第21話 チューハイの苦み
同じ日の夜、アパートの部屋で音楽を聴きながらローテーブルに向かっていた蓮美のスマホに、一通のメッセージが入る。通知を開いた中身に目を通した彼女は、ぎょっとしてその場に立ち上がった。
しばらく唸り声をあげながら部屋の中を右往左往してから、覚悟を決めたように変身を打つ。送信ボタンを押した後、自分の身なりがほとんど下着に近い状態だったのに気づいて、慌ててクローゼットからシャツとパンツを引っ張り出した。
そうこうしている間に部屋のチャイムが鳴る。髪の毛が下したままぼさぼさの状態だったが諦めて、足早に玄関に向かった。
「よう」
扉を開けると、涼夏が立っていた。蓮美は扉を押し開いた格好のまま固まって、視線を宙に泳がせる。
「ほんとにきたんで――ああ、いや、来たんだね」
「これ土産な」
涼夏は、飲み物やお菓子の入ったコンビニの袋を押し付けるように手渡して、彼女を押しのけるように部屋の中に入っていく。
「あっ……ちょっと! 今、散らかってて――」
「構わねぇよ。女の部屋なんてどこだって変わんねぇ」
蓮美の静止を押し切ってワンルームの扉を開けた涼夏は、目の前に広がっていた惨状を目の当たりにして言葉を失った。脱ぎ散らかした服や化粧品、教科書やプリントなどの大学の道具、そして小説らしい文庫本が部屋中に散乱している。
ゴミは散らばっていないので掃除はしているようだが、整頓が全くできていない典型的な部屋だった。
「あはは……最近、忙しくって……」
「ま、まあまあ普通だろ」
涼夏は、散らばった衣類を足で部屋の隅に除けて自分の座る場所を確保する。その間に、蓮美は貰った袋の中身を冷蔵庫へとしまい込んだ。
「ちょっと、これ、お酒じゃん」
「別に良いだろ。大学生なんだから」
「そうじゃなくて、原付で来たんだよね? 帰り、どうするの……?」
「今日、泊ってくから」
「は? ……って、ぎゃっ!」
蓮美が鈍い悲鳴をあげる。お菓子だと思って袋から引っ張り出したものが、コンビニで売ってる新品の下着だったからだ。
取り落としたパッケージを拾い上げると、涼夏の顔面目掛けて叩きつける。
「こういうのは自分で管理してください!」
「わりー、忘れてた。てか、お前、また敬語」
床に落ちたそれを拾い上げるついでに、涼夏の視線が辺りに散らばったプリントのようなものに向く。授業プリントだと思っていた紙の上には、等間隔で並んだ五線譜とオタマジャクシが記されていた。
よく見れば、部屋の至る所に似たような紙が大量に散らばっている。そしてローテーブルの上には、今まさに書きかけの五線譜が広げられていた。涼夏は手に取って目を落とす。
オタマジャクシの羅列を目で追いながら、感心したように頷いた。
「ふーん、まだ編曲やってたのか」
「だって……ライブの演奏が納得いかなかったから」
「お前、音楽に対しては意外と頑固だよな」
「涼夏さんほどじゃないけど……で、お酒、飲むんですか?」
「レモンチューハイ」
「レモンチュー……あっ、これか」
蓮美は、缶の群れの中からレモンのパッケージの一本を引っ張り出すと、他の缶もざっと見比べる。グレープフルーツにブドウにリンゴに――全部が一本ずつ種類の違うチューハイばかりだった。
「飲みたきゃ飲んでいいぞ」
「え゛? い、いや、いらない」
蓮美は大げさに首を振って、ピッチャーに作ってあるジャスミンティーを流しの脇で乾かしてあったコップに注いでテーブルへと持って行く。
「はい、どうぞ」
「おう、乾杯」
涼夏は手早く缶を開けると、蓮美のコップに軽く当てる。ゴクゴクと大きく四口ほどを飲み込んで、これ見よがしに息を吐いた。
「ぷはー! やっぱこれだわ」
「……美味しいんですか、それ?」
「いや、旨くはない」
「美味しくないのに飲むんですか?」
「お前、相変わらず敬語――まあ、宿代わりに罰金免除にしてやるか」
話を遮るように缶を傾ける。蓮美は、はぐらかされたのに気付いて仕方なく話題を変えることにした。
「家にいなくていいんですか? 昼間のあの人たち、お家に泊まってるんですよね」
「向日葵ならあたしの部屋で寝てんだろ、たぶん」
「涼夏さんの部屋!?」
「驚く要素どこにあったよ」
「あ、いや、いろいろと……」
しどろもどろの蓮美を他所に、涼夏は再び缶の中身を煽ると、空になった缶を握りつぶして立ち上がる。
「そういうわけで、部屋奪われたから今日は泊まるわ」
「もう飲んだんですか……はや」
冷蔵庫から新しい缶を取り出すついでに中身を漁ると、ラップされたほぐしサラダチキンを見つけて、一緒にあったドレッシングのミニボトルと一緒に取り出す。
「いいモンあんじゃねーの」
「あ、それ明日の朝ご飯用……!」
「飯なら学食で奢ってやるよ。あそこ、朝定もあるんだぞ」
「もう……絶対ですよ?」
ほぐしチキンに雑にドレッシングをぶっかけて、行儀悪く指でつまんで口に運ぶ。タンパクな身にほどよい塩味と酸味と油が、つまみとしては最適だった。
「それにしても、連絡するのが私だなんて……涼夏さん、他に友達いないんですか?」
「大学はダチ作りに行く場所じゃねーんだよ、タコ」
「それ、本気で言う人初めて会った……別に大学の人じゃなくても、その、昔の友達とか、バンド関係の人とか」
「昔の知り合い=バンド関係の人=サマバケメンバーだよ。向日葵はアレだし、もうひとりも県内には居ねぇ」
「友達居ないんですね」
「喧嘩売ってんだろ」
涼夏に睨まれても、そろそろ睨まれ慣れてきた蓮美は素知らぬ顔でテーブルの周囲の五線譜を片付け始める。
「んで、納得いく編曲はできたのか?」
「いえ……まだ全然。元々、吹く専門で、こういうのは得意なわけじゃないですし」
「……だろうな」
蓮美が、手を止めて涼夏を見る。珍しく諦めたような物言いに驚いたからだ。
「あれはサマバケの曲だ。あたしらの曲じゃねぇ」
「……なんか、らしくないですよ」
怪訝な顔で見つめる蓮美から、涼夏は目を反らしてチューハイを煽る。
「……向日葵から東京に来ないかって言われた」
「えっ……う、受けたんですか?」
「馬鹿、断ったよ。そしたら今度は、曲作ってやるって」
「はぁ」
「代わりに、自分たちのライブの前座に出ろってさ」
「う……それは……そこはかとなくイヤですね」
「だろ!?」
嫌な顔を浮かべる蓮美に、涼夏は食い気味に同意する。蓮美は驚いて身体を反らすが、やがて涼夏を押し戻すように、元の位置に戻る。
「でも、悪い話ではない……ですよね? 曲ない問題も解決して、ステージだって与えてくれる」
「そこなんだよ。ただひとつ、向日葵から与えられるってのが気に食わねぇ」
「あの人のこと嫌いなんですか?」
「嫌いも嫌いだ。サマバケを終わらせた女だぞ。でも――」
涼夏は、口元に運ぼうとした缶を下ろして、代わりにその飲み口を見つめるように視線を落とす。
「あいつのギターと演るのは気持ちが良かった。アレがなけりゃ、あたしは音楽を辞めてたかもしれない」
過ぎた日を懐かしむように語る。初めて見せる優しい表情に、蓮美の胸の内がチクチクと焦燥感に似た思いで掻き立てられた。
「……涼夏さん、ほんとに東京に行っちゃわないですよね?」
不安が溢れそうになって、すがるような眼を涼夏に向ける。しかし視線の先で、涼夏は壁に背を預けるようにして、静かな寝息を立てていた。
「寝てるし……」
置いてけぼり食らった気分で、憎らしいやら、情けないやら、ムカつく気持ちをぐっとこらえて、彼女の手から飲みかけのチューハイをそっと取り上げる。テーブルの上に置こうとして缶をしばし見つめた彼女は、おもむろに口元へ近づけた。
飲み口を食んで、恐る恐る缶を傾けると、炭酸と一緒に口の中いっぱいに作り物の果物の甘さと、アルコールの苦みが広がる。
「……美味しくない」
顔をしかめながらつぶやいて、蓮美は缶を流しに置く。それから涼夏の肩に薄いブランケットをかけてあげて、再びテーブルの上の五線譜へと向かった。
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