第14話 カエルのがマシ
その日は、涼夏たちの新生バンドの練習日だった。街の楽器店の三号スタジオ。かつてサマーバケーションの根城だったその場所は、今や彼女たちの居場所となった。
備え付けのドラムセットに千春が座り、向かって右にサックスの蓮美、左にギターの涼夏。中央のボーカルの位置は空席のまま、三人でのアンサンブルがちょうどひと段落するところだった。
演奏が終わるとほとんど当時に、蓮美が大きく息を吐く。
「ごめんなさい……かなり間違っちゃった」
「いや、蓮美ちゃんよくサックスで吹いてるよ。私も原曲は聞いたことあるけど、サマバケのギターってかなりレベル高いでしょ」
千春がフォローしてくれるものの、蓮美は苦い顔で肩をすくめる。
ギターのレベルが高いのは、原曲を聞いた時点で彼女もすぐに感づいたことだ。涼夏の時にも思ったことだが、これが同世代の、しかも当時女子高生だった少女の演奏だと言われると、妙に落ち着かない気分になる。
蓮美は、練習用に原曲と、パートごとの音源と、楽譜の一式を涼夏から貰っていた。ただ楽譜が手書きのタブ譜だったこともあり、あまり役立てることが出来なさそうだったため、ギターのサックスコンバートに関しては、ほとんど耳コピで行うことになった。
そもそも楽器の構造が違うため、ギターではできるが、サックスではできない技法は多々ある。そういうところはサックスなりのアレンジを必要とされるため、蓮美が思っていた以上に重労働だった。
「うーむ……なんか、ぱっとしねーな。エグみが足りないというか」
あまりしっくり来ていないのだろう、涼夏も前髪をかき上げるようにしてから、そのまま頭頂部をボリボリと掻きむしる。ぱっとしないという評価に関しては、蓮美も同感というか、「だろうな」という感じだ。
現状は、元のギターパートをとりあえずサックスでひと通り吹けるようにしただけ。難しいところは簡略化し、いわゆる「手抜き」と言って良い部分も多い。
今日の合奏までにとりあえずの形にしたかったために仕上げたものだったが、蓮美自身も物足りなさを感じているところだった。
(今の感じじゃ、とてもじゃないけど涼夏さんのベースに喧嘩を売れない)
蓮美がサマバケの曲を改めて聞いた時、ほとんど喧嘩のような演奏だと思った。ギターもベースもドラムも、全ての主張が強い。それぞれが「自分が主役だ」と主張して前に出ようとしているかのようで、互いに合せようという意志を感じない。
なのにまとまっている。押しのけ合うわけじゃなく、ヨーイドンで一直線に駆け抜ける一〇〇メートル走のような。一着になったら今日の主役とでも言いたいのだろうか。とにかく、彼女たちなりのルールの中で喧嘩をしている。吹奏楽の世界で生きてきた蓮美にとって、初めての経験だった。
そして、自分がそのギターの代わりに選ばれたということは、目指さなければならない立ち位置というものも明白だった。自分は、涼夏に負けてはいけない。並び立つことで彼女を引き立て、同時に涼夏を自分の引き立て役ともする。
サマバケのギターが果たしていた重役を果たさなければならないのだ。
(うっぷ……そう考えると、お腹が)
重圧とストレスで胃の辺りがキリキリした。だが、喉元まで上がりかけた胃液を飲み込んで、蓮美は目の前に広げたお手製の楽譜に目を走らせ、ペンを取る。
(メロディラインを追うだけじゃダメだ。もっと自分を出していかないと)
サックスのことが分かるのは自分しかいないのだから、アレンジだって自分の手に任されている。これまで出来合いの楽譜でしか演奏したことのない彼女にとっては新鮮な音楽活動であり、少しだけ、楽しいとも感じていた。
「ところで……」
ぼさぼさになった髪の隙間から、涼夏の眼が部屋の一角に向く。視線の向こうでは、まるでそういうオブジェみたいにパイプイスに座って演奏を見学していた緋音が、目を輝かせながらパチパチと小さく手を叩いていた。
「なんでアイツは部外者みたいなツラで見学してんだ?」
尋ねる涼夏の声色は、怒っているわけではなく、単純な疑問を呈しているようだ。千春が苦笑して答える。
「とりあえず、ウチがどんなバンドか知ってもらうのが先決かなと思ったんですが。ダメでした?」
「知って貰うってほどの完成度じゃねーがな。それに歌も入ってなけりゃ、曲の全容すら見せられてねぇ」
涼夏はひとしきり愚痴りながら、傍らのギターケースから、ラベルのないCDとA4サイズの紙きれを取り出すと、緋音に向けて放った。
「原曲と歌詞だ。暇なら聞いとけ。まあCDは代わりに動画サイトでもいい」
緋音はぎょっとしながらも、恐る恐る手に取って、しげしげと眺める。
「そんな、今日は見学だけですし、無理させなくても」
千春が涼夏をなだめるように口を挟む。見学に連れて来たのは自分の手前、あまり緋音に嫌な思いはしてもらいたくないなというのが、彼女の本心だ。
「ボーカルがいなきゃ、いつまでもステージに立てねぇじゃねーかよ」
「緋音さんだって、まだやるって決めたわけでもないですし……そもそも、やりたいのかどうかも」
「やるよ、アイツは」
涼夏は、遠巻きに眺めながら断言する。
「アイツはやりたがってる」
「……本人に聞いたんですか?」
「いや。だが分かる。必要なのは、無理矢理にでもステージに立たせることだ」
「ううん……」
もちろん、そんなことを言われたって千春は釈然としない。ただ、少なくとも緋音は今日の見学に来てくれた。全くもって無関心というわけではないのだろうというのは、千春にだって解る。
しかし、それ以上に断言できるだけの判断理由が涼夏にあるのが納得いかなかった。もしくは、涼夏にしか分からない特有の匂いや気配を察知する能力でもあるのだろうか。
その点で言えば、千春の目からしても一流のサキソフォニストである蓮美を見出したという前例を加味できることではあるが。
「あの、涼夏さん……ひとつ良いですか?」
その蓮美が、楽譜に走らせていたペンを止めて、涼夏を見上げる。
「私……やっぱり、その、この曲の私たちなりの完成形みたいなのがまだ見えて無くて……」
「ああ、それで?」
「えっと……さっきの涼夏さんの話に戻っちゃうかもしれないんですが、仮にでもボーカルが欲しいなって……全容が見えるから」
「あー」
蓮美の言葉に、涼夏は少しだけ俯いて考え、すぐ顔を上げる。
「そりゃもっともだ。やっぱ、アイツに歌わせるか」
涼夏がくるりと緋音に目を向けたので、蓮美が慌ててそれを静止する。
「き、曲も聞いてないのに流石に無理ですよ。かと言って、私は楽器の都合で歌えるわけないし、千春ちゃんもドラムでいっぱいいっぱいだし」
「じゃあ、どうすんだよ」
「仮で良いので……! ほんとに仮でいいので、涼夏さん歌ってくれませんか!?」
一世一代の告白レベルの気合と共に、蓮美が涼夏に歩み寄る。
もちろん、バンドの方向性を知るためにボーカルを入れて欲しいのはその通りだが、それ以上に「元プロ」の歌唱というものに蓮美は興味があった。
前にその話をした時は「無理だ」と言われたものの、流石に謙遜だと思っていたし。確かにサマバケのボーカルの歌唱力はすさまじいものだったが、それと比べれば劣っているだけだろうと、勝手に高をくくっていたのである。
「確かに、涼夏さんが歌えるなら、とりあえずの練習はそれでもできますね。仮ドラマーの私と同じように」
意趣返しとでも言いたげに、千春が爽やかな笑みを浮かべる。
涼夏はふたりの顔を見比べ、それから視線を感じて緋音の方も向く。何やら面白いことが始まりそうな予感を感じたのか、彼女がまた隅の方で目を輝かせているのを捉えて、大きな、それは大きなため息をついた。
「まあ……諦めさせるにゃ、一回くらいかましてやった方が早いか」
「わー!」
蓮美も蓮美で、道端でアイドルに出会ったミーハーみたいに上ずった声で、パチパチと手を叩く。対する涼夏の方は、心底うんざりした顔で引きつった笑みで返す。
「言っとくけど、あたしに歌わせるんなら覚悟しろよ」
ほとんど死刑宣告の捨て台詞を吐いて、曲の頭からもう一度音を合わせることになった――が、曲の半分もいかないうちに、スタジオの中は死屍累々の地獄絵図と化していた。
「涼夏さん……下手すぎる……」
床に崩れ落ちた蓮美が、震える唇でそう溢した。後ろでは千春が青い顔で口元に手をあてながらしきりにえずき、部屋の隅では緋音が魂の抜けた屍のように真っ白に干からびていた。
唯一、正気を保ったままの元凶――涼夏が、面々を見下ろして「言わんこっちゃない」と舌を出す。
「な、なんでベースはそんな上手いのに、歌は最悪なんですか……音程も取れてなければリズムもひどいし……」
「音程とリズムが取れないからだな」
「だからなんで……うう……いっそ田んぼのカエルの方がマシ」
「ははん、ずいぶんな言いようじゃねーの」
蓮美の売り言葉に買い言葉の涼夏だが、自分の歌の下手さ加減は理解しているところなので、単に鼻で笑い返すだけに留めていた。
「これで分かったろ。あたしにボーカルは無理だ」
「そうですね……ボーカルの加入は必須だと思います」
こればかりは、蓮美も千春も二つ返事で同意せざるを得ない。涼夏にボーカルを任せるつもりでステージに立てば、客席は阿鼻叫喚になる未来しか見えなかった。
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