〈第5葉〉ワゼットの宿屋王

 *前回までのあらすじ*


 日も暮れかけた頃、リンネは橋の上で一人の老人を見かける。老人は釣りをしており、話をするうちに彼の妻が「ムイラ」という魚の匂いが苦手で食べられないという話を聞いた。

 情報収集の好機とみたリンネは一つの賭けに出る。


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 リンネは屈みながら先程ポーチに収めたばかりの試験管の一本を取り出し、老人の目線に持っていった。老人は両目を丸くしてその赤い小粒の実が詰め込まれたびんを興味深そうに眺める。


 その表情に、最初の男が見せたようなおびえの影はない。


「なんだいこりゃ」

「【カリュ】の実。よく香辛料として用いられるチリサルダの近親種です」


 リンネは老人の顔色に勝利を確信すると、自らの持つ知識を諭すように語り始めた。


「チリサルダと違って風味付けにはあまり向きませんが、その代わり、動物性の臭いを消すのには役立ちましてね」

「ははあ、これを使えば臭いが消えるってか」

「ええ、一緒に焼いて戴ければ。三匹なら充分この量で足りると思いますよ」

「へええ、そりゃ知らなかった。……貰ってもいいのかい?」

「はい、ここに来る途中で採取したものですから。多分この村にも生えてるんじゃないかな。この村にはしばらく滞在するつもりですし、……はい、どうぞ。またご報告しますよ」


 カリュの実を両手に受けた老人の顔がほころぶ。リンネは腰を上げながら、老人に微笑み返した。


「お前さん、まるでフリージア先生みたいだなぁ」

 

 フリージア先生。

 

 老人の口から漏れ出たその名前を、リンネが聞き逃すはずはなかった。


「――その人物について、詳しくお話を伺うことは出来ますか」

「あ、いや、その……」


 リンネはこれまでになく強い語気で老人に詰め寄った。老人の方は明らかにしまった、といった表情である。


「何かご存知なのでしょう」

 リンネが追い打ちをかける。多少の無礼は覚悟の上だ。


 老人はしばらく沈黙を貫いていたが、いよいよこの重々しい空気に耐えかねたらしい。慌ただしいみ手をやめると、諦めたかのように一つ大きく息を吐いた。


「……その様子だと、あらかたの事情は知っとるんだろう」

「多少は。彼女のことを話して戴けますか」

「まぁ、旅人さんになら別に話しても構わんか。このなんとかって木の実の恩もある」

「カリュの実です。ご厚意に感謝します」

 革袋を背負い直しながら、リンネは老人に向けて再びほほを緩めた。


「しかし、話すにしてもこんな時間だろう」

 老人が指差したのにつられて空を見上げると、先程まで紫色だった空はすっかり灰色に濁りきっていた。確かに、そろそろ宿を取らなければ野宿を強いられることにもなりかねない。ラジャータ地方の宿が夜半まで営業していないことは以前に訪れた町でも聞いていた。


「立ち話もなんだ、うちに来るがいい」


 それはリンネが明日の予定を頭の中で組み始めた頃になっての、突然の提案であった。


「うち、というと、あなたのですか」

「そうとも。どうせだから、今日釣ったこいつらでもご馳走しよう」

「それは願ってもないことですが……」


 それがいい、そうしようじゃないかと勝手に納得して後片付けを始める老人に、リンネは困惑した。仮にも尋問を仕掛けた身である手前、その村民の家に泊めてもらうというのはいくらなんでも気が引けるというものだ。


「ああ、寝床の心配ならしなくていい。幸い、うちにゃ場所だけは沢山ある」


 釣り竿を肩に掛け、左手の中指にびくを引っかける。背中で語る老人は木箱を橋の向こう側へり飛ばすと、先の仕返しと言わんばかりに振り返って悪戯いたずらっぽくこう告げた。


「ラモザ=アドニス。ワゼットの宿屋王といえばこのわしのことよ」

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