第3話 好きだ!
開く扉の隙間から、風が吹き抜けるように音があふれ出す。狭い部屋の中にパンパンに詰め込まれていたであろう音が弾け、涼夏はその全てを真正面から一身に受け止める形となった。
パーンと弾けるテナーサックスの落ち着いた音色。清々しい高音が、全身の穴という穴から、涼夏の身体の中に入ってくるかのようだった。
彼女にとって、サックスの演奏はあまり身近なものではない。中高のころの吹奏楽部の演奏や、あとは、ライブハウスで見るおじさんのジャズ系バンドの演奏ぐらい。その音色や技術の良し悪しを語る言葉は、全く持ち合わせていない。
だからこそ頭を空っぽにして、素肌で彼女の演奏に飛び込む。
――好きだ。
入り込んで来た音を押し出すように、たったひとつの素直な感情が、毛の先から指の先までを満たしていく。
「好きだ!」
「ひゃっ!?」
溢れて、溢れて、身体の中に抑えきれなくなったパッションが、言葉となって口から飛び出した。少女は肩を揺らして飛び上がると、弾かれたように振り返る。大きく見開かれた瞳には、らんらんと目を輝かせる涼夏の姿が映し出されていた。
「えっ……な、なに……だれ?」
「欲しい」
「はい……?」
怯える少女をよそに、涼夏は大股で彼女に近づく。そのまま諸手で彼女の腕を掴むと、ぐいっと目と鼻の先まで引き寄せた。
「あたしとバンド組ま――あいたっ!?」
言葉の途中で、涼夏の脳天にゲンコツが振り下ろされた。音が地上にも漏れていたのだろう。眉間に皺を寄せたタツミが、真っ赤になった拳を痛そうに振っていた。
「他の客に迷惑かけんじゃないよ。すいませんねえ。このバカは、こちらで引き取りますんで」
「はあ……?」
「ちょっ、今、大事な話を」
「タダ飯喰らいよりも、金を貰ったお客様を大事にするのが店の流儀だ」
「そんなんどうでも――」
涼夏は居座る気満々だったが、タツミは問答無用で彼女の首根っこを掴むと、ズルズルとスタジオの外へと引っ張り出していく。その様子を、サックスの少女はぽかんと口を開けて見送ることしかできなかった。
「おま……大学! 覚えてろよ!」
そんな涼夏の残した言葉の意味も、知る由は無い。
翌日、涼夏は午前中の講義を全てサボって学食の一角を陣取っていた。ご飯を食べるでもなく、傍らにベースをケースごと立てかけ、イライラした顔で入口の方を穴が開くほど見つめている。
異様な空気に、彼女の居る一角だけ人が避けたように席が空いていた。もっともそれはほんの一時のことで、正午を回るころには昼食を食べに来た学生たちで否応なしに席が埋まり始めた。
周囲がナポリタンやら、ラーメンやら、カレーやらの匂いに包まれ始めたころ、涼夏はようやくお目当ての姿を見つけて勢いよく駆け出した。
「おい、お前!」
「へ……!?」
突然背後から肩を掴まれ、券売機の列に並んでいた少女が驚いて振り返る。彼女は、そこにあった涼夏の顔を見て「あっ」と小さく声をあげた。
「あ、あの……昨日、楽器店に居た」
「あたしとバンド組め」
「え? え?」
脈絡のない申し出に、少女は目を白黒させて固まってしまう。列は彼女たちのところで流れが途切れて、後ろに並ぶ学生たちが不満げに様子を伺っていた。
その中からひとり、肩をいきらせて飛び出した学生が、涼夏の腕を横から掴む。涼夏よりも高い身長にボーイッシュなショートヘアが似合う彼女は、鋭い眼光で涼夏を睨む。
「ちょっと、何してんですか」
「あっ……
少女は彼女の顔を見て、ほっとしたように名前を呼ぶ。涼夏は、千春と呼ばれた学生に視線を向けると、真っ向からメンチを切り合った。
「大事な話をしてんだ。関係ねーヤツは引っこんでろ」
「列、つっかえてるんで迷惑です。あと、私は彼女の友達なので、関係なくないです」
「赤の他人じゃねぇか」
「あなただってそうですよね?」
「あたしは――」
いや、そう言われたらその通りか……と、思わず素に戻って考え耽っているうちに、千春は涼夏の手から少女を引き寄せるように奪い取る。
「あっ、お前!」
「行こ、蓮美ちゃん」
「う、うん」
少女――蓮美は、千春に手を引かれて足早に学食を去って行った。涼夏は後を追いかけようとするものの、ランチタイムにわっと押し寄せた学生の波にもまれて叶うことはなかった。
「ちっ」
そして舌打ち交じりに、目当ての少女の名と、邪魔した学生の名前を記憶に刻み付けた。
一方、学食を去った千春と蓮美は、大学本館のエントランスを歩きながら何とも言えない空気を漂わせていた。
「何なのさっきの人。失礼にもほどがある」
ムカッ腹を露わにする千春に対して、蓮美はまだ状況が飲み込めていない様子で落ち着きがない。
「さっきの人、知り合い?」
「知り合いって言うか……昨日、楽器店で会った人。その前にも、どっかで会ったような気がしないでもないけど……」
蓮美のその感覚は正しいが、楽器店の前に講義室でニアミスしていることは、流石に記憶に残ってはいない。ただ何となく、あのギラついた金髪に見覚えがあるくらいのものだった。
「楽器店って……蓮美、まだサックス続けてたの?」
千春の言葉に、蓮美はドキリとして視線を泳がせる。
「続けてるって言うか……その、たまに音出してあげないと。楽器、痛んでないか確認で……痛むのはイヤだから」
「あー、その気持ちはわかる――って言っても、私は自前の楽器持ってたわけじゃないけど」
言いながら千春は、エアのスティックを両手に軽やかな手つきで楽器を叩く真似をする。それを見て、蓮美はようやく笑顔を浮かべた。
「打楽器パートは楽器絞らないもんね」
「細かい得意不得意はあっても、基本的には何でも屋さんだからね」
今度は手のひらで叩く系の演奏の真似をして、千春はニヘラと笑う。
「でも、そっか。蓮美、音楽のこと完全に忘れたわけじゃなかったんだ。良かった」
嬉しそうに語る千春に、蓮美は寂しそうな顔で俯く。
「怖い……けど、音楽は悪くないから。ひとりきりで向き合うのは良いけど……たまになら」
「……そっか」
蓮美の様子に踏み込み過ぎたのを感じて、千春はその一言だけで頷く。それからすぐに話題を変えるように、うんと背伸びをしてみせた。
「ランチ食べそびれちゃったね。購買行く?」
「あんまりお腹空いてないからいいかな。千春ちゃんが買いたいなら、一緒に行くけど」
「こらっ、食べないと育つモンも育たないぞ」
「えぇ……わたし、中学で成長止まっちゃったし」
「それは、今だに年数ミリ伸びてる私への嫌味?」
「そ、そう言うんじゃないけど」
「パンのひとつでも食べなきゃ倒れちゃうよ。ほら、いこ」
千春に手を引かれて、蓮美は強引に購買へと連れていかれた。さっきの人――涼夏の強引さは苦手だが、千春の強引さはそれほど苦手ではない。それは友人としての温もりを感じるからかもしれないが、同時に中学時代の楽しかった思い出が蘇るからだ。
あの時も蓮美は、こうして千春に手を引かれていた。高校が別々になってしまったのは残念だったが、大学でまた一緒になれたのは、蓮美にとっても喜ばしいことだった。
高校生活……早いところ忘れてしまいたい、悪夢の三年間。
そのためにも、二度と人目につくところでサックスを吹くまいと、蓮美は心の中で固く誓った。
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