第22話 挑戦
朝、涼夏は顔に受けた日差しで目を覚ます。肩にかけられていたブランケットをうっとおしそうに除けると、窓辺に立つ蓮美と目があった。
「起きました?」
「ん……ああ」
大あくびをしながらぼんやり頭を掻くと、体中にじっとりとした汗を感じて、顔をゆがめた。
「その前にシャワー貸してくれ」
「シャワー!? い、いいですけど……家で入って来なかったんですか?」
「入ってたら下着買ってこねーわ」
「それはそうですけど……って、ここで脱がないでくださいっ!」
蓮美は、おもむろにシャツを脱ぎ始めた涼夏を大慌てで廊下の脱衣所へ押し込む。
「シャンプーとか、適当に使っていいですから」
「おう。あと脱いだ下着洗濯しといてくれ」
「持って帰ってください!」
「汚れた下着持って大学行くやつ見たこと無いわ」
「それもそうですけど……」
釈然としないながらも、仕方なく洗濯籠の場所を指さして部屋へ戻った蓮美は、ドアを閉めるなり大あくびをする。どことなく虚ろな表情には、目の下にうっすらとクマができていた。
(結局……朝までやっちゃった)
どこを見つめるでもない視線は、昨晩よりもいっそう散らかったテーブル周辺の五線譜に注がれる。これだけの枚数を重ねても、蓮美の頭の中にはまだ、しっくりとくる〝音〟が響いていない。
それほどまでに原曲の完成度が高く、何をやってもグレードダウン版にしかならないのだ。
(この曲をあの向日葵って人が書いたのなら……本当にすごい人だったんだ。涼夏さんは、そういう人のところでバンドやってたんだ)
そんな人に選ばれたという喜びと、一方で、期待に応えられていない不安。
その積み重ねが、今目の前に広がっている光景だと言っても過言ではない。
(音……出したいな)
視線が部屋の隅の楽器ケースへ向く。流石に住宅街のど真ん中のアパートで、思う存分楽器を吹き鳴らすことはできない。これが実家のある北の田舎なら、多少は選択肢があるものだったが、無いものねだりはできない。
蓮美は、散らばった五線譜をプラスチック製の書類ケースに詰め込んで、通学用のトートバッグに突っ込む。それから、クローゼットから今日着ていく服を見繕い始めた。
(いろいろ考えこんじゃったけど、私がやらなきゃいけないことは、わかった気がする。ううん――)
声を出さない自分の問いに、ふるふると首を振る、
(――私の、やりたいこと)
* * *
大学が終わって、三号スタジオにバンドメンバーは集合する。いつも通りの練習のつもりだったが、涼夏は、蓮美の勧めで昨晩の話をほかのメンバーにもすることになった。
「曲を貰えるのも、ステージを用意してくれるのも、ありがたいことじゃないかな? 時間がギリギリなのが気になるけれど」
「東京……は、少し怖い……です」
比較的乗り気の千春と、心もとない緋音。おおむね、蓮美の想定した通りの反応だった。
「ひとまず、これで一万円は無しです……無しだね?」
「ああ……まあ、そうだな」
涼夏は、不機嫌そうな顔で頷く。そもそも、改めてメンバーにこの話をするのも億劫だった。彼女の心は、どちらかと言えば、はじめから断る方に向いていたのだ。このまま胸の内にしまい込んで、無かったことにしてしまうのが良いと思っていた。
(なんで、コイツに言っちまったかなぁ)
浅はかな昨晩の自分を恨みつつも、罰金の約束をした直後であったこともあり、ここは折れることにした。話すだけなら大したことではない。問題は、話した結果、バンドとしてどういう決断を下すかだ。
どう話を進めようか迷っていたところに、蓮美が言葉で割って入った。
「とりあえず、練習しない? ほら……昨日は、満足にできなかったし」
「おや、蓮美ちゃんがやる気だ」
「わ、私はいつもやる気だよ……昨日、新しいアレンジを考えたんだ。だから試してみたくって」
蓮美に促されるようにして、その日の練習は着々と進んでいった。今はまだ、当面の目標のステージがあるわけではないが、このバンドなりのスタイルにできるだけ早く手ごたえを得ることが何よりも大事だった。
特に、要である蓮美は、練習中も手製の楽譜に向かって修正を何度も繰り返している。しかし、まだしっくりこないようで、試しに合わせてみては首をかしげるばかりだった。
(千春ちゃんは、流石の腕。ドラムも相当難しいはずなのに、危なげなく演奏してる。涼夏さんも相変わらず……力強い演奏だけど、それ以上に演奏が正確。ピタリと譜面通りに――あれ?)
違和感を覚えて、蓮美は涼夏を見た。
「涼夏さんって……その、おん――歌は得意じゃないのに、演奏は譜面ピッタリだよね。揺らぎが無いっていうか」
「あ? そりゃ、譜面撮りに演奏してるからな」
「え……あ……うん、そう」
奥歯に何か挟まったような気持ちの悪い感覚に、彼女はただ眉をひそめるしかない。
耐えかねるように、千春が苦笑する。
「たぶん涼夏さんは、相対音感は強いけど絶対音感が弱いんじゃないのかな」
「あ、ああ……そういうこと……?」
蓮美は、半分だけ納得したように頷く。
鳴っている音が何の音かを感知するのが絶対音感であるのに対し、音階を理解するのが相対音感だ。前者は音を個別で理解しているので、狙った音とずれていると感じたら、おのずと調整を行うことができる。
一方で後者は、直前の音との音程差で音階を理解しているため、どこかで一度音を外すと以降すべての音が数珠つなぎで外れ続ける。
「チューナーで調律さえ済ませりゃ、抑える場所と弾く弦を間違えなきゃ音はズレない。だから楽譜通りに弾きゃ、間違えることはない」
「でも……その割には、パワフルというか、野性的というか」
「知らねぇよ。こっちは、書いてる通りにやってんだ」
「そう……ですか?」
蓮美が腑に落ちないのが、まさにそこだった。涼夏の演奏には、確かに涼夏らしさというか、味がある。決して、楽譜通りの機械的な演奏ではない。それでも本人が「楽譜通り」を主張するのであれば、原因として考えられるのはふたつ。
ひとつは、涼夏の無意識や癖によるもの。
もうひとつは、涼夏の良さが最大限に活かされるよう、はじめから楽譜に仕込まれていること。
(たぶんだけど、後者……だよね。でも、だとしたら……どうして解散になんか)
胸の内がもやもやとした。楽譜に挑めば挑むだけ、サマバケにとって、そして涼夏にとっての向日葵の存在の大きさを見せつけられた気分になる。音楽と向き合っているはずなのに、いつの間にか、あの吸い込まれるような瞳と向き合っているかのような――
「相変わらずパッとしない演奏ね」
「げ」
音もなく部屋に現れた影に、涼夏が眉をひそめる。
いつの間にか壁際に座って退屈そうに練習を眺めていた向日葵が、大きなあくびをした。
「イベントの打ち合わせじゃねーのかよ」
「接待してくれるらしくって夜からなのよ。日中は暇なの」
「じゃあ、旅館(ウチ)で寝てろよ」
「ダリアが、せっかくだから観光したいって」
「なら、観光してろよ」
「今、上で中古のCD漁ってるわ」
「ああ……タツミさんのコレクション、ニッチなとこ揃ってるモンなぁ」
反発していた涼夏は、それならしょうがないと、手のひらを返して頷いてしまう。まさしく今、ダリアは一回の店舗の方で、半分店員の趣味で揃えられたワゴン売りの中古CDコレクションを前に、目を輝かせていた。
そんな向日葵の登場を、誰よりも待っていた人物がいた。蓮美だ。待ちわびていた相手ではあったのに、いざ目の前にすると、ヘビに睨まれたカエルのように躊躇してしまう。
(それでも決めたんだ。バンドと……涼夏さんのために、私ができるイチバンのこと)
意を決して、蓮美が歩み出る。向日葵を見下ろす距離で立ち止まると、相手も流石に怪訝な顔で蓮美を睨み返す。
「何?」
「あの……お願いがあります」
蓮美は、振り絞って声を上げると、勢いよく頭を下げた。
「私たちに、曲を書いてください」
「はい?」
突然の申し出に、向日葵はきょとんとして明後日の方向を見上げる。それから「あー」だの「うー」だの考えを整理しながら立ち上がって、もう一度蓮美を見る。
「それってつまり、アタシが涼夏に言った条件を飲むってこと?」
「おい!」
すらりと伸びた身長差で、今度は蓮美が見下ろされる格好になる。涼夏も黙っていられず、蓮美の小さな背中に怒声を浴びせた。
「勝手に話を進めんじゃねぇよ!」
「違います。向日葵さんの施しを受けるのがイヤなのは、私も十分承知してます。だから……必要なものは、与えられるのではなく、勝ち取ります」
涼夏にすごまれながらも、蓮美は毅然とした様子で凛として立ち振舞う。
「向日葵さん、私と勝負してください」
「勝負?」
「この間、ライブで……正直、失敗だったあの曲で」
「……へぇ?」
向日葵の表情から、すっと感情が消える。無表情の瞳にさらされて、蓮美は背筋が凍る思いだったが、ここまで来て引き下がるわけにはいかなかった。
涼夏が、固唾をのんでその様子を見守る。
「私が勝ったら、私たちに新曲と、それを演奏するステージをください」
「……負けたら?」
「そもそも、曲を書いていただく実力すらないということです。辞退します」
「……ふん。それじゃあ、アタシに何の得もないじゃない」
向日葵は、目は笑わないまま口元だけ笑みを湛えると、ちらりと涼夏のことを見やる。
「……じゃあ、アタシが勝ったら涼夏を貰う。それなら受けてあげる」
「は?」
「わかりました」
「はぁ?」
狼狽える涼夏を他所に、蓮美と向日葵は本気の火花を散らしていた。いや、厳密には、これは蓮美の挑戦だ。自分が涼夏の隣で演奏するのにふさわしい演奏者であるのかどうかを証明するための――
(――それが私の、やりたいこと)
もちろん、負けるつもりはさらさらない。
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