」

 鳩羽が言う。別に、と気のない声を返すと、プライドばかり高い臆病者は吐き捨てるように呟いた。

「化け物め」


 ――鳩羽が常磐に呼ばれたとき、椎名はふと、そのときのことを思い出した。

 常磐の用件など解りきっている。常磐は鳩羽に「死」を宣告し、彼を輪廻の輪に戻してやったのだ。これでめでたく、鳩羽も一般人の仲間入りということになる。

「葬儀屋」としての鳩羽の寿命が尽きかけているということは、常磐が前々から言っていた。椎名でさえ聞いているのだから、鳩羽本人が知らないはずもない。お互いにそんなことを確かめもしない相棒関係だったけれど。

 とにかく、椎名と刀とを見ては恐怖に顔を歪めていた彼は、ようやく「葬儀屋」というグレーゾーンから解放され、ついでに零度の鎮魂歌ゼロ・レクイエムからも逃れることができたらしい。

 そもそもが、中途半端な存在なのだ。死んでいるから生者ではないが、かといって、輪廻の輪に戻る死者でもない。ただ、生死の境目を護るために奉職させられているだけの半端者。自らの「死」に臨む「葬儀屋」の顔は、「死」の処理を行う上司しか見ることができないが、大抵の者はほっとした表情を見せるのだという。だから「葬儀屋」の「死」は、周りにとってはむしろ祝い事として扱われる。純粋にその不在を悲しむことができる、近しい者を除いては。

 椎名にとっては、どうなのだろう。

 或いは当事者たる鳩羽にとっては、どうだったのだろう。

 椎名のほうを見もせずに、硬い表情で席を立った鳩羽は。

 ほっとしたというのなら、なにに対してだったのだろうか。「葬儀屋」からの解放か、それとも椎名からの解放か。「葬儀屋」という組織と椎名という個人が同程度の呪縛として扱われているのなら、それもそれで光栄なのかもしれない。

 そんなことを思っているうちに、内線が鳴った。

 いつもなら無視するところだが、受話器を取ってくれる相棒はもう居ない。手を伸ばしてでも椎名が出なければならなかった。とはいえ、電話の相手も用件も解りきっている。

「椎名ですか」

 受話器を取るなり聞こえてきたのは、思った通りの穏やかな声だった。

「ああ」

「済みましたからきていただけますか」

 常磐はそれだけを言って、一方的に電話を切った。

 椎名は無言で受話器を戻し、緩慢な動作で立ちあがる。いつもの癖で、壁に立てかけた日本刀に眼をやったが、そのあとは意識的に無視した。こんなときまで帯刀していては冗談ではなく病気だ。

 視界の隅で、喪服姿の同僚が二人、掻き消えるように見えなくなった。出勤していったのだろう。――自分もこれから出勤するには違いない、と、椎名は執務室の扉を見ながら自嘲的に唇を歪めた。

 ノックもせずに扉を開けると、見慣れた室内風景が広がっている。部屋をぐるりと囲んだ書架。大きな窓の前にはデスクが二つ。真ん中には、硝子テーブルを挟んで向かいあわせに据えられた臙脂色のソファ。ここはいつもそうだ。椎名が初めて現れたときから、なにひとつ変わってはいない。せいぜいが、書架に収められたファイルの数くらいだろう。それにしても、今時紙の書類だけで仕事をするというのはどうにかならないものだろうか。情報局にはパソコンがひしめいているというのに――。

 臙脂のソファの片方に、常磐が腰かけていた。なにか書類に目を通していたらしいが、椎名の姿を認めると同時、裏返してテーブルの上に置いた。狭霧の姿は見当たらない。

 迷わず、常磐の斜向かいに腰かけた。

 挨拶もそこそこに、常磐が事務的に口を開く。

「先程鳩羽が亡くなりました」

「あんたが連れてったんだろうが」

「そうですね」

 単調に応えると、常磐はにこりと笑った。不謹慎というべきか否か、判断に迷う。

「まあ、貴方としては良かったとも言えますか。四人目の組解消が不可抗力で」

「嫌味か?」

「そう聞こえますか」

 そうとしか聞こえなかったが、常磐は涼しい顔をしている。

 椎名は黙りこんでいた。しいて否定する要素はない。

 椎名の相棒は鳩羽で四人目だった。まだ「葬儀屋」になって数か月にしかならない身としては、常識外れの人数。――一人目の相棒は、他ならぬ常磐だった。それから二人。理由は違えど、いずれ椎名の「衝動」が引き金になったことは間違いない。

 常磐と引き剥がされたのは、二人の「始末」件数が多いことに眉をひそめた御偉方の意向だった。だがあとの二人は、むしろ椎名の元から逃亡したといったほうが正しかった。鳩羽も半分逃亡のようなものだったが、「死亡」であれば、確かに不可抗力には相違ない。

 ふと、テーブルの上の書類が気になった。新しい相棒のデータだろう、と直感した。相棒など付けてくれなくても良いのに、と思うが、規則とやらはそう簡単に変えられるものでもないらしい。独りでやらせてくれたほうが、椎名にとってはよほど効率的なのだが。

「……どうにもいけませんね」

 こちらの考えを見透かしたかのように、常磐はわざとらしく小さな溜息をついた。黒い長髪が、さらりと肩に掛かる。

「不穏です」

「俺がか」

「他に誰が居ますか」

 言って彼は、椎名を見た。白い顔は笑っているが、真紅の眼は冷ややかだった。椎名もつられて眼を細める。唇が歪む。笑っているつもりなのかもしれない。無意識のうちに、言葉が口をついて出た。

「不穏なら最初っからだ」

「最初とは」

「最初も最初。あんたが俺を『葬儀屋』にしたときだ」

「僕がしたわけではありませんよ」

「似たようなもんだろ」

 常磐が、思い出したように微苦笑を浮かべる。彼もあのときのことを思い返しているのだろう。――生前の記憶がないくせに、名前だけは憶えている。身に帯びた武器は物騒な日本刀。思えば、「葬儀屋」として二度目の生を受けた椎名は、初めから例外だらけの存在だった。

 腰の片側に視線を落とした。そこに刀がないことは解りきっていたが、そうせずにはいられなかった。もしかしたら、本来の意味で「相棒」と呼べるのは、あの名もない日本刀だけなのかもしれない。それは、椎名が「葬儀屋」として目を覚ましたときには既に左手に収まっていた刀。長身の彼に合わせてあつらえたような長い刀。手にしっくりと馴染むさまが、どこか心地良くもあり、不気味でもあった。

 あのとき。

 ――ようこそ。

 目を開くなり、そんな白々しい挨拶に迎えられた。目の前で、黒髪紅眼の優男が微笑していたことを憶えている。逆に言えばそれくらいしか憶えていなかった。

 ――僕は常磐といいます。

 優男は、喪服然とした黒スーツと黒ネクタイをまとっていた。長髪を後ろで束ねている。ぼんやりと辺りを見渡すと、ソファセットの周りを大きな書架が囲んでいた。但し中身は本ではなく、黒いファイル。それからデスクと、大きな窓。

 ――ようこそ、「葬儀屋」へ。

 にっこりと笑い、芝居がかった仕草で右手を差し出してくる。差しだされた華奢な手を呆けたように見つめ、特になにも考えずに握り返した。常磐の声も、ほとんど聞こえてはいなかった。なにもかもがぼんやりとしていて、現実味がない。

 訊きもしないうちから、「葬儀屋」の存在を、注ぎこまれた。

 未練を抱えた魂を解放する、生死の番人――。「葬儀屋」としての運命など、もしかしたら言われる前から受け入れていたのかもしれない。だから、いつの間にか自分が左手に日本刀を握っていることも、当たり前のように受け止めていた。そういうことなのだろうか。それとも、指示された運命に抗わなかっただけなのだろうか。脳に霞がかかっているようで、ものを考えるのも面倒だった。全身が倦怠感に包まれていた。

 抗わないからこそ「葬儀屋」に選ばれたのかもしれない、と考えてみる。それもぞっとしないことだ。

 記憶がないことに気づいたのはこのときだった、と、思う。

 自分がとうに死んでいる、ということは漠然と理解していた。だが、生きていたとき自分がどんな人間だったのかはまったくわからなかった。鏡を見なければ、自分の顔すらわからなかっただろう。白紙、と、常磐の言葉を単語で思い出す。すべての「葬儀屋」は、記憶を白紙にさせられる。なぜなのかは、よく解らない。常磐も濁していたような気がする。それとも椎名が聞いていなかっただけなのだろうか。けれどそんなことも、どうでも良かった。意識も感覚もすべてが希薄。嗚呼、これが死んだという実感なのだろうか?

 ――死語名を伝えなければなりませんね。

 常磐はふと、そう言った。

 ――自分の名前が、わからないでしょうから。

 言われた瞬間、はっとした。

 名前。

 霞が晴れたような、気がした。

 眼を見開いたのだと思う。常磐がなにか言う前に、口を開いていた。

 ――椎名。

 相手がわずか眉を動かした。それは、憶えている。

 ――俺は、椎名だ。

 それが、椎名が最初に発した言葉だった。

「……普通は銃なんですよ」

 常磐が声を掛けてきた。

 我に返る。

 ほんの一瞬混乱した。自分はいつに居るのだったか。椎名が「葬儀屋」となったその日か、鳩羽が死んだ今日か。それとも、鳩羽が連れていかれる前か、後か――部屋の内装も常磐の微笑もどれもこれも、あの日から大して変わらない。目印などどこにもない。この部屋は常磐のものだったか、否か。

 テーブルの上に書類が載っているのを見て、ようやく今がいつかを把握した。――どうにもいけない。今日は昔のことばかり思い出す。

 常磐がおもむろに、銀の銃を取りだした。ごとり、と、細身のわりに重い音が沈む。

 銀色の銃身が、蛍光灯の灯りを跳ね返す。それはどこか日本刀の刀身を思わせた。

 丁寧に磨き上げられた銃を眺めながら、常磐が口を開いた。

「僕も銃でした。狭霧も鳩羽も銃です。そして、非常時以外は滅多に使いません」

「……よく言うぜ」

 呟いてみたが、常磐は唇の端に薄い微笑を浮かべただけだった。

 その言葉を信じるのであれば、かつての彼の仕事は「非常」が日常だったということになる。今はどうなのだろう、と思ったが、狭霧がそんな血生臭い仕事をしているようには見えない以上、かつての幻影ファントムはなりを潜めている、といったところだろうか。それともあれは、椎名と組んだからこその相乗結果だったのだろうか。

 新しく「葬儀屋」となった死者は、得物を帯びた姿で目を覚ます。得物といっても飾り物だ。「始末」となれば必要にもなるが、そもそも普通の「葬儀屋」ならば、「始末」自体が稀である。その役割を問うのなら、警察官の銃と変わりない。異常なのは椎名のほうだ。

「貴方は刀でした」

 常磐は、椎名のベルトに眼を遣りながら呟いた。たぶん彼も、そこに刀を見ているのだろう。

「俺だけじゃないんだろ」

「たまには居ますよ。ナイフだとか刀だとかね」

「なら運の問題だ」

「手に残るんですよ」

 唐突に、常磐は言った。腹の内は見せないくせに、今日は妙に饒舌だ。思わせぶりな物言いが腹立たしい。

 すいと手を挙げ、常磐は自分の掌を示した。

「刃物は、殺した感触が手に残ります」

 反射的に、自分の手を見た。骨ばった手に血痕は見えない。当たり前だ。ただ、眼の前の手が幾度となく死者の血を浴びてきたことは、自分がいちばんよく知っていた。

「普通はそれを避けますからね。だから銃なのでしょう」

「俺はそれを避けなかったってか」

「そういう考えかたもできるということです」

 だから不穏なんです、と呟いて、常磐は挙げた右手で書類の束を取り上げた。相変わらず一本調子に微笑ばかり浮かべていたが、心なしか、迷っているようにも見える。どうしたのかと問うより先に、常磐が独り言のように言った。

「刀に慣れると、渋々銃を持たされている者の気持ちが解らなくなりますよ。鳩羽もその類でしたが……彼女はきっと、銃を持ちたくない大多数のうちでも、極に位置するでしょうからね」

「彼女?」

 問うと、常磐は頷きだけを寄越した。そして書類の束のうち、最初の一枚だけを引き抜いて椎名に示す。髪の長い少女の写真が目についた。高校生か、それとも大学生くらいだろうか。まだ眼が黒いところを見ると、生前の写真らしい。

 死後名欄に、「胡蝶」と明朝体で記してある。

「新しい相棒ですよ」

 椎名はたぶん、あからさまに嫌な顔をした。

「ガキじゃねえか」

「年下だというだけでしょう。あとはタイミングの問題です。貴方の相棒が亡くなれば、欠けたぶんは新人が補うのが道理。新人の居場所は、亡くなった鳩羽の場所です。今回は、新人がたまたま貴方よりも年下だっただけの話」

 常磐は微笑みながら、嫌味なほどに丁寧な説明を加えた。そして椎名の表情など見なかったかのように、示した書類を再び引き寄せ、元通りに束の中に戻す。

「明日には来ますから、準備しておいてくださいね」

 有無を言わせぬ様子でにっこりと笑う。整いすぎた微笑は、なにかを抑えつけているようでいつも以上に不気味だった。

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