第23話 怪物
蓮美が持ち掛けた勝負は、翌日、向日葵たちが新幹線で東京へ帰る前に行われることになった。決戦の地は、いつもの三号スタジオ。それほど広くない部屋の中に六人もの人間が集まると、少々狭苦しく感じられた。
それまでこのバンドでは使われることがなかったギター用エフェクターに、向日葵の持つESPホライゾン七弦ギターが繋がれる。
「随分、攻撃的な獲物に変えたじゃねぇか」
「今はギブソンじゃ優しすぎるのよ。サマバケの音と変わるけど、無いものは無いんだから、我慢しなさいよ」
向日葵は、涼夏へ軽口を叩きながらもチューニングを済ませると、準備運動と言わんばかりに短いリフを奏でる。流れるような手つきから放たれた存在感のある音に、部屋中の視線が彼女へ向く。
そのうちのひとりであるダリアは悔しそうに唇を噛んで、部屋の隅でふてくされていた。
「なんで向日葵さんのギターに、自分のベースじゃないんすか」
「馬鹿ね。勝負なんだからギターとボーカル以外は同じ面子じゃなきゃ意味ないでしょ」
「だったら、ベースはダリアでも……」
「涼夏じゃなきゃ意味がない。コイツに選んでもらうんだから」
「は?」
涼夏が、いぶかし気な表情で振り返る。
「お前な、何もかも勝手に決めてんじゃねーよ」
「あら、勝負の方法なら、ちゃんと蓮美と相談して決めたわよ?」
「は……はい」
向日葵の視線にさらされて、蓮美は縮こまりながら頷いた。涼夏が呆れた溜息を吐く。
「それじゃあ、ウチのバンドに有利な判定出せんだろうが」
向日葵は、挑戦的な笑みで返す。
「絶対にそんなことしない。音楽に対して正直なアンタなら」
涼夏は、気難しい顔で黙りこくる。それが無言の肯定だということは、向日葵も蓮美もよく分かっていた。
「準備も済んだし、先攻は貰うわよ」
「はい……どうぞ」
「ふ……後攻で安心したとか思ってないわよね?」
「そんなことは」
「こういうのはね、先手必勝なのよ。いい音は、最後まで耳に残り続ける――」
向日葵の目配せを受けて、千春のドラムがビートを刻む。
続くように、即席のメンバーながらも完璧なタイミングで、向日葵のギターと涼夏のベースが立ち並ぶように音を弾けさせた。
最初のフレーズから、人の心を引き付けるには、十分すぎる響きだった。蓮美と緋音のふたりは息を飲んで瞬きも忘れて耳を傾け、ダリアはふてくされていたのも忘れて身を乗り出すように音に身を委ねる。
前奏を終えて、向日葵のボーカルが入る。堂々とした立ち姿をそのまま響きにしたような、低く、落ち着いた声色。ハスキーボイスとも違う、胸の奥そこから響く魂の歌声が、ソウルフルなギターとベースに溶け込む。
まるで、ボーカルもそういう楽器のようだ。
(これがサマバケ……本物の)
蓮美は、ただただ圧倒されていた。幹線道路の中州に取り残され、右も左も高速の車が走り抜けていくような、音の洪水に飲み込まれていた。
先手必勝。向日葵が売り文句で言った言葉を、真っ向から食らった気分だった。耳に残るのは審査員ばかりではない。対戦者にとっても同じことだ。自分より上手い演奏を目の前で浴びせられ委縮する。ちょうど、中学のころのコンクールで似たような経験があった。
全国大会を賭けた演奏会の場で、直前の団体が全国常連の強豪校だった。蓮美の中学も強豪ではあったが、それは地方大会単位での話だ。全国大会となると、何代かに一度、いわゆる〝黄金世代〟と呼ばれる代で果たせるかどうかといったところ。この辺りは、中学進学に関して受験に頼ることをまずしない地方の性というやつだ。
(これはなかなか……振り落とされないようにするのがやっと)
同じように、欠員を補填するためにドラムを担当することになった千春も、より近いところで蓮美と似たようなことを感じ取っていた。向日葵も涼夏も、リズムやテンポが乱れることはない。しかし、気を抜けば置いて行かれる――そんな焦燥感を振り払うように、一心にスティックを振るう。
「――ふぅ、こんなもんね」
一曲を弾き終えて、向日葵は涼しい顔でさらさらの髪を振り、なびかせた。三分あまりの曲が、ほとんど息を吸って吐くまでの間に終わってしまったかのような没入感だった。
「お前、リフが少し雑になってないか?」
「六本弦だった曲を七本弦で演ってるのよ。大目に見なさい」
涼夏と軽口を叩きあう向日葵は、双眸を蓮美へと注いだ。
「さ、あなたの番よ」
その表情に、後続の挑戦者に対する不安など一切ない。既に勝ちを確信した自信に満ち溢れていた。
先の演奏に、この表情。常人ならば、立つことすらおぼつかない、不安の渦に飲み込まれることだろう。しかし、その一点においては、蓮美は挑戦者としての矜持を持つのにふさわしい経験を経ている。
全国をかけ、強豪校の直後に演奏することになったその大会で、彼女たちの中学は見事勝利を収めているのだ。
(でも……私の作ったアレンジじゃ、さっきの演奏には勝てない)
後に演奏する者が胸を張ることができる理由はただひとつ。自分の演奏が、相手よりも上手いという自信がある場合に限ったことだ。蓮美は、冷静な視点で、これまでの演奏では向日葵に勝つことができないと、疑いようもなく理解した。
向日葵と立ち位置を入れ替わり、手書きの楽譜を広げ、チューニングなどの準備を進めている間、頭の中では必死に考えを巡らせている。
「蓮美」
声がして、蓮美ははっと振り返る。視線の向こうに、いつもの仏頂面の涼夏の姿があって、彼女は「あ……」と言葉なき声を溢す。
「演奏の前に視線を交さないバンドは無い」
「あ……はい」
言われて涼夏、千春、そして入れ替わりにボーカルに立った緋音と視線を交す。自分の勝負――わがままに付き合わせた仲間たち。正直なところ、まだ「最高のメンバー」と言えるほどの関係は蓄積できてないけど、自分にもう一度演奏する場を与えてくれた人々だ。
その人たちのために……いや、違う。蓮美は、そんな大それた名目でここに立っているわけじゃない。
向日葵と勝負をするため。
向日葵よりも、自分の方が涼夏を引き立てることができるのを証明するため。
そのために、ここに立っている。
(だったら……私たちの〝最高〟は、とっくに答えが出てる、よね)
蓮美は、広げた楽譜をファイルごとぱたりと閉じた。それから、気づいて心配そうに身を乗り出した千春を振り返って言う。
「千春ちゃん、スウィング」
「おっ?」
「出だしは私が入るので、涼夏さん、上手く合わせてください」
「……何する気だ?」
「緋音さんは……えっと、いつもの感じで入って大丈夫だと思います」
「えっと……はい」
次いで、涼夏と緋音にも指示を下すと、大きくひとつ深呼吸をして向日葵に向き合う。それを開戦の合図と認めて、千春のドラムが再びビートを刻んだ。
すぐに、向日葵の眉がぴくりと反応する。蓮美のサックスがドラムに乗ったことで、彼女の中の違和感は、すぐに核心に変わった。
(ジャズアレンジ……?)
なるほど、サックスをメインに据えるなら、納得もできる方針だ。しかし、付け焼刃のジャズアレンジに〝ホンモノ〟が敗けるとは、向日葵も思っていない。
(小手先の技術で奇をてらった程度じゃ――)
(――なんて思ってる顔してるよね)
そんな向日葵の心中なんて、蓮美はお見通しだ。優秀な演奏者だからこそ、当たり前のようにそう思うハズ。しかし、蓮美がこの土壇場でジャズアレンジを選んだ理由は、別のところにある。
(私が欲しいのは、自由)
サマバケの枠の中で戦っても、オリジナルである向日葵には決して敵わない。生の演奏を聴いたからこそ、蓮美は、より鮮明にそのことを理解した。
だからこそ、彼女は曲の持つ〝サマバケ〟らしさを破壊することを選んだ。そのためのジャズだ。
ジャズは、音楽による対話と言われる。もちろん楽譜は存在するが、一連のコード進行さえ外れなければ、その場の環境やメンバーの顔色、ノリで自由な即興を繰り広げていく。むしろ即興こそが、ジャズという音楽が持つ特異性である。
蓮美は、このバンドに於いて、自分が一番楽しいと思う瞬間を再現しようとした。
あれはそう、雨の日の放課後に女子トイレで涼夏と演奏した時の――
蓮美のサックスが、唐突に原曲にはないフレーズを奏で始める。もちろん、意図的なものだ。確信犯だからこそ、事前の目くばせはなく、やっちまった後に事後報告で涼夏に視線を向ける。
涼夏は、悪びれる様子のない蓮美にムッとして、激しめのリフを挟み込んだ。同様に、事前の目くばせはなく、弾き終えてからドヤ顔で鼻を鳴らす。
煽られ、煽り返し。
また煽られ、さらに煽り返し。
何度かやり取りを続けていくうちに、やがて〝即興〟は重なり、ひとつの音楽になる。
かろうじて、緋音のボーカルのおかげでサマバケの曲であるという体裁は整えられていたが、正直なところ、もはや全く別のナニカになっていた。
(め……メチャクチャすぎる)
向日葵も、ダリアも、サマバケを知る人間からすれば外道も外道。ほとんど引きつった顔で、蓮美たちの混沌とした音楽を聴いている。しかしその視線は、蓮美と涼夏――いや、いつしか涼夏の表情に注がれていた。
(アイツ……あんな表情で演奏してたっけ)
悪戯好きな子供のように笑う涼夏を前に、向日葵は静かに奥歯を噛みしめた。
演奏が終わり、何とも言えない無言がスタジオを包み込む。ボーカルは、今の演奏で良かったのかと不安そうにあたりをきょろきょろ見渡し、楽器の面々は力の限りの即興演奏ですっかり疲れ切って、肩で息をしている。
拍手もなければ野次もない。
静寂を切り裂くように、蓮美の息切れした声が響く。
「……涼夏さん。答えを……ください」
「……そういう話だったな、そういや」
涼夏は、額に浮かんだ汗ごと前髪をかき上げて、しかめっ面を浮かべる。
少しの間、「あー」と唸りながら考えをまとめてから、小さく咳ばらいをした。
「結果だけどな――」
「最低な演奏をどうもありがとう」
涼夏の答えを遮るように、向日葵の拍手が部屋の中に響いた。疲れ切ったバンドの面々も、ダリアも、あっけに取られて彼女を見る。
「サマバケらしさを全部、根こそぎ潰してくれて、作曲者はきっと泣いてるわ。書いたのアタシだけど」
「あの……それは……ごめんなさい」
蓮美は、仮にも真面目に音楽に向き合ってきた人間として居た堪れない気持ちになり、思わす頭を下げる。
「アンタらに、サマバケの曲はムリ。てか、書いた人間として、こんなヒドいアレンジでカバーして欲しくない」
「う……」
「だから、曲、書いたげる。ちゃんとアンタたちの色に合わせたアレンジで」
何を言われているのか分からず、初めのうち、蓮美たちは目を丸くして向日葵を見つめていた。喜ぶでも怒るでもない微妙な反応に、代わりに向日葵の方が眉をひそめる。
「いらないなら良いけど? アタシも暇じゃないし」
「い……いやいやいや! 欲しい! 欲しいです!」
「そ。じゃあ東京戻ったら仕上げるから、待っときなさい」
食い気味に駆け寄って手を取った蓮美から視線を逸らして、向日葵は吐き捨てるように宣言した。
「もう一度、曲めちゃくちゃにしたら、承知しないから」
「それはもちろん!」
そうして、輝かしいばかりの笑顔で握って来る蓮美の手を、「痛い」と言われるまで力いっぱい握り返してやった。
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