第1話 崖っぷち、高三の夏

「ベースが前に出るんじゃないわよ!」


 リハーサルの後に怒号が飛ぶのは、涼夏たちのガールズバンド『サマーバケーション』にとって半ば恒例行事だった。第一声はたいてい、ギターの向日葵ひまわりの一声から。バンドTが映えるラフなステージ衣装に身を包んだ彼女に、涼夏は澄ました顔で鼻を鳴らす。


「あたしの演奏に飲まれるお前が悪い」

「ベースが先走ってたら元も子もないでしょって言ってんの」

「先走ってるもんか。リズムもテンポも完璧だ」

「そういうことを言ってるんじゃなくって!」


 こういう時の涼夏は、たいてい怖いぐらいにクールダウンして、彼女なりの正論を吐き捨てる。事実として、涼夏のベースの腕は、同世代の女性ベーシストとしてはピカイチだ。本人も言う通り、リズムもテンポも完璧で非の打ちどころがない。そのことに関して向日葵は何も言えず、ぐぬぬと悔しそうに呻くだけである。

 しかしすぐに気を取り直して、涼夏の胸倉に食って掛かる勢いで迫る。


「バンドの顔であるアタシを立てろって言ってんの!」

「はぁ? いつからお前がバンドの顔になったよ」

「ギターでボーカルなんだから当然でしょ!?」

「ちょっと! これから本番前なのに、やめようよ~」

海月みつきこそ、ラストの転調後が雑だっていつも言ってるでしょ!?」

「ご、ごめん」


 仲裁に入ろうとした海月が、向日葵の言葉にしゅんとしてドラムスローンに腰を下ろす。外野の声がなくなって、向日葵は改めて涼夏を睨んだ。


「とにかく、本番じゃ大人しくしてよね」

「おーおー、せいぜいベースに食われないように気を付けるんだな」

「まっっっっったく分かってない!」


 向日葵はキーキーと金切り声をあげて地団太を踏み、涼夏がクツクツと小ばかにしたように笑う。それが、余計に向日葵の感情を逆なでする。


「バンドの足元を支えるのがベースの役目でしょ! 仕事をしなさいって言ってんの!」

「ベースがメインのバンドだってあるだろ」

「サマバケはそうじゃないでしょ! ギタボのアタシを中心にしたスリーピースでしょ!?」

「あたしはいつも通り弾いてるだけだし。それに負けるお前の実力不足なんじゃねぇの?」


 ふたりのやり取りをハラハラしながら見ていることしかできない海月の耳に、プッツーンと、何かが切れるような音が確かに聞こえた。それが、とっくに締めることを諦めた向日葵の堪忍袋の緒だと気づくのに、そう時間は必要なかった。


「あったま来た! もうアンタとなんかやってらんない!」

「ちょっと、向日葵ちゃん!」

「実力不足を棚にあげて好きにしたらいいさ」

「涼夏ちゃんも言い過ぎ……!」


 サマーバケーション――その名が最も輝く夏のフェス会場で、バンドの空気は極寒そのものだった。

 実力のある若い、いや、青い面子が集まれば、ちょっとのいざこざが大事になる。自分のこれまでに自信があるからこそ、譲れないものがある。それを彼女たちにとって青春という言葉で済ませるのに、メジャーバンドという立場は重すぎた。


 ――サマーバケーションは今日限りで解散します!


 ステージの最初に放った向日葵の爆弾発言に反対する者はメンバーに居ない。

 厳密に言えば、涼夏はノーコメントを貫き、海月は何か言いたげな口をついぞ開くことはなかった。


 高校三年の夏は、涼夏の十八年の人生においては最高潮だったかもしれない。

 それでも、ひとりのベーシストとしては最低の気分だった。


 サマバケ解散をきっかけに、すっかりやる気がなくなった涼夏は、その年の夏休みを実家でただひたすらに怠惰に過ごすことになった。思いのほか感傷はなかった。音楽への熱が冷めたわけではないにしても、ただ無心と空虚がそこにあるばかりで「これが燃え尽き症候群か」と柄にもなく自己分析をしてみたりした。


「それで、あんた進路どうすんの?」

「あ?」


 居間でテレビを眺めていた涼夏は、ソファーの背もたれごしに声のする方へ振り向いた。ふすまの向こうでは、旅館の事務室を兼ねた客間の机で、着物姿の母親がしきりに帳簿とにらめっこをしている。


「バンド辞めたってね、あんた高校は卒業するんだから、どうするか決めないと」

「あー、何も考えてねー」

「じゃ、ウチの手伝いしなさい。人件費も高くて、常に人手不足なんだから」

「安い小遣いでバカみてーに働かされんの見え見えじゃねぇか」


 涼夏は溜息交じりに返して、ソファーの傍らに立てかけた愛用のベースを手に取る。たった今、弦を張り替えたばかりのそれは、「今すぐ弾いてくれ」と言わんばかりに艶のあるボディを輝かせた。


「ちょっと休んだらまたバンド組むわ」

「バンドったって、働きもしないヤツを食わせる気はないよ」

「またメジャー目指すから」

「それまでは住所不定無職でしょう」

「家から追い出す気かよ」

「手伝う気がないなら自立して貰わないと」

「夢を追う娘に当たり強すぎんだろ」


 血のつながった母親へジト目で抗議して、彼女はベースの弦に指を走らせる。アンプに繋がれていない楽器は、蚊のなく程度の音しか奏でないが、涼夏の頭の中ではハッキリと、お腹の底に響く重厚な響きがリフレインしていた。


「あんた、大学行きなさい」

「は?」


 母親の唐突な提案に、涼夏は演奏を止めて振り返る。


「必ず音楽で食ってけるってわけでもないでしょう。あんたバカなんだから、大学出ておけば拾ってくれるところもあるわよ」

「だから実の娘に向かって……いや、否定はしないけど」


 大学――考えてもみなかった選択肢に、これ以上ない怪訝な表情を浮かべる。


「バカなら大学なんて受からねえって」

「半年近くあるんだから死ぬ気で勉強なさい」

「勉強する暇があるなら練習するわ」

「〝大学生〟という立場がある間、根無家は涼夏を支援してあげます」


 母親がいつの間にか帳簿を閉じて、姿勢を正して涼夏に向き合っていた。


「音楽が夢なのは知っています。でも、夢でお腹が膨れるほど現実は甘くありません。万が一のことを考えて、子供が将来後悔しない道の選択肢を与えるのが親の役目です」

「それもイヤだと言ったら?」

「家を出て好きになさい。今後一切、私はあなたの生き方に関与しません」


 言葉の尻の重さに、涼夏は母親のそれが戯言ではないことを悟る。そもそも、説教するときはいつも決まって敬語になるのが、涼夏の苦手な母親のクセだった。


「大学さえ出たら好きにしていいってこと?」

「自立できるだけの生き方を見つけられたのなら、好きになさい。それこそ音楽だっていい。他の道を見つけたっていい。何も無かったら、家に戻って旅館の手伝いをしなさい」

「結局同じじゃねぇかよ」

「その頃には、あなたも少しは大人になっているでしょう」


 涼夏は、言葉もなく唸った。仮にも一年半、プロとしてやってきた。音楽を続け、仕事にするためには、カネがかかることを彼女はよく知っている。高校生のうちに事務所というバックがついたサマバケは、そのきっかけも含めて、これ以上ない幸運に恵まれていたことも。

 適当にバイトでもしながら活動費を稼いでやっていこうと思っていたが、家を追い出されるとなれば話が変わる。家賃に生活費、その他もろもろ。バカなりに考えた涼夏の人生設計は、実家に居場所があることが前提だった。


「わかった……とりあえず受験はする。受かるかは知らんけど」

「よろしい。とりあえず塾の予約をしましょう。バカがひとりで頑張ったって結果は見えてます」

「少しは娘の可能性を信じてくれ」


 苦渋の選択だが致し方ないと思った。一年半で得た少ないギャラも、機材や遠征の費用で入った先から消えてしまったし。かといって都合よく稼げるだけのツテもない。

 何が十八歳から成人だよと悪態のひとつもつきたくなったが、大学に行ってそこでメンバーを集うのも悪くないなと前向きに考えられるのが、根無涼夏という女だった。

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