第九話『2069:マン・イン・ザ・ミラー』

 〉〉〉二〇六九年 〉〉〉


 だだっ広く、陰気な部屋。

 クイーンサイズのベッドの枕元に、アンティークの箱型ナイトテーブル。テーブルを覆うようにして、男が、猫背で膝立ちしている。その上には白い柱をなまめかしく伸ばす流線型りゅうせんけい燭台しょくだいがあるが、男の大きな背中によって、ほとんど隠れてしまっている。男の肩越しに見える蝋燭ろうそくの薄明かりが、ゆらめきながら、部屋の数箇所に反射している。数箇所というのは……


 一つ、床。

 やや光沢のある床の、何か大きくて重いもの——それは恐らくベッドである——が引きずられてできたと思われる傷跡が、傷がない箇所とは異なる光の反射率のせいで、悪目立ちしている。


 二つ、幅木はばき

 壁の下部、端から端に細長く伸びる幅木は、刃物で彫られたできた白っぽいあとのせいで、墓石だか、表札だかのように見えなくもない。痕は、"BBL2069"と読める。


 三つ、姿見すがたみ

 蝋燭ろうそくの火は、少し離れたところにある、大きな姿見すがたみに、男の虚像きょぞうが映し出されるのを、かろうじて可能にしている。


 姿見に写った男の肩が、小刻みに揺れる。揺れるのは、男が、ナイトテーブル上に残されたごくわずかなスペースで、時代遅れの道具——紙とペン——を用いて、何やら書き殴っているせいである。ペン先の球体からにじみ出たばかりのインクの文字たちは左右が逆さになっているので、一目見ただけでは、その全体としての意味を読み取るのが難しい。


 文字の左右がひるがえる。


 文字のひしめ便箋びんせん

 紙面をよく見ると、ところどころ、黒くにじんでいるのがわかる。その滲みよりもやや薄い黒が、男の右手、小指の延長の手のひらの側面を、染めている。それは、男が、インクに乾くすきも与えずに、とどまることなく手を動かし続けていることを意味する。


 紙とインクは、それを見る者に、このように示している。


 俺は今、あの日の夜、佳子かこにかけた言葉を、「男の子でも女の子でも、佳子との子なら、どんな子でも、一生、愛せるよ」という言葉を、反芻はんすうしている。それはなぜか。俺は、自分自身に、性格には十年後の未来の自分に、ひどく失望したからだ。俺は、そんなことを言っておきながら……その言葉に反して、ではあるが、障害を抱えて生まれる予定の我が娘、結衣奈ゆいな厄介者やっかいもの扱いし、ガイジなどと呼び、首を絞めて殺そうとし、子供なんてまたつくればいいとさえ考えた。過去だろうと現在だろうと未来だろうと関係ない。俺という人間は無責任であり、卑劣ひれつであり、潜在せんざい的殺人未遂犯である。いや、過去を改変して娘の存在を消すというのは、事実上の殺人犯にもなりうるのだろうか? 俺には法律の知識などないし、そんな高度な法律はそもそも現在には、存在していないのだから、判断のしようもないが……まぁ、法律なんていう人間が作り出した仮初かりそめの、不完全な規範に意味はない。俺が、実の娘に対して、その存在をなきものにしたいという気持ちをほんの少しでも抱いた時点で、その事実のみが重要視されるべきであって、その後に法律上どのように処罰されるだとか、そんなつまらない事務的な内容ははっきり言ってどうでもいい。未来に起こる揺るぎない事実のみから判断すれば、俺は、どうしようもない人間だ。俺は、どうやら今は未だ化けの皮に包まれているらしい自分の本性を知って、激しい自己嫌悪におちいった。そうだ、結衣奈は……どんな顔をしているのだろう。未来の俺は、せめて、手紙の中に、娘の写真の一枚でも同封してくれたらよかったのに……いや、俺にそんな望みを言う資格はないか。俺に、親としての資格も資質も、ないのだ。だからこそ、これからまた子をもうけてやろうなどと、思えるはずもない。俺にはもはや、こうして生きている資格さえ、ないのだろう。俺が結衣奈に向けた毒手どくしゅは、俺自身に向けられる方がずっと相応ふさわしい。繰り返す。毒手が向けられるべき人間は、他でもない、俺、野尻元三である。俺がいなければ、佳子は俺との子を生みようがない。俺が消えることを最後に、それ以上の悲しみは佳子をはじめ、俺の周りの人間に訪れない。つまり、この先俺が取ろうとしている選択は、自罰じばつであり、公共の福祉がため画策された死アポトーシスである。いや…………待て。俺は一旦このいにしえの文具を使って己の不安定な感情を世に晒すのをやめて、に先立ってしておくべきことがあるのではないか? というのは……美樹仁に会うこと、だろう。随分と長い間会っていないが……今、会うべきだろうと感じた。いや、というよりも、俺は、美樹仁に会いたい。美樹仁は、ここ最近起こった現象の、関係者には違いない。美樹仁を事件に巻き込むことにはなるが、今更何をしようと俺が無責任で卑劣で犯罪者予備軍であることには変わりないのだから、できることはしよう。そうだ、すればいい。他人ひとに迷惑をかけてでも、前に進んだ方がいい。この心の内に渦巻く、靄靄もやもやを、これ以上、一人で抱えるのは不可能だ。もう、限界だ。この件は、佳子に話せるような内容でもない。佳子に話せば、きっと、俺のことを、軽蔑けいべつするだろう。もちろん警察にもこんなことは言えない。だから俺は、美樹仁に会って、事件について、タイムマシンで現代にやってきた未来の俺のことについて、全て、包み隠さず、話そうと思う。それによって全てが解決するとも思えないが、少なくとも今の俺にできることは、それが、精一杯なのだ。



 この、元三の内面がありありと反映されたものが、紛れもなく、元三自身の自殺をほのめかす文書、つまりは、「遺書」であることは、否定するまでもなかった。


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