第2話 汗、黄金色に光る音
それから一年半後――涼夏は腐っていた。
別に、怠惰で自堕落な日々を送っていたわけじゃない。もともと不器用で、一か十かの生き方しかできない人間だ。文句を言いながらも塾に通い、高校一年の勉強からやり直す勢いで勉学に励み、どうにかこうにか地元の私大に合格を決める。全ては音楽活動に費やすモラトリアムのためと思えば、歯を食いしばるだけの根性もあった。
そうやって手に入れた大学生という身分の自由の中で、むしろ勢力的に、全力投球で、新たなバンド結成に向けて奔走した。しかし、彼女の熱量についてこれるメンバーは、そう都合よく現れなかった。
大学の軽音サークルは言うまでもなくダメ。ほとんどが出会いを求める軟派な人間ばかりで、涼夏は吐き気すら催す。多少真面目に音楽をやってる人間がいても、メジャーを目指す程の度胸と覚悟はない。もっとも、これは彼女もある程度覚悟していたことだ。
続いて、ライブハウスの知り合いを当たった。サマバケ時代の人脈を使うような形になるのが嫌だったが、背に腹は代えられない。学生サークルよりは真剣に、仕事として音楽をやってる人間が多かろうと、ベースを探しているバンドに声をかけて貰った。
「涼夏ちゃんさ……もう少し俺らに合わせる努力してくれないかな?」
ただ、どのバンドでも涼夏の最終的な評価はこれだった。みんな口を揃えて同じことを言うので、いつしか彼女の中で「これを言われたら潮時だ」というひとつの基準にまでなっていた。
「サマバケが上手くいかなかったのは俺たちとしても残念だけどさ、他でやってくってんなら大人にならなきゃ。涼夏ちゃん、実力は十分あるんだから」
インディーズ時代によくしてくれた、地元音楽シーンの重鎮にそんな説教も食らいながら、それでも涼夏は意思を貫き続けた。自分のやり方について来れるヤツを探す。居なければ、また別のバンドへ移るまで。
そうして新しい春が来るまでの一年間、根無し草になって転々とした結果が今だ。少なくともこの街の既存の音楽シーンで彼女の居場所はない。根無は涼夏の苗字で、名は体を表すなと、よく自嘲気味に笑ったものだが、今や根を張る場所すらなくなってしまった。
(どうしたもんかね)
講義室での退屈な座学の講義を聞き流しながら、彼女は手元のスマホとノートを交互に見比べる。ノートには、ライブハウスを通してかき集めた様々なバンドの名前と代表者の連絡先が列記されている。そのほとんどに、塗りつぶすような射線が引かれていた。
(移動は多少面倒だが、隣の県ならどうにかなるか……?)
流石に県内での一人暮らしは許してくれず、涼夏は都市部から少し離れた実家の温泉宿から毎日大学へ通っている。代わりに原付を買って貰ったので、通学の足に不自由はしなかったが、隣の県となると流石に骨が折れそうだ。
めぼしい箱のチェックを終えて、ひと息つくようにうんと背を伸ばしたところで、肘がコツンと何かを突き飛ばした。隣に座る学生の消しゴムだった。
「おっと悪い」
涼夏は床に落ちた消しゴムを拾い上げると、持ち主に手渡す。ふわりとしたガーリーなブラウスに身を包んだ彼女は、驚いたように肩を揺らしてから、摘まみ上げるように受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「おう」
ずいぶんな怯えように、何か気に障ることでもしたのかと心配になったが、特に思い当たらなかったのでそれ以上は考えることを止めた。
小柄であどけない――と言うよりも垢ぬけない少女だった。薄い化粧は、ナチュラルめを狙ってそうしているわけではなく、まだ慣れてないからといったように見える。買ったばかりらしいピカピカの革トートを鑑みても、おそらくは新入生だ。
意識していなかったが、気づいたら二年生になってしまったのかと、涼夏は残酷な時の流れに寒気を感じた。大学生活もあと三年しかない。焦りが滲む。
そもそも、せっかく消しゴムを拾ってあげたのに、あんな腫物みたいな反応をされるのは実に心外だと、遅れて怒りがこみあげてくる。件の学生は見たところ気が弱そうだし、新入生だろうということを鑑みても、上級生の、しかもブリーチでド金髪のバンギャに声をかけられるのは、恐怖でしかないかもしれないが。
もやもやする気持ちはあるが、いちいち腹を立てることでもない。ただ、バンドの行く当てがない状況と、下級生からの腫物扱いが重なって、少しだけ凹んだ。
本日の講義スケジュールが終わって、涼夏は街の楽器店へと原付を飛ばした。入口の重い硝子扉を蹴飛ばすようにして入店すると、お目当ての人物めがけてズカズカと店内を横断する。
「タツミさん、お願いがあんだけど」
「良くない相談の匂いがプンプンするけど」
タツミと呼ばれた四十代ほどの痩せた女性店員が、陳列作業をしていた手を止めて、怪訝な顔で振り返った。特徴的な大きな丸メガネの向こうから、気だるい視線が涼夏を睨む。
涼夏もムスッとした表情のままで、鞄から取り出した先ほどのメモ帳を、タツミの胸元に放った。
「ここに書いてある店に繋いで欲しいんだけど」
「やっぱ良くない相談だ」
「どこが」
「これまで紹介した店やバンド、いくつ出禁になった?」
「出禁じゃない。ただ演奏させてくれないだけ」
「それを世間じゃ出禁って言うんだ。繋いだ私の面目丸つぶれ」
タツミはため息交じりにメモ帳に目を通すと、さらに大きなため息を吐く。
「今度は県外? そこまで顔広くないよ」
「ひとつでも良い。足掛かりにして、向こうでタツミさんみたいな人を探す」
「そんでまた出禁を繰り返すわけだ」
「なりたくてなってるわけじゃねーよ」
「ふむ」
少しだけ考えて、タツミはメモ帳を涼夏へ放り返す。
「ダメ。近頃、なりふり構わなさすぎる。少し頭を冷やしな」
「なりふり構っていい音楽ができるならそうするわ」
「世のメジャーバンドは、たいてい弁えてるけど思うけど」
そう言うと、涼夏がバツが悪そうに唇を尖らせてそっぽを向いた。
「狭い世界だ、一度ついた悪評は一生ついて回る。そこを気にしてあげてるんだよ」
「そんなの、酒癖が悪かろうが、女癖が悪かろうが、薬やってようが、実力で黙らせる世界だろ。ロックってさ」
「Z世代が昭和みたいなこと言わないの。今どき、酒も女もドラッグも、そう簡単に許しちゃ貰えないよ。ロックって言葉を都合のいい言い訳に使うんじゃない」
その言葉に、涼夏は再び口を噤んでしまう。タツミは、そんな涼夏の頭をぽんぽんと撫でるように叩いてから、そのまま指先を下ろして額を小突いた。
「折れないなりに上手くやれる、身の振り方を考えろって言ってんだ。それが大人になるってこと」
「具体的にどうすりゃいいのさ」
「とりあえず、歩み寄る努力でもしてみたら」
「それじゃあサマバケは越えられない」
涼夏の言葉に、タツミは腕を組んで唸る。
「……とにかく、今はダメだ。代わりにスタジオタダで貸してやるから、それで我慢しな」
涼夏は不満そうに、しかし自分を無理やり納得させるように床を蹴る。
「三号室」
「はいよ……って、悪い。三号だけ埋まってる」
「はぁー? 三号の機材がイチバン相性良いんだけど?」
「好意にダダこねるんじゃない。一号にしときな」
レジスペースに入ったタツミが、キーボックスから手書きで「1」と書かれたタグのついた鍵を取り出し、涼夏に向けて放る。胸元で受け取った涼夏は、鼻息を荒げながら店の奥の階段を降りて行った。
楽器店の地下は、予約制の練習スタジオになっていた。全部で三部屋あり、それぞれ一号から三号の部屋番号が与えられている。番号が若いほど部屋が広く、設備もしっかりしている――のだが、涼夏は妙に三号を気に入っていた。比較的狭いと言っても、備え付けのドラムセットもあるし、バンドの練習をするにはちょうどいい。何より、この部屋のアンプとスピーカーから出る音が、ちょっと古臭いものの涼夏の好みに合っていた。
サマバケのメンバーでよく練習をしたのも、この三号だ。
思い出が詰まっている、と言うよりは、練習場としては実家のような安心感と語るのに近い。
(タダに文句を言えねーのはその通りだけど)
三号スタジオの前を通る時、分厚い防音扉のガラス窓からちらりと中を覗く。いったい誰が自分の聖域を侵しているのかと、ムカッ腹から来る興味だった。
スタジオの中の人影はひとり分だけだ。その姿に、涼夏は見覚えがあった。
今日の講義で消しゴムを吹っ飛ばしてしまった、隣の席の下級生……らしき少女。垢ぬけず、頼りない雰囲気を漂わせていた彼女が、一心不乱に金色のサクソフォンを奏でていた。
涼夏は虚を突かれて、まじまじとその様子を見つめてしまう。見たことある人を自分のテリトリーで見かけたせいもあるが、怯えた小動物のような彼女と、武骨なサクソフォンとの取り合わせがあまりにミスマッチで、それでいて〝意外性〟と言う意味でド直球にハマっていた。
防音扉ごしでは、重そうな楽器を振り回す姿しか確認できないが、それだけで不思議と目を奪われる迫力がある。
遠巻きなのに、ステージをかぶりつきで見ているような充足感がじわじわと身体を満たしていく。無意識に、涼夏は三号スタジオのドアノブに手をかけていた。
聴きたい。
額を汗で光らせながら演奏する彼女が、立ち姿だけで目を惹く彼女が、いったいどんな音を奏でているのか。抑えきれない興味と、邪魔をすることで演奏を止めてしまうのではないかという心配を天秤にかけ、涼夏は興味の方を取った。
と言うより、考えるまでもなく、ドアノブにかけた手はいつの間にか扉を開放していた。
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