ロックにギターは必要ない!
咲樂
プロローグ ギターはいらねぇ
講義の時間などとっくの昔に終わった日暮れの大学で、
廊下を右に左に。階段を上に下にと駆け回っている間に、息はすっかりあがっている。散々逃げられたあげく、最後にたどり着いたのがトイレだったのが締まらないが、逃げ場さえなければそれでいいと、涼夏は喜んで扉を背に蓮美を睨みつける。
窓の外では、昼から降り続く雨がザーザーと庇を叩いていた。
ランナーズハイというやつだろうか。何も考えなくても、何をすべきか身体が勝手に動いていた。いや、むしろそれ以外の方法を涼夏は知らなかった。
怯えと戸惑いが見え隠れする蓮美をよそに、涼夏は抱えていた小型アンプを床にドカッと下ろして洗面台の下にあったコンセントに繋ぐ。それから、背中に背負っていたフェンダーのエレキベースにコードを回して、軽いチューニングを済ませると、気合を入れるようにネックを握りしめた。
「あの……涼夏さん、何を」
どんな場所であろうとも、生まれてこのかた何百回、何千回と繰り返してきた動作に淀みはない。蓮美の言葉なんて一ミリも聞いていない。重い荷物を抱えていたとは言え、自分がこれだけ息が上がっているのに同じだけ走って汗ひとつかいていない彼女に憤りこそ感じつつ、その感情もすべて四本の弦に乗せ、弾いた。
ボンッと、音がはじけるのを全身で受け止めて、蓮美は窓の外の雨も弾けたような心地がした。
お腹の底に響く、足元から叩き上げるようなサウンドが、場違いなトイレのタイルに反響する。障害物の多い空間で音は乱反射して減衰しそうなものだが、自己主張の激しい涼夏の音は個室の壁や便器なんて全部吹き飛ばして更地にして、自分のための空間を生み出したかのようだった。
あたしを見ろ。
あたしの音を聞け。
あたしがこの場の支配者だ。
言葉を発さなくても、音のひとつひとつに彼女の主張がありありと表現される。蓮美は、肺の中から漏れだそうとする呼気をぐっと飲み込んで、気圧されないようにと足元を踏みしめる。
「そんなことをされたって、私、吹けません……吹きません!」
雨と弦と、ふたつの音にかき消されないよう自然と声が張りあげる。楽器ケースを握りしめる手に力が籠った。どれだけ涼夏に迫られようと、蓮美は主張を変えるつもりはなかった。怖いものは怖いし、無理なものは無理なのだ。ソロで演奏するならまだしも、自分はもうセッションをやりたくない。やろうとしたところで心と身体を蝕む過去の過ちが、マウスピースを咥える唇を、楽器を支える手元を、情けなく震わせてしまう。演奏どころではない。だからこそ無理なのだ。
蓮美の頑固な主張に、涼夏は大きく舌打ちをする。それから返す言葉とでも言いたげに、より一層力強く、激しく、弦をはじき出す。
涼夏の演奏は、よほどのことがない限りは常にツーフィンガーの指引きだ。ピックを介しては、感情が弦に乗らない。それが彼女の口癖だった。弦と指先であらゆる感情を表現しようと練習を重ねた結果、二十歳になったばかりの女の子としては、人と握手することを戸惑うくらいにガッチガチでゴツゴツの指先になってしまった。
けれども涼夏自身は、そんな乙女心なんて一度も抱いたことも気にしたことも無かった。音楽で食って行きたいと考えているのなら当たり前のこと。職業病。誇りこそすれ、引け目に感じることなんて何ひとつない。
蓮美は、そんな彼女をどこか羨ましいとも思っていた。自分の人生にとって音楽は必要不可欠なものではない。必要とされなかったから辞めただけ。それでも、必要とされなくなってもなお、音楽を続けたいと思う涼夏のことが、心から羨ましかった。
「私……ダメなんです。先輩がそんなに求めてくれても……私は……」
応えることができない。それが蓮美にとっての一番の引け目だった。応えて良いなら応えたい。でも、身体が音楽に対して拒否反応を示す。
「ダメなんです……本当に……」
震える手で、それでも楽器ケースは落とさない。楽器は大事なものだから。自分の命よりも大切にしなければならないものだから。そう植え付けられた自分が憎い。今すぐ手にしたケースをトイレの床に投げ捨てて、涼夏を楽器ごと突き飛ばして逃げ出せたなら、どれだけ楽なことか。
でも、できない。
自分の楽器を大事にするように、彼女も彼女の楽器を大切に思っているはずだから。それだけはできない。だからこそ涼夏の通せんぼは意味があった。蓮美に少しでも音楽を思う心がある限り、逃げ出すことができない鉄壁の檻。
涼夏は、相変わらず一言も発せずにベースを弾き続ける。ことここに来たら言葉なんていらない。むしろ、言葉を尽くして意味がなかったからこそ、この狂行に至ったのだ。不退転の決意が彼女にはある。最後の手段。自分の音で蓮美の心を動かせないのであれば、自分はそれまでの人間なのだと。そう納得するだけの覚悟がそこにある。
逆に言えば、蓮美が首を縦に振るまで道を譲るつもりはない。納得するまで自分の音を浴びせ続ける。納得させるだけの自信もある。
かかって来いよ。
喧嘩売られてんだろ?
校舎の中では、まばらになった学生たちが何事かとトイレの方を見ている。一方で近づいて注意するような度胸がある人間もおらず、涼夏のゲリラ公演は傍若無人に響き続ける。
「本当にもう……やめてください!」
蓮美は、そう言葉を投げかけ続けることしかできない。暴力に訴えることができないから、ひたすらに声をあげる。でも「人間の言葉」に涼夏が答えることはない。ぐっと奥歯をかみしめた。いい加減、苛立ちも最高潮だった。一日中追い回されたあげくトイレなんかに閉じ込められて、ベースの音を浴びせされて、帰してもらうこともできなくて、いくら人のいい蓮美でも堪忍袋の緒がプッツン寸前だ。
涼夏は、本当に神経を逆なでする。出会った時からずっと、ずっと、ずっと。
セッションはやらないって言ってるのに、何度も、何度も、何度も。
ふつふつと湧きあがる憤りが鼓動になる。
鼓動は、涼夏のベースに重なる。
ドッドッ、ボンボン。
ドッドッ、ボンボン。
分かってんだろと、涼夏がしたり顔で挑発的な笑みを浮かべた。それを見てか、それとも音から感じ取ってか、蓮美は鋭い目つきで涼夏を睨みつけて楽器ケースを開いた。蓋を開けた瞬間に、金色の輝きが辺りに溢れる。切れかけで明滅する電球の光を受けるそれは、ふわふわしてお淑やかな大学生らしい蓮美の姿と似ても似つかない、重厚で攻撃的で、どこか勇ましさを感じるテナーサックスだった。
よどみない手つきでマウスピースを装着すると、サムフックに親指を引っかけて持ち上げる。出来物みたいに大きなタコのある彼女の親指は、どれだけケアを重ねていても、涼夏の指と負けず劣らずゴツゴツとした岩のようになっていた。
本気で音楽をやってきた人の手。
美しい手。
涼夏は目を見張ってベースのテンポを変える。より小刻みに鼓動を早めるように。より挑発的にジャブを打つように。そんな小手先のけん制を弾き飛ばすように、大きく息を吸い込んだ蓮美のサクソフォンが、雄たけびをあげた。
たった一声。力強い音の波が蓮美を中心に弾け飛んで、衝撃が涼夏の身体を突き抜けていった。ベースの音が吹き飛び、雨の音が吹き飛び、涼夏の耳に響いて皮膚の下の触覚いっぱいで感じるのは、蓮美の音と、蓮美の存在感だけだ。
蓮美は、ため込んだ憤りを吐き出すように激しいトリルを奏でた。癇癪をおこして、矢継ぎ早に文句を並べ立てているかのようだった。涼夏は、ぞくぞくする気持ちを抑えてもう一度ベースを構えなおした。音を紡ぐことが、この場に置ける彼女の返答だ。
二人が奏でる音は、決して合奏なんて生易しいものじゃない。お互いの主張をぶつけ合う、文字通りの喧嘩だった。テンポやコードを合わせるつもりもない。互いに互いの吹きたいように音を出すだけの、めちゃくちゃなセッション。
それでも不思議とどこか嚙み合っているようにも聞こえる。おそらくは根っこの部分が同じで、あえて言葉にするならば、音楽に捧げてきた時間と覚悟だった。
トイレどころか校舎を突き抜ける蓮美のハイトーンを締めくくりに、どちらからともなく演奏が止む。蓮美は肺活量めいいっぱいを出し切っての息切れ。涼夏は、単純な体力切れ。ゼーハーと肩で息をすると、額から滴る大粒の汗が、頬を伝って床のタイルに零れた。
ピチョン。
思い出したように外の雨音が耳に帰ってくる。涼夏が、薬でハイになったみたいにらんらんと輝く瞳で、熱い吐息を吐き出す。
「あたし決めたわ」
「はい?」
ハンカチで汗を拭いながら、怪訝な表情で首をかしげる蓮美。涼夏は、アンプを踏みつけるように片足を乗せて前かがみになっると、品定めするように蓮美を下品な上目遣いで見つめる。
「あんたでいく」
「は?」
「バンド」
「いや、わけが分からないです」
途方に暮れる蓮美に、涼夏はニィと八重歯をいっぱいに見せて笑った。
「ロックにギターは必要ねえ。これが、あたしらの音楽だ」
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