《第0草》芽吹き

〈第1葉〉草原を征く

 ラジャータ地方。この世界で最も大きいとされるロベリア大陸の中央を走るエーデル山脈のふもとに位置する小さな平原地帯である。

 

 センティフォリア王国連合とシトラ王国、イリス共和国という三つの大国にまたがる重要な地域であるが、低木が所々に生えている他は目立った施設も何もない。風が吹けば、高さの整ったくさむらが波のようにたなびく。そんな草の海の中、よどみながらも続く名もなき獣道が横たわっていた。


 道の上を、褐色系のマントを羽織った一人の男が歩いている。薄汚れた革袋を背負ってこのような僻地へきちを歩いているあたり、旅人と見て間違いないだろう。さほど長くない後ろ髪を結わえており、フードの中には玉のように丸まった黒髪が転がっていた。


 歳は二十代半ばといったところであろうか。

 

 男の顔を見て真っ先に目につくのは、やはり顔の左半分をほとんど覆うように張り付いている黒い布地である。眼帯としてはあまりにも大きなそのバンダナは、耳の後ろで実に上手く縛られていた。左目が完全に隠されているだけに、旅人の右目は常に強い印象を放っている。


 このあたりで一般的な碧眼へきがんではなく、丸みを帯びた栗色の瞳。

 目頭のすぐ上に伸びる片眉は顔全体の柔らかな雰囲気を象徴するかのように太く、短い。顔の中心を真っ直ぐに通う鼻筋の下には薄い口髭くちひげが携えられているが、引き締まった口元は草原を一人征く今限りのものだろう。件の布を除けば、いかにも好印象の青年といった容貌である。


 旅人が足を踏み出す度、砂まじりの荒道がきしむ。その振動で、彼の腰のポーチが揺れる。揺れたポーチの横では、吊り下げられた試験管がぶつかり合って乾いた音を立てていた。


 悠久の大空の下、穏やかな時が流れる。耳を澄ませれば遠くの森の鳥の鳴き声さえ聞こえそうな平原の静寂を打ち破ったのは、他でもなく旅人その人であった。


「おおっ」


 突如として上がった歓声に、辺りの小虫が一斉に飛び跳ねた。粛々しゅくしゅくと歩みを続けていたはずの旅人が、打って変わって嬉々とした様子で叢へと駆け出す。適当なところで足を止めると彼はおもむろに背負った革袋を下ろし、中から手の平大の小さな器具を取り出した。


 その器具は金属で出来ているらしく、所々に赤茶けたさびがみられた。細い握り棒の先に繋がる丸い輪の中には小さな白濁色の石が日の光を受けて燦々さんさんと輝いている。旅人は器用な手つきでその石を外し、代わりに腰のポーチから取り出した黄銅色の――今度は明らかに鉱石と思しき石を金属の輪の中にくいとめ込んだ。


 旅人は器具を右目に押し当て、腰を屈めて先の小虫がんでいた丈の短い野草に顔を寄せた。


 一言も発せず、器具の角度を様々に変えながら観察を続ける。無言で平原に往生する旅人を見守るのは、頭上にえ渡る太陽のみ。そんな日輪さえ流雲で顔をくもらせる頃になってようやく彼は立ち上がった。


「……ただの変色した【プランタナス】か」


 あからさまな嘆息。どうやら期待した結果は得られなかったらしい。観察器具を何の抵抗もなく革袋の中に放り込むと、旅人は一つ大きく伸びをした。


「そろそろ着くはずなんだがなぁ」 


 目的地となる村――ワゼット村はまだ見えてこない。


 ふと空を見上げる。雲の具合を見るに、あまり悠長な旅を続けていては一雨被るかもしれない。そう考えて、旅人は砂埃すなぼこりにまみれた革袋を背負った。


 道に戻り、再び旅人は歩み始める。厚底のブーツの砂利を踏み締める音が、実に心地良く響いた。


 ふいに茶色の毛皮をまとった小動物が旅人の前を横切った。何の気なしにその先に目をやると、叢の中に紅一点、実に蠱惑的こわくてきな色彩の花弁が顔をのぞかせていた。


「おおおっ」


 さっきまでの決意はどこへやら、旅人は喜び勇んで脇の叢へと駆けていく。


 こんな調子だから、目的地にはなかなか到着しない。


 この少し風変わりな旅人、名前をリンネ=ライラックと言った。

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