第五話『2069:指紋的迷宮/BBL2069』

 〉〉〉二〇六九年 〉〉〉


 事件の翌朝。

 じとっとした空気の漂う野尻のじり夫妻宅で、警察らによる捜査が始まった。


 騒がしい。警察の鑑識課かんしきかが、家じゅうの指紋鑑定にいそしんでいる。寝室の、四面の広い壁の中には一ヶ所、急峻きゅうしゅんな山々の等高線とうこうせんが無数に連なっているかのような場所がある。部屋の明かりのスイッチを中心に備える、樹脂プレートの硬質面。そこに、ベビーパウダーようの白い粉がまぶされ、大小様々な指紋が浮かび上がる。鑑識官の一人が、ハンディサイズのスキャナーから暗紫色あんししょくの光を照射すると、粉のかれた硬質面は、青白く蛍光ルミネセンスする。そこになぜか……馬のいななき。ヒヒン、と、放射冷却ほうしゃれいきゃくによってんだ空気をつたってくる。開きっぱなしの玄関扉から、聞き覚えのない足音がズケズケと入ってくる。


「えーっと、ご夫妻はあっちかな? 寝室?」


 刑事デカが、先発組の警官から、そう聞き出す。

 すると即時、迷いもなく家の中を闊歩かっぽし始め、一直線に、野尻夫妻の突っ立ている寝室までやってくる。


「あ、野尻……元三げんぞうさんと、佳子かこさんですね? 刑事の横田匡よこたたすくです、どうぞよろしく」

 

 刑事デカ夫妻カップルは、便宜的べんぎてきな握手を交わす。


刑事けいじさん、妙なことを言うようですが、聞き間違いでないなら、さっき馬の鳴き声が……」

「そうよ、ヒヒーン、てね」

 野尻夫妻は、馬のことが気になるようだ。


「ああ、馬に乗って来たんでね。そりゃあヒヒンのひと声やふた声、聞こえますよ。いやぁ、パトカーが足りなくって、騎馬警官きばけいかんの馬を拝借はいしゃくしてきたってわけです、あはは」

 横田刑事は、やけに呑気のんきである。


「「は、はぁ……」」

 と、野尻夫妻は、横田刑事のペースに飲まれている。


「じゃあ、取り調べ……じゃないや、事情聴取といきましょうか。失敬、ここ最近凶悪犯罪の担当が多かったもんで、まるでドラマみたいに怒鳴り散らす取り調べをしてばっかりでね、あはは」


 野尻夫妻は、昨晩黒尽くろづくめの男が侵入した時の様子を伝え始めた。



***



 横田刑事が、野尻夫妻の供述を、やや砕けた表現に直して、

「犯人はごの……いや、今はそういうふうに呼ぶべきでないか? 訂正、犯人は元三さんと同じくらいの背丈タッパ、ガタイをしていたと。挙動は若く、逃げ足もそれなりに速かった——」

 と、復唱する所に、

「横田刑事けいじ! 照合しょうごう結果が出ました!」

 と、鑑識官が横槍よこやりを入れる。

 

「なんだ、もう出たのか! 早いな! で、どうだった?」

「はい、警察庁の犯罪者データベースに登録済みの犯罪者の指紋と照合してみましたが、目立った成果は、無しです!」

「おお、そうか。なら光機能性高分子タイヨウ新聞のデータベースも見てみろ。うちの情報管理部の奴らは怠惰たいだだからな、案外犯罪の報道記事を当たってみると見つかったりする」

「ああ、その手がありましたか。なるほど…………」

「ボーッとせんで、はようしてこいっての!」

「わっ、わかりました! すぐに!」

 横田刑事は、鑑識官をあごで使って、追い返す。


「刑事さん、そこに見えるのは、きっと僕たちの昔の友達の指紋ばっかりですよ」

 元三が、明かりのスイッチのプレートを指差して、そう言った。


「ほぉ、そうなんですか。昔の友達、ねぇ。確かにここは、えらく古風こふうなお宅ではありますが」

 横田刑事は、部屋をざっと見渡して、気遣いのこもった訪問査定をする。 


「ここは昔、寝室じゃなくて僕の子供部屋だったんで、色んな子が遊びにやって来て、そのスイッチを勝手にいじったんです。で、子供部屋ってことで、スイッチはかなり下の方に作ってもらったんですよ。な、佳子」

「そうそう、みんな外で遊んで汚れた手であちこち触ってるものね。懐かしいわ……」

 野尻夫妻は、二人してスイッチの前に寄って行くと、浮かび上がった指紋の数々を眺める。

 そして、じっと体を固めて、過去に思いをせながら、語り続ける。

「普通の高さだと、小学生なんかの身長では手が届かなかったりするので、そのための配慮です。今では、と言うよりも高校、いや中学生になったくらいからは、ちょっと低すぎて、立ったままだと、かがまないと押しにくいんですが、無理な姿勢で押すと……イテテ! こんなふうに腰を痛めちゃいます、あはは」

「ねー。ほら刑事さん、こんなふうに、私の背でも、ちょっと苦しいくらいです。んーよっと!」

 スイッチの押しにくさが、これでもかというほどに、アピールされた。



***



 寝室。

 警察は一時引き揚げとなり、今朝の喧騒けんそうが嘘のようである。野尻夫妻は、指紋の博物館となった部屋を見回して、楽しんでいる。


 佳子が、いつくばるような姿勢で、

「ねぇ元三、知ってた? ここの幅木はばきに何かきざんであるのよ」

 と、部屋の床から壁に沿って立ち上がる木の板に向かって喋る。


 元三も同じような体勢で、

「ん? どれどれ…………『BびーBびーLえる2にー0まる6ろく9きゅう』?。よくわからないけど、それも小さい頃の落書きじゃないか?」

 と、佳子に向かって言う。


「少なくとも私の仕業しわざじゃないけど……」

「俺も、そんなのった覚えはないな……」

「うーん……誰かがイタズラで彫ったのには違いなさそうね。ま、どうせ事件には関係ないわ」

「うん、そうだな」



 結局、横田刑事ら警察は、野尻夫妻宅強盗未遂事件の犯人を特定するには至らなかった。事件は、事実上の迷宮入りとなった。そして、大きな実害もなかったせいか、野尻夫妻の今回の事件への対応は、セキュリティシステムを強化するのみにとどまった。


 〈〈〈 第六話『2052:ニケの手巾』へ〈〈〈

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